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1944バルト海海戦17

 被雷後の戦艦武蔵が発揮可能と通告してきた20ノットという数値は、分艦隊司令部にしてみれば判断に迷うものだった。

 鈍足の輸送船団に随伴するには十分なものだったが、これから水上戦闘が発生する可能性が高い状況で戦艦部隊に編入するには、その速力が足手まといとなるかもしれなかった。


 ただし、艦隊が武蔵の速力に合わせるのであれば、この程度は許容範囲内だとも言えた。確かに戦術的には速力の低下は不利とはなるが、どのみち動揺が激しくなるから最大速力で航行しながら戦艦が連続して主砲を発砲することなどほとんど無いからだ。

 状況からしてこちらは船団やゴーテンハーフェンの港湾を防衛しながら戦闘を行うことになるのだから、早期に接敵することよりも大和型戦艦1隻という戦力の確保を優先すべきなのかも知れなかった。


 細谷大尉は、そう考えながら瞑目する栗田中将を見たのだが、脇に控える戦務参謀が先に口を開いていた。

「本当に武蔵は20ノットも出せるのかな……」

 おそらく独り言のつもりだったのだろうが、指揮所に集まっている参謀達の多くがその独り言を聞きつけて戦務参謀に怪訝そうな顔を向けていた。



 改修工事で大和艦内に増設された指揮所は狭苦しい場所だった。

 部屋の面積そのものは艦内でも広く取られた場所だったのだが、大面積の態勢表示盤や電探表示面、そしてそれらを操作する将兵を詰め込んだ結果、司令部要員が勢揃いするとひどく狭く感じるようになってしまったのだ。


 様々な機材で埋め尽くされて狭苦しい指揮所の室内には騒音が満ちていた。電探表示面など発熱する電気品が多いものだから、それらの作動効率を上げるための冷却機などが常に稼働していたからだ。

 それにも関わらず司令部に割り当てられた区画は狭いから、他のものの言ったことを聞き逃すことは少なく、それどころか独り言さえうかつには口に出せなかった。



 電探や目視観測などで得られた情報を一箇所に集約して指揮官や参謀に図示する指揮所の概念は、元々英国本土防空戦で防空戦闘の指揮を取るために設けられた司令部の機能を原型としていた。


 先の大戦後に流行した爆撃機理論では、侵入時期や方位を自由に定められるために、爆撃機など攻撃機側は防衛側よりも有利と考えられてきた。ところが、

最近では電探などによって防衛側もより広範囲な索敵手段を手にして対抗していた。

 ただし、電探に加えて整備された電話網などの通信手段は、司令部に流入する敵味方の情報量を膨大なものとさせていた。そのままでは、指揮官も幕僚も情報の洪水に流されてしまうだけになったのではないか。

 あるいは、三次元に広がった上に展開速度の早い航空戦を始めとした近代戦を効率よく管理するには、一人の人間の能力では追いつかなくなっていたと考えるべきかも知れなかった。



 だが、この防空司令部の能力は高い評価を受けたものの、これをそのまま戦闘艦に載せるのは難しかった。不動の地上、地下施設であればいくらでも捻出できる空間そのものが艦上では容易には確保出来なかったからだ。

 日本海軍で始めて現在のような指揮所を設けたのは、軍艦ではなく本来は徴用された特設巡洋艦だった。正確には特設巡洋艦興国丸は、建造途中で徴用されたものだった。原型となったのは大型の高速客船だったから、艦内には本来は客室や各種公室として使用される筈だった空間があった。

 平和な時期が続けば、瀟洒な内装に整えられて着飾った紳士淑女達がくつろぐ筈だった部屋が、英国本土の防空司令部がそのまま移転してきたかのような無骨な指揮所になっていたのだ。


 しかしそのような大部屋を用意できたのは、興国丸が物や人を積み込むために設計された商船を原型としていたからだった。戦闘や長期間の哨戒を前提に各種兵装などの艤装品を詰め込んだ戦闘艦にはそのような余剰の空間はなかった。

 その後も何隻か艦隊旗艦用や艦隊前方で戦闘機隊を指揮する前哨艦などに相次いで指揮所が設けられた例があったが、それらはいずれも興国丸に艤装された指揮所の運用実績を元に過剰な機能を削ぎ落とした簡易型とでも言うべきものだった。



 それに、特設巡洋艦でしかない興国丸を艦隊旗艦とするには問題があった。

 元々が徴用艦でしかなく、どんなに拡大解釈しても軍艦籍に入れられそうもない興国丸が、戦艦や空母など菊の御紋をつけた正規の軍艦を指揮するという法的な問題は置いておくとしても、基本的な構造が貨客船でしかない特設巡洋艦では高速で海上を疾駆する機動艦隊の指揮を取るのは難しかった。

 結局、現在の第一航空艦隊には、旗艦用の重巡洋艦、軽巡洋艦が一隻づつ配属されていた。巡洋艦分艦隊旗艦の重巡洋艦鳥海と艦隊旗艦の軽巡洋艦大淀だった。

 この二隻は、どちらも使用用途を変更させた大空間を確保する改装を受けていた。鳥海の場合は、損害復旧工事の際に破損した砲塔の代わりに広大な甲板室を設けていたし、本来は潜水艦隊指揮用に建造されていた大淀は開発中止となった長距離水上偵察機用の大型格納庫内を司令部施設に作り変えられていた。


 だが、この二隻の改装はいわば偶然によって生じたものでもあった。大淀の場合は水上機の運用自体が下火になってきていたためという側面は無視できなかった。

 鳥海も、損害復旧工事に手間暇のかかる主砲塔バーベットが大侵害を受けたためにより工期の短くなる指揮所増設が取られたとも言えた。



 理由はどうであれ、指揮所の機能は高く評価されていた。これまで第一航空艦隊は、地中海沿岸で状況が混乱しがちな上陸戦闘に伴う対地攻撃を主に行っていたが、これまでの所は旗艦に増設された指揮所はその混乱を最低限に納めていたとも言えた。


 最近では、改装工事による増設ではなく、新造時から指揮所機能を備えた艦も増えていた。

 戦時量産型とも言える松型駆逐艦は、ブロック建造を大々的に取り入れた際に、ブロック単位の入れ替えで容易に改設計が可能な用に計画されていたのだが、原型とも言える量産性を高める為に装備を極限した形だけでは無く、最近では水雷戦隊に配属される為に建造された高級仕様とも言える艦も増えていた。

 相次ぐ電探や各種兵装の増備を見越して艦体の大型化や機関の大出力化が図られていたのだが、そのような艦では当初から艦橋構造物を大型化して電探室や駆逐艦用に簡易化されたものとはいえ指揮所まで設けていたのだ。


 これに伴い同時に奇妙な事態が発生していた。大規模な戦闘、それこそ国家の存亡を賭けた一大決戦において全軍の指揮を取るべき戦艦が一番情報処理能力に劣るという事になってしまっていたのだ。

 建造期間の短い安価な駆逐艦や、改装工事の機会があった巡洋艦とは異なり、おいそれと数の少ない戦艦の改装工事を行なう機会はなかったからだ。それに大型艦であるにも関わらず戦艦には意外なほど空間には余裕がなかったのだ。



 理想的には、艦隊指揮官が在室する指揮所は、分厚い防弾鋼板に囲まれた防御区画内に収めるべきだった。

 ところが、実際には砲撃や航行に必要不可欠な各種機材やそれを操作するのに足りるだけの将兵を詰め込んだ防御区画の内部には、指揮所を増設できるだけの余裕など無かった。

 というよりも、戦闘能力の継続に必要不可欠な最低限の機材のみを防御することで区画を極限、言い換えれば重量のある防弾鋼板の使用量を最小限とする事が戦艦設計の基本的な概念の1つだったからだ。


 満遍なく全区画に装甲を施した場合は、ドイツ戦艦がそうであったように漫然と排水量が増大する結果に繋がってしまうからだ。運用性を重視して排水量を抑制すれば、今度は装甲厚の方が予想される敵砲弾の貫通力に対して過小となってしまうだろう。

 仮に排水量の増大を看過したとしても、計画喫水からの逸脱で垂直装甲の有効高さが艦体が沈み込むことで減少する場合もあった。何れにせよ主砲戦距離で飛来する敵戦艦の砲弾に対して耐久することは難しく、防御は無効化されて重要区画のどこかが被弾の度に破壊されることになるだろう。



 結局、艦そのもの戦闘能力の維持を妨げない為に、指揮所は無防備な区画に収めるしかなかった。当初から計画されていたのならばまだしも、既存の戦艦では防御区画内に収める事はできなかったのだ。

 しかも、それでもすべての問題が解決したわけではなかった。無防備区画であっても、指揮所が収められる程の空間を確保するのは容易ではなかったからだ。

 主務設計者は、建造当時の基本配置図をにらみながら、場所を探す羽目になっていたのだ。


 その中でいくつかの候補が出されていた。余剰の箇所を探すとなると、最初に持ち出された場所は水上観測機や偵察機と搭載するために設けられていた艦尾の搭載機格納庫だった。

 大和型戦艦は、従来よりも格段に大威力の主砲を有していたが、それに比例して主砲発砲時に生じる爆風も大きく、従来のように艦中央部などにむき出しのまま搭載機を繋止した場合は、爆風で破壊されてしまう可能性すらあった。

 そこで艦尾に搭載機格納庫が設けられたのだが、そこまでして搭載にこだわった水上機の必要性は今では大きく低下していた。


 元々、水上観測機を戦艦が搭載するのは、長距離砲撃を行う際に正確な着弾観測を上空から行うためだったのだが、最近では射撃用の電探によって艦上からでも正確な測距が可能となっていた。

 それ以上に、航空技術の進歩によって急速に性能が向上していた陸上機形態の艦載機に対して、空気抵抗と重量のあるフロートを捨て去ることのできない水上機の性能面での不利が顕著になってきていたのだ。

 大和型戦艦も、就役後から水上機の搭載定数は減らされてきていた。今では実質的に連絡機程度の使われ方しかしていなかったはずだった。


 仮に観測機が必要となったとしても、建造数の多い海防空母などから回転翼機を回してもらえばすむ話だった。

 開戦時には陸軍どころか海軍陸戦隊であっても洋上の艦隊との直接連絡がうまく行かずに艦砲射撃の効果が発揮できなかった時期もあったが、そのような戦訓を受けて最近では陸上部隊や艦載機などと艦艇間の連絡も容易に行えるようになっていたのだ。



 もっとも、最終的には格納庫の転用は控えられていた。いくら空間が余っていたとしても、帆船時代ではあるまいし艦橋との連絡の付きにくい艦尾に司令部を置くことは出来なかったのだ。

 他にも夜戦艦橋や作戦室など艦橋内の空間を転用する案もあったのだが、いずれの部屋も狭い上に艦そのものの運用に必要でもあったから、転用は難しかったようだ。


 そのような紆余曲折の上に指揮所が設けられたのは、長官公室であった空間だった。英国本土で行われた改装工事で長官公室や周囲の事務室を潰して指揮所が設けられたのだ。

 長官私室に隣接する公室であれば、艦橋に上がるためのエレベータなどにも近いし、参謀たちも集まりやすかった。そうした利便性からこの場所が選ばれたようだった。


 無茶な計画だった。なし崩し的に指揮所の増設が行われていたためにそのようなことになっていたのだ。そもそも、指揮所という名称すら公式なものではなかった。

 艦艇には他にも防空指揮所や機関指揮所など指揮所と呼称される部署が多かったのだが、単に指揮所と呼ばれる場合はこの空間を指すものという曖昧な認識ができていた。

 正式には艦隊指揮所なる名称もあったのだが、仮のものでしかなく艦固有の情報も集まるという矛盾もあった。おそらく将来的には戦闘指揮所か中央指揮所とでも呼ばれることになるのだろう。


 もっとも大和型の長官公室の転用には、艦隊側の一部から強い反論があったらしい。本来はこうした公室は艦隊旗艦に必要な設備であるはずだった。艦隊司令部の参謀などの要員や指揮下の戦隊司令官、各艦艦長などを一堂に会して会議などを行う為の部屋でもあったからだ。

 平時であれば、大規模な艦隊の運用に不可欠な公室の欠如を理由にして艦隊から受け取りを拒否される可能性すらあったのではないか。


 だが、最後には戦艦分艦隊の指揮能力向上が必要不可欠であるという現実が物を言ったようだった。それに大和型戦艦は日本海軍で最新鋭の戦艦ではあったが、すでに本国では同型に続く戦艦が建造中だった。

 艦隊旗艦用として必要な公室を備えた戦艦としてはそちらや2番艦武蔵を使用するという建前で大和の改装計画は認可されたらしい。



 ―――しかし、実用性を持たせるためには、もっと面積を取る必要があったのではないか……

 隣の人間の声どころか息遣いさえ感じられるような指揮所の狭さに辟易しながら、細谷大尉は独り言を聞きつけられてしまった戦務参謀に顔を向けていた。

大和型戦艦の設定は下記アドレスで公開中です

http://rockwood.web.fc2.com/kasou/settei/bbyamato.html

松形駆逐艦の設定は下記アドレスで公開中です

http://rockwood.web.fc2.com/kasou/settei/ddmatu.html

橘型駆逐艦の設定は下記アドレスで公開中です

http://rockwood.web.fc2.com/kasou/settei/ddtachibana.html

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