1944バルト海海戦21
近距離からレーダー照射を受けた。英国本土で行われた慌ただしい改装工事で追加されたばかりの最新の逆探で得られたそのような情報を伝えられたキャンベラの艦橋は、一瞬で混乱に陥っていた。
重巡洋艦キャンベラを旗艦とするアンザック艦隊を率いるカナンシュ少将は、浮足立った様子の艦橋要員に苦虫を噛み潰したような顔になっていた。
ただでさえ普段から峻厳な態度をとることが多いカナンシュ少将が険しい顔になっていたものだから、ふとした拍子にキャンベラ艦橋の少将を見てしまった若い将兵などは、ひどく怯えたような表情を浮かべていた。
カナンシュ少将が率いるアンザック艦隊は、最近になって編成された部隊だった。その名の通り英国指揮下のオーストラリア及びニュージーランド海軍の艦艇を集成させた艦隊だったのだ。
今次大戦においても、先の欧州大戦同様に両国が派遣した地上部隊は、共通の部隊であるアンザック軍団として一纏めにされていた。というよりも、規模の小さなニュージーランド軍単体では、単一の軍団を構成することが出来なかった為なのだろう。
理由はどうであれ、オーストラリア軍とニュージーランド軍は、英国軍などから配属された支援部隊などを含むものの軍団規模の派遣部隊を構成してある程度の独自性を持って英国本土やカナダ軍などと共に戦っていたのだ。
その一方で、海軍艦艇は最大でも戦隊単位に分割されて英国海軍の中に組み込まれてしまっていた。オーストラリア海軍艦艇が独自に作戦行動を行うことはなく、これまではその多くの艦は船団護衛部隊の一戦力として運用されていたのに過ぎなかった。
元々、ニュージーランド海軍は勿論、オーストラリア海軍も艦隊の規模は小さかった。両国海軍艦艇の双方を合わせても10隻程度にしかならないし、その中でもケント級重巡洋艦のキャンベラが最大の艦で殆どは駆逐艦以下の艦艇だった。
しかもオーストラリア、ニュージーランド海軍の艦艇で新造されたものはほとんど無かった。キャンベラを含む大半の艦艇は、英本国海軍で使用されていたものを売却されたり、あるいは移籍してきた経歴を持つといういわば中古の艦艇に過ぎなかった。
これまで英海軍地中海艦隊に組み込まれていた駆逐艦ヴァンパイアの様に、先の欧州大戦時に建造された老朽艦も少なく無かったのだ。
ただし、規模は小さく、まとまって運用されることもなかったものの、ドイツ軍の宣伝放送が言うように彼らは屑鉄艦隊と蔑称されるような存在ではなかった。
幾度も船団護衛に投入された艦艇は、派手な戦果こそなかったものの、黙々と英国本土の困窮を救うために運行される輸送船団をその身を呈して脅威から守ってきたからだ。
それに英海軍の艦隊に編入された艦の中には、最前線に投入されたものもあった。地中海艦隊の分派部隊であるK部隊に配属された老朽駆逐艦であるヴァンパイアは、新鋭艦が続々と配属されては消耗されていく過酷な前線を生き延びてアンザック艦隊に編入された古強者だった。
当時K部隊の指揮を取っていたカナンシュ少将も、それまで損害を被っていたとはいえヴィシー・フランス海軍の有力な重巡洋艦に対して、ヴァンパイアが鮮やかな雷撃を行ってとどめを刺す所を目撃していたほどだった。
もっとも、ある意味でオーストラリアやニュージーランド海軍艦艇の活躍を最も評価していなかったのは、彼らを送り出した両国の人間たちだったのかもしれなかった。
彼らの比較対象となっていたのは、英国海軍以上に最前線で華々しく戦っているように見える強力な日本軍だったからだ。
日本軍が今次大戦において欧州に派遣した戦力は大きかった。陸軍の戦略単位である師団の数こそ7個程度とさほどのものではないように思えたものの、1個師団あたりの規模が他国のそれよりも大きい上に、独立砲兵団や補給段列など潤沢な支援部隊を含む為に国際連盟軍地上部隊の有力な戦力だった。
これを支援する航空戦力も大きかった。英国本土に駐留する第2航空軍とは別に、日英混成とはいえ1000機程度の各種航空機を有する第3航空軍が地中海戦線の主力として展開していたのだ。
これだけではなかった。上陸用艦艇である輸送艦まで含めれば有に100隻を超える日本海軍の艦艇が、第1航空艦隊として地中海戦線の主力艦隊として戦っていたのだ。
勿論第1航空艦隊は数だけが多いわけではなかった。オーストラリア、ニュージーランド海軍が現在保有していない戦艦、空母といった主力艦だけで10隻を越えていたからだ。
オーストラリアの一般国民からすると、国際連盟軍の中でも日本軍は目立つ攻勢を担当しているように見えているらしい。
開戦直後から英国本国に倣ってドイツに宣戦布告したオーストラリア政府は、北アフリカ戦線の初期から師団級の大規模な部隊を送り込んでいたものの、彼らの損害は大きかった。
これまでの戦闘による損害や戦況などからすると、枢軸国の中核であるドイツ政府は相当の予算と時間をかけて戦前から戦力の整備を行っていたようだった。
開戦時期を以前より定めて一斉果敢に攻勢を開始したのだろう。開戦初期のドイツ軍の勢いはそれほど凄まじいものだったのだ。
しかし、ポーランド、フランスと相次いで敵国を陥落させ、更に戦線を北アフリカやバルカン半島にまで進めて破竹の進撃を続けていたように見えたドイツ軍だったが、1942年頃には早くも戦略的な攻勢限界が訪れていた。
いち早く戦時体制に移行したとはいえ、ドーバー海峡を巡る航空戦、地中海沿岸、そして対ソ戦といくつもの戦線を抱えたことでドイツ軍の予備兵力は枯渇していたのだ。
元々、工業生産力などで枢軸国側は劣勢にあった。国際連盟側諸国やソ連などの他の参戦国がドイツに遅れながらも戦時体制に移行していたことで、同国が開戦前に準備していた優位性も失われようとしていたのだ。
その一方で先の欧州大戦の時とは異なり、国内事情などから日本帝国の参戦は開戦から間が空いていた。そのために、アフリカ戦線の中盤からとなった日本帝国の本格的な参戦はこの枢軸国の戦線縮小と同時期になっていた。
意地悪い見方をすれば、開戦直後の強大なドイツ軍を相手にすることを避けて、日本帝国は労せずに勝利を手にしたということになるのではないか。
それだけではなかった。オーストラリアが不満に感じているのは日本帝国に対してだけでは無かった。忠誠を誓ったオーストラリアの貢献を宗主国である英国の方はひどく軽視しているのではないか。あるいは、不当に日本帝国を高く評価しているとオーストラリアは考えているようだった。
彼らがそう考える根拠がないわけではなかった。欧州に派遣した総戦力で言えば日本帝国はオーストラリアよりも大兵力であったものの、人口比となるとこれが逆転していた。
日本帝国の人口は7千万を超える程度だが、オーストラリアのそれは欧州からの移民を積極的に受け入れ続けているとはいえ未だに400万程度でしかなかった。
そのために陸軍だけ見ても2個軍団程度を基幹戦力とする部隊を派遣した日本陸軍よりも、1個軍団を送り込んだオーストラリアの方が人口比率という意味では大きく貢献しているというのだ。
ただし、カナンシュ少将はそのような見方には同意しかねていた。というよりも、オーストラリア人には重要な視点が欠けているような気がしていたのだ。
日本帝国の本土では以前から工業化が進んでいた。カナンシュ少将自身は日本本土を訪れたことはないが、英国本土の最新工場に匹敵するような機能を持つ設備が豊富に立ち並ぶ工場も少なくないらしい。
その工業力を活かして、日本本土では生産に高度な技術力を必要とする弾薬などの各種軍需品の生産が進められていた。
英国企業の中にも疎開としてインフラ網など設備の整った日本本土に一部機能を移転させるものもあったし、ランカスターやスピットファイアなどの各種主力航空機から戦車にまで搭載されているマーリンエンジンの様にライセンス生産されているものも少なくなかった。
対してオーストラリアはその人口の少なさもあって工業力は貧弱なものでしかなかった。小銃や短機関銃程度の小火器ならばともかく、大口径の野砲などの重火器ともなれば自国内での生産は難しいのではないか。
むしろ、オーストラリアは、亡命政権統治下の東南アジア植民地と同じく資源供給地帯として期待されていた。オーストラリアや海峡植民地などから日本本土の工場群に運ばれた原材料を元に各種軍需品の生産が進められていたのだ。
もっとも、実際に貴重な若者たちの多くを戦場に送り出したオーストラリア人からすれば、それもまた日本人が血を流さずに不当に国益を得ていると感じているのではないか。
何れにせよ、アンザック艦隊が設立されたのにはオーストラリア人たちのそのような考えが根底にあると見て良かった。
オーストラリア人の嫉妬と切り捨てるには簡単だったが、ことが理屈では済まない感情的な話なだけにアジア圏における貴重な邦国であるオーストラリアを疎かにはできないと軍上層部は考えたのだろう。
あるいは、単に戦力的に余裕が出てきた為にオーストラリア、ニュージーランド海軍の艦艇を船団護衛から外しても差し支えないと考えられただけかもしれなかった。
開戦直後は貧弱極まりないものだった英国海軍艦隊の陣容は、現在では格段に強化されていた。戦艦や空母と言った大型艦はともかく、続々と就役する護衛艦艇が充実していたのだ。
その中には開戦に前後して計画されていた戦時急増艦であるフラワー級コルベットやリバー級フリゲートなどと共に、護衛空母などの日本海軍から貸与された艦も含まれていた。
最近では、乗員の数に対して就役した艦が多すぎて、本国やカナダだけではなく、インドやオーストラリアにも貸与が検討されていた。
新たに就役した各種護衛艦艇には強みがあった。戦時急増計画に組み込まれて大量に建造された艦だから操舵性などの性能が揃っており、急遽徴募された未熟な乗員や予備士官が操っても、揃って艦隊行動を行うのが容易だったのだ。
それに対してオーストラリア海軍などが運用する艦艇は、老朽化している上に艦級がばらばらだったから、緻密な艦隊行動をとるには不向きだし、補給のタイミングや予備品の種類なども揃っていないから、貧弱な船団護衛部隊の司令部では事務仕事も面倒が多かったのだ。
最終的にどれが決定的な理由となったのかは分からないが、艦隊司令部はこの局面になってアンザック艦隊の独立運用を認めていた。
重巡洋艦キャンベラなどの船団護衛部隊以外の部隊に配属されていた艦を合流させたアンザック艦隊は、艦隊行動の訓練を英国本土近海で行ってから、今回の作戦に投入されていた。
ただし、アンザック艦隊の司令官に任命されたのは、英国海軍に所属するカナンシュ少将だった。オーストラリア、ニュージーランド両国海軍とも大規模な艦隊を率いて戦闘に望んだ経験は全くなく、多国籍の艦隊と共同作戦を取る際に必要不可欠な調整能力を有していなかったのだ。
それに独立して運用されると言っても、アンザック艦隊は10隻程度の英海軍で言えば戦隊規模程度のものでしかないから、英国海軍か日本海軍の指揮下に組み込まれる形にしかならないはずだった。
それで艦隊の指揮官や司令部要員の多くは英国海軍から抽出した将兵が配属されることになったのではないか。
カナンシュ少将は、先の欧州大戦にも従軍した経験を持っていた。今次大戦においても地中海艦隊から分派した機動部隊であるK部隊を率いて激戦をくぐり抜けていた。
しかも若い頃には日本海軍の部隊で連絡将校として勤務した事もあったから、国際色豊かになってしまった国際連盟軍内でアンザック艦隊を任せられる要員だと判断された、と表向きはなっていた。
カナンシュ少将自身はそのような説明は単なる欺瞞に過ぎないと考えていた。実際にはこれまでの戦闘でK部隊に大きな損害を出した少将に対する懲罰人事ではないか疑っていたのだ。
それに地中海戦線における終盤において行われたニース上陸作戦において、K部隊は出撃した最後のヴィシー・フランス艦隊の殲滅を増援の日本海軍部隊と共に成し遂げていたが、同時に行われていた組織的なヴィシー・フランス海軍潜水艦による襲撃で自由フランス軍主力を乗船させた輸送船団に大きな損害が生じていた。
その時の船団の指揮は、直接カナンシュ少将がとっていたわけではなかったのだが、あまりに強大だったドイツ軍が講和の条件としてフランスから去ろうとしている現在、失われた自由フランス軍主力の存在はフランス国内における政治的な失点となりつつあった。
カナンシュ少将は国際連盟軍の一翼を担う自由フランス軍からすると煙たい存在のはずだった。ヴィシー・フランス政権、国内残留レジスタンス各派などと政争を開始した自由フランスにとって権力の背景となる実働戦力の欠如は大きな痛手だったからだ。
カナンシュ少将がそのような考えに至ったのには理由があった。アンザック艦隊やその旗艦であるキャンベラ乗員の練度は英国海軍のそれと比べると著しく劣っていたからだった。