1944バルト海海戦15
戦艦武蔵からの報告を書き写した電文用紙を最後に受け取った細谷大尉は、思わず安堵のため息をついていた。ただし、大和艦内に設けられた指揮所に集合した第一航空艦隊戦艦分艦隊司令部の要員の中では、その報告の内容に対する受け取り方は一様ではなかった。
細谷大尉とは逆の受け取り方をしていたのか、参謀の一人が眉をしかめた顔で言った。
「最大速力発揮は20ノット程度と思われる、か……」
艦隊に同行するには判断に困る速度に司令部内には困惑が走っていた。
戦艦武蔵が被雷したのは一時間ほど前の事だった。キールから出発した艦隊が、バルト海を横断してゴーテンハーフェン沖に停泊してすでに一日近くが経っていた。
それは日本海軍が欧州に派遣した遣欧艦隊の主力である第一航空艦隊からさらに分派された艦隊だった。
バルト海に投入された艦隊は、第一航空艦隊の中でも戦艦及び巡洋艦を集約した戦艦分艦隊、巡洋艦分艦隊に航空分艦隊の一部を配属させた編成をとっていた。
第一航空艦隊の大型水上戦闘艦の大半を含むとはいえ、全力とは言えない戦力だった。航空分艦隊からは過半の航空戦隊が引き抜かれていたし、輸送艦とその直援護衛艦艇からなる輸送分艦隊も、多くの航空戦隊と共に英国本土で待機していたからだ。
その証拠に、第一航空艦隊司令長官である高橋中将は艦隊旗艦である軽巡洋艦大淀と共に英国本土に残留しており、艦隊の指揮は戦艦分艦隊司令官に任命されている最先任の栗田中将に委ねられていた。
第一航空艦隊から分派されてバルト海に艦隊が投入されたのは、講和交渉段階にあるドイツからの要請によるものだった。ソ連軍による包囲下にあるドイツが東プロイセンから脱出する難民船団の護衛を依頼してきたのだ。
あまりに異例とも言える要請だったが、国際連盟軍は開戦前に行われていたユダヤ人のマダガスカル島への移住と同じく人道的支援との名目でバルト海に艦隊を投入していた。
出先の艦隊司令部からでは、各国の事情が複雑に絡み合う国際連盟上層部の意思決定の過程には不明な点が多かったが、ドイツ政府や国民に対して恩義を売っておこうということではないか。
護衛任務は、バルト海の入り口であるキールから艦隊が出港した時点から始まっていた。キールを皮切りにドイツのバルト海沿岸に位置する港から続々と出港する船舶が三々五々に艦隊に合流していたからだ。
だが、脱出船団に編入されたのは雑多な船舶ばかりだった。戦前に世界各国の並み居る優秀船と大西洋横断速度を競い合っていた優美な船体の大型客船もあれば、沿岸フェリーに毛が生えたようなみすぼらしい老朽船まで入り乱れていたのだ。
ソ連軍による東プロイセン包囲網が完成するのとほぼ同時に、陸上戦闘を支援するために相次いで出撃したソ連海軍とドイツ海軍との間に大規模な戦闘が起こっていた。ドイツ海軍は相応の損害を敵艦隊に与えたと主張していたが、彼らが敗北してキールまで後退を余儀なくされたのは間違い無かった。
もっとも、艦艇不足によるものかあるいは実際に損傷艦が多かったのかもしれないが、ソ連海軍による海上封鎖はその後も完全とは程遠いものであるらしい。
だが、封鎖網を突破して東プロイセンとドイツ本国を往復出来たのは一部の優良高速船に限られていたはずだった。その他の多くの船舶は危険を避けて出港を差し控えられていたのではないか。
そこで日本海軍の護衛がつくことになったために大規模な船団を構築することになったのだろう。
もっとも有力な海外海上通商路を持ち得ないドイツは、今次大戦においても大規模な護送船団方式を構築する経験を有していなかった。それで船団の効率的な航行を阻害するこのような雑多な編成をとっていたようだ。
それ以前に、開戦後のドイツ商船がまともに航行できたのは、バルト海対岸のスウェーデンと往復する航路位だったのではないか。おそらく大型船は係留されて宿泊船として運用する程度の使い方しか出来なかったはずだった。
今回のソ連軍の行動を受けて航行に必要な要員をかき集めたとしても、多くの船舶は完動状態には程遠いものなのではないか。
事前のそのような予想通り、脱出船団の航行は支障ばかりが生じていた。各船の操舵性があまりに異なるものだから、不規則な回頭を繰り返して敵潜水艦を欺瞞する之字運動を行う事は難しかった。
それどころか保進性が悪いのか、あるいは単に操舵要員の腕が悪いのかは分からないが、単純に直進することすら難しく舳先をふらつかせて僚船に接触しそうになっている船まであった。
とてもではないが、日本本土やカナダから英国本土を目指す国際連盟側が構築しているような緻密な船団を組むことは出来なかった。無理に日本海軍の規定にそった船団を構築しようとしても事故で航行がすぐに止まってしまうのは確実だった。
開戦から時間を掛けて経験を積み重ねてきた国際連盟軍の護送船団方式と同様の事をいきなり行わせようということのほうが無茶というものかもしれなかった。
機関故障などによる少なくない数の脱落船を出しながらも、脱出船団はゴーテンハーフェンまで何とかたどり着いていた。少なくとも往路においてはソ連軍が障害となることはなかった。
ゴーテンハーフェンには東プロイセン全土からの避難民が集結している筈だった。あとは連れてきた輸送船に避難民を詰め込んでキールまで脱出するばかりの筈だった。
だが、実際にはゴーテンハーフェンにたどり着いた艦隊を予想外の事態が待ち構えていた。ある意味で予想していて然るべき事態だった。東プロイセン内の輸送網はすでに崩壊していたからだ。
燃料不足で交通機関は殆ど機能していなかった。鉄道網も機関車や客車など列車自体は無事であっても操車場や橋梁を破壊されたためにまともに運行できない状況の様だった。
それ以前に、ソ連軍に鹵獲されることを避けるために包囲網が完成する前に逃せるだけの列車はドイツ国鉄の手で本国に戻されてしまっていたらしい。
ソ連とドイツでは鉄道網の軌間が異なるため、占領地内での迅速な補給網を構築される事態を考慮してドイツ本国仕様の機関車を鹵獲されるのを防いだのだろう。
だが、この措置が東プロイセン内の輸送網に与えた影響は少なくなかった。
結局、広大な東プロイセン包囲網内部の移動すら困難であったために、避難民の集結自体が困難であったようだ。それに集まっていた市民も、突然のソ連軍による包囲と明らかとなった総統暗殺に統制を失っていた。
残されたのは、ゴーテンハーフェンに辿り着いた順とばかりに、我勝ちに脱出船団に乗り込もうとする烏合の衆ばかりだった。
ゴーテンハーフェン港に集まった中には、軍服を脱いで一般市民に偽装した脱走兵まで混じっているという噂だった。混乱の中では乗船しようとする市民に対して住民票と突き合わせて確認するような余裕は無かった。
しかも脱出船団に乗り込もうとしていたのはドイツ系の市民ばかりではなかった。ドイツ協力者としてソ連に報復されるのを恐れているのか、ポーランド国民の中にも西方への脱出を希望するものが少なくないようだった。
取り敢えずは桟橋につけた船から避難民を乗せて、定数に達し次第出港させていくしかなかった。しかも現地のポーランド系市民を含む多くの港湾関係者も姿を消していたから、荷役の効率は著しく低下していた。その為もあって多くの船が乗員が把握できないほど定数を大きく越える数の乗客を乗せていた。
勿論だが、出港した船も即座に本国に戻れる訳ではなかった。護衛も無しに鈍重な輸送船を放り出すわけには行かなかったから、復路も護送船団を構築する予定だった。
もっとも船団のなかでも最大の船はまだゴーテンハーフェンにたどり着いてすらいなかった。あまりに規格外なものだから、護送船団に同行させるわけには行かなかったし、船速も著しく遅かったからだ。
ただし、規格外なのは船体寸法も同様だった。護送船団を構築する雑多な輸送船は、避難民たちを柄杓で掬うようにして次々とその船倉と船室とを問わずに詰め込むと桟橋を離れていったが、未だにゴーテンハーフェンには取り残された市民で溢れていた。
最後の輸送船はそれらの避難民をまとめて収容できるだけの能力があるはずだった。
周辺海域を警戒中だったドイツ空軍の哨戒機がソ連艦隊の出撃を報告してきたのは、そんな時だった。
発見された海域やソ連海軍艦隊の速力からして、最後尾の輸送船を護送船団に組み込んでしまうと、船団が捕捉されてしまうのは確実だった。
もっとも細谷大尉の見る限り栗田中将はソ連艦隊の出撃にも慌てた様子は見られなかった。指揮所の中心で眉をしかめながらも落ち着いた声で参謀達に情報収集と分析を命じていた。
実のところ、細谷大尉が英国本土で行われた小規模な改装工事の際に大和に新設された指揮所に入るのはこれが初めてのことだった。
細谷大尉は大和固有の乗員でもなければ分艦隊の司令部要員でもなかった。所属は艦政本部の部員のままだから、員数外の便乗者に過ぎなかったのだ。
元々、艦政本部は地中海で鹵獲されたドイツ海軍艦や、単独講和を行ったイタリア海軍の艦艇などに関する調査を行う為に細谷大尉達を送り込んでいた。これまで軍事機密のベールに隠されていた敵国艦艇の調査を行って、今後の日本海軍艦艇の設計資料とするためだった。
だが、接収された図面や実艦に対して実地で調査を行う限りでは、調査済みのドイツ艦の構造からは技術的にみてさほど有用な成果は得られていなかった。これまでは大きな脅威と考えられていたドイツ艦だったが、実際にはその構造は先の欧州大戦の頃から大きな進歩が見られなかったのだ。
その点においては運用性はともかく、イタリア艦艇のほうが独特な艦内配置のプリエーゼ式水雷防御など興味を引く構造を有していた。
最もその事自体は細谷大尉は然程意外とは感じなかった。これまでの戦歴などからドイツ海軍の実力に眩惑されていたものは海軍軍人でも少なくなかったが、技術力という点では疑問の余地があるはずだった。
他国列強と比べるとドイツ海軍には特に大型艦の建造技術に関して大きな枷がかけられていたからだ。
大型艦の建造数という点では、開戦に前後した戦時建造艦などを除けば平時には各国で大きな差はなかった。列強海軍は軍縮条約によって揃って制限を受けていたからだ。
むしろ再軍備宣言の後に急速に戦備を整えていたドイツ海軍のほうが、艦齢の若い大型艦は多かったのではないか。
ただし、ドイツ海軍は先の大戦からの技術情報の蓄積という点で他国に劣っていた。
先の大戦時において膨大な数に膨れ上がって、各国の国家予算すら圧迫するようになっていた艦隊戦力を制限するのが軍縮条約の目的だったが、条約の制限は保有数や各艦の規模に上限を加えただけではなく、現在上限を越えて保有する艦艇や新造艦の廃棄を各国に迫っていた。
だが、破棄する艦艇を単純に沈めてしまった国は少なかった。廃棄艦の多くは実艦標的として各種実験に供した上で処分されたものが多かったのだ。
戦艦主砲などの大口径砲を実艦に撃ち込むような例は滅多になかったから、弾道の計測や砲弾命中時に装甲板に起こる現象の精密測定などから貴重な実験結果をもたらしていた。
それに廃艦に求められていたのは、単純な射撃の標的としての機能だけではなかった。標的となって破損した艦の中には被弾後の応急修理実験が行われたものもあったし、標的艦に既存兵装を搭載したまま実弾を打ち込んで誘爆時の損害を確認する事まで行われていた。
さらに米国では、重爆撃機編隊による水平爆撃で戦艦を撃沈することまで行っていたらしい。
しかし、敗戦によって多くの艦を賠償として取り上げられたドイツ海軍には、そのような大規模な実験を行う余地はなかったのだ。
それだけではなかった。同盟関係にある日英などの場合は、技術情報を開示することも少なくなかったし、最近では電探など多国間での共同開発も少なくなかった。
こうした技術交流による成果は少なくなかった。例えば、日本海軍でも天城型の空母改装時に全長の異なる飛行甲板を連ねた多段式とする案が一時期優勢だったのだが、同様の構造を持つ英国海軍のフューリアスなどの運用実績に関する情報がもたらされたことから、最終的には閉鎖式の格納庫の上部に単段式の飛行甲板を持つ姿で建造されていた。
このような技術情報の蓄積の有無は、ドイツ海軍艦の完成度に関して大きな影響を及ぼしていたようだった。
天城型空母の設定は下記アドレスで公開中です
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