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1944バルト海海戦16

 組織的に行われていたドイツ海軍を始めとする枢軸国海軍艦艇の調査は、地中海から英国本土に調査部隊の主力を移しつつあった。多くの技術士官たちにとって予想外の事態が起きていたからだ。

 ヒトラー総統暗殺後に総統代行に就任したゲーリング国家元帥率いるドイツが講和を呼びかけてきたというのだ。しかも、それに伴い投降したドイツ海軍潜水艦隊が英国本土に回航されてくるらしい。


 これまでもドイツ海軍の潜水艦が鹵獲された例がないわけでは無かったが、それらは戦闘中に鹵獲されたものばかりだったから、完動状態かつ聞き取り調査の可能な乗員が乗った状態ということは得られる情報は桁違いに大きいのではないか。

 勿論、潜水艦隊の調査が終わる頃には、今度はドイツ本国に乗り込んで技術情報の調査を行うことになる。もっとも、この分野ではドイツ海軍に関する調査よりも、先進的な機体を開発しているという空軍の方により多くの人員が割かれることになりそうだった。


 調査部隊の技術将校たちは得られるであろう膨大な技術情報に期待していたが、終戦を伺わせる浮ついた雰囲気は英国本土に駐留する各国軍部隊の将兵だけに限られたものでは無かった。

 噂という形で市民の間にも相当の情報が流れているのか、あるいは報復的なドイツ空軍による空爆が無くなっていたことから察したのか、うつむき気味だった道行く市民達の顔にも自然と笑みが戻ってきているようだった。



 ところが、細谷大尉は唐突に英国本土を離れてバルト海に派遣される艦隊への同行が命じられていた。首を傾げていた大尉だったが、艦隊旗艦である大和に乗り込んだ時点でその理由は判明していた。

 艦政本部の説明では、細谷大尉はソ連海軍艦艇の専門家とされていたらしいのだ。

 細谷大尉にしてみれば迷惑な話だった。確かにソ連海軍艦艇の調査を行っていた時期もあったが、別にそれを専門としていたわけでは無かった。単に他の誰もやりたがらなかったから押し付けられただけだと考えていたのだ。


 元々、細谷大尉は艦政本部の技術士官たちの主流である東京帝国大学などの有名大学工科の出身では無かった。新潟の寒村で生まれた大尉は、実家の経済力と学力を天秤にかけて地元から程近いところにある大学に進学していた。

 細谷大尉が卒業した大学は歴史が浅かった。海軍の委託学生枠に潜り込めたのも、その時期に軍縮条約の改定で保有枠が増大した為に技術将校の拡充が図られていたからだろう。

 それに最近では東京や大阪などの大都市以外でも大学が新設される例が増えていた。地方に伸びる工業化の波がそれを要求していたのだ。



 先の欧州大戦やシベリアーロシア帝国、満洲共和国などの誕生等を契機にして日本本土では急速な工業化が進んでいたが、新設される工場の中には、用地の確保や労働単価を重視して従来の工業地ではない地方に進出するものも少なくなかった。

 地方の自治体にしても利点は多かった。大規模な工場の進出によって安定した税収が望めるし、地域の雇用増大も無視できなかった。工場労働者だけでは無く、労働者目当ての商売人や建設業界などにも需要ができるはずだった。

 工業界をただ待ち受けるだけではなく、積極的に整地された工業団地の開設や工場建設時の減税などの誘致策を行う自治体も多かったのだ。


 こうした工業化の波によって、昨日までの寒村や漁港にも、続々と巨大な工場や、そこに電力を供給する発電所など近代的な構造物が建設されていた。

 地方大学の新設もこの流れに従ったものだった。それは地方で急速に増大した技術者の需要に対応したものだったのだ。だから育成されるのは先端技術の開発を行う研究者などではなく、工業界で生産に携わる技術者だったのだ。


 細谷大尉が卒業したのもそうして新設された大学の一つだった。

 山本総理の地元にあったことから、当時から有力議員だった総理によって誘致されたと思い込んでいる地元民も多かったが、実際には友邦シベリアーロシア帝国との直通航路があるせいか、全国に先んじて工業化が始まっていた周辺地域の技術者需要に対応したもののはずだった。



 そんな主流から外れた技術士官であるためか、細谷大尉は論文の課題にソ連艦の研究などという胡乱げなものを選んでいた。その時点ではさほど深い考えがあったわけではなかった。ただ他の同期と同じ事をしても地方大学出身の自分ではどのみち注目されないだろうと考えていた程度だったのだ。

 まさかそれが巡り巡って十年近くも経ってから実際にソ連艦と接する羽目になるとは思いもしなかったのだ。


 日本海軍の中では、ソ連海軍に対する関心は低かった。同盟関係にある英国などを除けば、優先的な研究対象となる外国艦はまず仮想敵国である米国海軍だった。

 それに次いで近年になって欧州の緊張の高まりによってドイツやイタリアが加わった程度だった。

 それに対して、友邦シベリアーロシア帝国の主敵であるにも関わらず、ソ連海軍の研究調査はおざなりな物だった。艦艇などのハードウェアだけでは無く、軍令部による組織や戦策などの研究も優先度は低いようだった。

 その理由は明らかだった。日本海軍がソ連海軍と衝突する可能性が物理的に低かったからだ。


 バイカル湖畔の最前線において、ソ連はシベリアーロシア帝国及びこれを支援する日英などとしばしば紛争に及んですらいたが、その戦闘に両勢力海軍が介入することは無かった。

 ソ連海軍が質量とも充実してし始めていても事情は変わらなかった。河川機動を行うものを除けば、海軍が投入出来る戦場そのものが存在しなかったからだ。


 ソ連が位置する欧州東部から、オホーツク海に面するシベリア地方に達するにはいくつかの航路が存在していたが、どれも艦隊の進撃路としては現実的なものでは無かった。

 かつての日露戦争の時のように欧州からアフリカ大陸かアメリカ大陸を周って長駆日本近海まで艦隊を回航してきたところで、やはりロジェストヴェンスキー提督が率いた当時のバルト海艦隊同様に疲弊して戦力が低下した所を殲滅されてしまうだけの事だろう。


 ユーラシア大陸の北方を経由するもう一つの北極海航路は、科学技術が急速に進化した今世紀においてもようやく航路が確認された程度のか細いものでしか無かった。

 踏破自体が冒険のようなものでしかないから艦隊規模の進出を強行すれば、アフリカ大陸経由以上にオホーツク海までたどり着いた艦や人員が疲弊する可能性は高かった。

 現実がそのようなものだったから、ソ連艦研究が進むはずも無かったのだ。



 ところが、最近になって事情が大きく変わり始めていた。ドイツとの講和が現実化していたためだった。

 劣勢が続くとされる対ソ連戦に加えて、地中海方面でもイタリア戦線どころかフランスへの上陸をも許したという戦局の悪化もあったが、多くの強硬派閣僚を道連れにヒトラー総統が暗殺されたのが、ドイツ政府の方針転換をもたらしたより大きな原因であったのかもしれない。


 だが、ドイツ側は国際連盟軍との講和を前提とした交渉を始める一方で、対ソ連戦の継続を講和の条件としていた。

 ある意味では、この時点で国際連盟軍の戦争目的は達成されていた筈だった。元々日英などの国際連盟理事国とすれば、ドイツを叩き潰すことそれ自体は目的では無かった。勿論ユダヤ人などに対するナチス党による組織的な迫害なども参戦の大義名分に過ぎなかった。


 日英、それにシベリアーロシア帝国などは、ドイツが共産主義国家ソ連に対する欧州の防波堤となればそれでよかったのだ。

 ところが、期待に反してドイツ国内で反共主義を掲げていたはずのナチス党は、独ソ不可侵条約を締結していたのだ。不可侵条約は最終的には破棄されたものの、そのときには既にドイツは英国などとの戦争を開始していた。



 これらの事情を考慮すれば、ドイツ側の提案は本来であれば国際連盟側には歓迎される筈だった。うまくドイツ側を制御できれば、大損害が予想されるドイツ本国への進攻を行うことなく戦前の状態に復旧が出来るからだ。

 ところが、これまで詳細が判明していなかったドイツ側の内情が実際にもたらされていくと、そのような楽観論は後退していった。予想以上に戦乱の長期化によってドイツの国力は大きく低下していたようなのだ。

 このままでは国際連盟側がドイツに期待していた共産主義からの防波堤としての役割を果たす事はできないのではないか。


 ドイツ全土がソ連軍によって占領されるのは、国際連盟側にとって最悪の事態だった。ドイツを下したとしても、今度はオランダやベルギー、フランスなどが共産主義国家と国境を接することになってしまうからだ。

 今の所、イタリア王国や国際連盟軍の大規模な支援が入っていたユーゴスラビア王国では戦線は安定していた。ドイツとの講和がなれば、バルカン半島、イタリア半島に関しては共産主義の南下を食い止めることができるだろうと考えられていたのだ。


 だが、開戦初期にドイツに蹂躙されたオランダやベルギーでは亡命政府が帰還しても、国内を安定させるまでには時間がかかるのではないか。

 フランスの場合は更に状況が複雑だった。実質的にフランス本国を統治していたヴィシー政権、それに反発していた抵抗運動に加えて国際連盟軍に加わっていた自由フランスの三つ巴の政治抗争が勃発するには必至だったからだ。

 そのように混乱した状況で、強大なソ連軍に対抗することなど出来るのか、そのような疑問が日英などの首脳部では密かに囁かれていたようだった。



 ドイツ政府からの東プロイセンからの脱出船団支援の申し出があったのは、そのような時だったらしい。すでに彼らは国際連盟側から提示された条件を原則的に受け入れる姿勢を示していた。

 国際連盟軍もこれを受け入れてバルト海に戦力を進めていたが、それは同時にこれまで日本海軍が想定していなかったソ連海軍との交戦が現実化したということでもあった。


 すでに、東プロイセン沖で起きた海戦でバルト海に展開していたドイツ海軍の戦力は激減していた。撃沈された艦艇は少なくなかったし、辛うじてキールまで脱出できた艦艇も損害は大きかったらしい。

 ソ連海軍にも大きな損害が出ているとの予想もあった。実際に脱出船団がゴーテンハーフェンまで辿り着いた事実が示すように、東プロイセン沖に常時展開している水上艦隊は無いようだった。


 ただし、それは戦力が枯渇したためだけとは思えなかった。東プロイセン沖の海戦で損害を被っていたとしても、最終的に勝利を得たソ連海軍は自力で航行できないほどの損害を受けていたとしてもレニングラードまで損傷艦を曳航する程度の余裕はあったはずだ。

 一時的に戦力が低下していたとしても、戦力の回復は容易だったのではないか。


 この状況を考慮すると、日本海軍がこれまで想定すらしていなかった事態であるソ連海軍との交戦が実現化する可能性はかなり高いと考えるべきだった。戦略面のことはよくわからないが、技術士官に過ぎない細谷大尉にもその程度のことは予想できていた。

 細谷大尉の艦隊への派遣には、そのような事情があってのことだった。



 今の所、細谷大尉の予想は当たっていた。ゴーテンハーフェンが位置するグダニスク湾内で警戒にあたっていた戦艦武蔵が雷撃を受けていたのだ。状況からして湾内にソ連潜水艦が潜入しているのは間違いなかった。

 武蔵を始めとする大型艦は、機動の余地のない狭い湾内深くに進入するのを避けて半円状のグダニスク湾の湾口近くで遊弋していたのだが、そこで魚雷を受けたのだ。


 ただし、湾口近くに忍び寄っていた潜水艦が狙っていたのが武蔵だとは思えなかった。周囲の艦艇からの報告では、雷跡に対して武蔵が突入する様にその巨体を晒していたらしい。

 おそらく、武蔵艦長は発見された雷跡を辿って、避難民を満載した輸送船が目標であることを察知したのだろう。それで武蔵を魚雷に向けて突進させていたのではないか。

 軍縮条約の制限が無効化された後に建造された戦艦である大和型戦艦は水面下の防御も充実していたから一発や二発の魚雷を受けても沈むことは無いだろうが、軍艦のように十分な数の水密隔壁や装甲板などを持ち得ない輸送船であれば即座に撃沈されてもおかしくはなかった。


 だが、勇敢な武蔵艦長の決断は、敵艦隊が発見されたとなると微妙な意味を持ち合わせ始めていた。

大和型戦艦の設定は下記アドレスで公開中です

http://rockwood.web.fc2.com/kasou/settei/bbyamato.html

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