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1944バルト海海戦11

 巡洋艦級の艦体に条約型巡洋艦搭載のものと同程度の砲と飛行甲板を併せ持った航空巡洋艦は、元々軍縮条約の巡洋艦規定の中に収まるなかで米海軍が計画していたものだった。

 というよりも、軍縮条約の制限下で実際に建造されたのは米海軍のアーカム級航空巡洋艦のほかは存在しなかった。



 アーカム級航空巡洋艦のタイプシップとなっていたのは、米海軍が1930年代に相次いで就役させていた条約型巡洋艦のブルックリン級軽巡洋艦であると思われていた。

 ブルックリン級軽巡洋艦は、文字通りの軽量級で駆逐隊旗艦などを務める従来型の軽巡洋艦とは異なり、条約制限一杯の基準排水量1万トンという巨体に、やはり条約で軽巡洋艦、カテゴリーBの制限一杯となる152ミリ砲の砲塔を3連装5基、計15門も備えた重装備の大型軽巡洋艦だった。


 このような大型軽巡洋艦を建造していたのは米海軍だけではなかった。

 世界各地に植民地を有する英海軍では、平時における通商路保護を目的として戦闘能力よりも居住性や航続距離を重視した巡洋艦を好んでいたが、太平洋を挟んで米海軍と対峙する日本海軍では、ブルックリン級と同様の主砲配置をとる最上型軽巡洋艦などを建造していた。


 カテゴリーAに類別される重巡洋艦と比べると、備砲の口径こそ劣るものの巡洋艦級の艦艇では重装甲を施すのは難しいから、一発あたりの貫通力には劣っていても発射速度が高く単位時間当たりの投射弾重量が大きくなるこのような大型軽巡洋艦の戦力価値は高かった。

 弾庫や機関室などの重要区画に分厚い装甲を備えた戦艦同士の砲撃戦では、装甲を貫通できない限り有効打とはなり得ないのだが、巡洋艦の場合は6インチでは貫通できないが8インチでは貫通できるという軽巡洋艦と重巡洋艦の境目が薄いために、投射される砲弾重量に違いがなければ両者の違いが出にくいのだろう。



 アーカム級航空巡洋艦は、大雑把に言ってしまえばこのブルックリン級軽巡洋艦の後半部分を艦橋を含めて空母のそれにすげ替えたものと言っても良かった。

 公表されている数値からすると、アーカム級を単純化すると同程度の排水量を持つ空母の半分の搭載機と巡洋艦の半分の備砲を持つということになるようだった。

 中途半端な印象を受ける艦艇だったが、米海軍ではそれなりに評価されているのか、既に2番艦以降も就役していた。


 もっとも実際に就役までこぎ着けた航空巡洋艦は米海軍のアーカム級のみだったが、列強各国では他にも同種の艦艇を計画していたところもあったようだ。

 搭載機は艦上機ではなく水上機ではあるものの、地中海では艦体後半部を飛行甲板に充てた日本海軍の利根型軽巡洋艦が確認されていたし、英海軍向けではなく輸出用の概念計画程度ではあったらしいが、英国の企業が航空戦艦とでも言うべき艦艇を計画していた時期もあったらしい。

 米海軍以外が陸上機型の艦載機を運用する本格的な航空巡洋艦を建造しなかったのは、技術的な問題というよりも各国が巡洋艦に要求する性質が異なるからではないか。


 突き詰めてしまえばただ敵戦艦に打ち勝てば良い戦艦とは違って、巡洋艦級艦艇には軍縮条約の制限内に収めるなかで各国が求めるものによって特色が生じていた。

 ある国では不足する戦艦を補う為に装甲と火力を充実させた準主力艦としていたし、英海軍のように平時における長距離警備艦とするものもあった。

 おそらくは、米海軍では巡洋艦には主力艦を支援する偵察艦としての能力を重要視しているのだろう。排水量の少なくない部分を割り振ったであろう航空機運用機能の充実は、搭載機による哨戒範囲の拡大を狙ったためだったのではないか。



 だが、軍縮条約の制限下で建造されたのはアーカム級のみであったものの、ソ連海軍も航空巡洋艦の建造を開始していたはずだった。ドイツ海軍が掴んでいたのはマクシム・ゴーリキィ級という艦名だけだったが、ソ連海軍の航空巡洋艦はアーカム級の発展型であると考えられていた。


 満州利権をめぐる日露戦争によってロシア帝国海軍は大きな損害を被っていた。しかし、先の欧州大戦の頃には他国列強海軍には大きく劣るものの、その戦力を次第に回復させつつあった。

 その後ロシア革命後にシベリア地方にロシア帝国が存続を宣言していたものの、旧ロシア帝国海軍に所属していた艦艇の大部分は革命勢力である赤軍に編入されていた。


 だがソ連首脳陣は海軍艦艇の更新を後回しにし続けていた。海軍の再建には莫大な予算が必要だったが、シベリア地方に逃れた旧帝国勢力や諸外国からの干渉、内乱などに対処するために陸軍の戦力整備に当分は専念せざるを得なかったからだ。



 一連の騒乱が終了して落ち着きを取り戻したソ連首脳部は1930年代になってようやく海軍の再建に乗り出していたのだが、そこには大きな問題が待ち構えていた。

 艦艇の更新だけではなく技術開発への投資も怠っていた結果、周辺各国海軍との技術的な格差や建造施設の旧式化などがの問題が顕在化していたのだ。


 これを早急に解決する手段は一つしか無かった。長期的に見れば、環境に適応した海軍艦艇を得るには、自国内での技術開発を行うのが最も良いのだが、現実に起こっている技術格差などの問題はそのような悠長な手段をとっている余裕をなくしていた。

 結局、ソ連海軍は他国からの技術を導入することになっていた。



 だが、30年代当初にソ連海軍に技術導入が行われ始めた当時は、傍から見ても安直とも言える場当たり的な対処をおこなっているとしか思えなかった。先進的な技術を有しているとは言え、あまりに環境の異なる地中海での運用を前提としたイタリアから提供された設計を取り入れていたからだ。

 おそらく、バルト海や北海などソ連海軍の行動域に最適化する設計技術者が不足していたのだろう。

 それにイタリアだけではなく、一時期はドイツ海軍からの艦艇購入も試みられていた。短期間での異なる技術体系の導入は、技術的に未熟な後進国ではありがちな事態だったが、艦艇整備や運用には支障をきたしていたはずだった。


 もっともこのソ連海軍による混乱期はそれほど長続きはしなかった。共に日英露という立憲主義国家を敵として捉えていたためか、1930年代半ばにソ連と米国が急速に関係を深めていたからだ。

 各国からの技術導入を無秩序に行うという艦艇整備上の悪夢はこれで終わったはずだった。それに、その頃になるとイタリアやドイツの技術導入で育っていたソ連国内の技術者もある程度は形になっていたはずだった。

 その後のソ連海軍は、米国由来の技術を基本としつつ、それにソ連海軍のドクトリンなどに適応した独自性を加えた艦艇整備を行っているようだった。



 同時期にはヴェルサイユ条約の制限を逃れるために秘密協定によってソ連国内でドイツ軍が活動していたが、海軍に関しては殆ど交流はなかったようだ。ソ連海軍は米国の全面的な支援の元で艦艇の更新に努めていたが、詳細に関しては不明な点が多かった。

 大型艦で最初に建造されたのは、米海軍の条約型であるペンサコーラ級重巡洋艦を原型としたキーロフ級軽巡洋艦だった。その備砲の18センチ砲は軍縮条約に照らし合わせれば重巡洋艦枠に該当するはずだが、どのような軍縮条約の締結も行っていないソ連海軍では軽巡洋艦と規定されていた。


 しかし、ドイツを含む諸外国がある程度正確に概要を把握していたのはこのキーロフ級までだった。それ以後は今次大戦開戦に前後して行われていた諜報体制の強化などのためにソ連国外に漏れ伝わる情報が極端に少なくなっていたのだ。

 起工されたことまでは分かっているのはクロンシュタット級重巡洋艦とマクシム・ゴーリキィ級軽航空巡洋艦だった。クロンシュタット級重巡洋艦は、アラスカ級大型巡洋艦を原型とするというらしいが詳細な艦型などは分からなかった。

 そのような大型艦の建造を戦時中に行えるはずもなく、ドイツ海軍内部では建造は中止されたのではないかとも言われていたが、実際には起工時期さえ正確には把握されていなかった。

 同時期に建造計画があったらしいとされていたのがマクシム・ゴーリキィ級軽航空巡洋艦だった。やはりこちらも詳細は不明だったが、アーカム級航空巡洋艦を原型とするという情報だけは流れていた。



 事前の予想とは異なり、バルト海の奥深くでプリンツオイゲンの前に現れた現実のソ連海軍航空巡洋艦は、ブルックリン級軽巡洋艦と空母をこね回して合体させたようなアーカム級とは似ても似つかない姿をしていた。

 艦体の全長にもほぼ匹敵する長大な飛行甲板や長い中央楼は正規空母のそれに近いものだったからだ。むしろ、それ故に艦体前後の上甲板と飛行甲板の隙間に押し込まれるように置かれた背負式の主砲が連続して発砲する姿は何処か正気ではないような気がしていた。


 しかし、その姿が幻獣のようであったとしてもプリンツオイゲンに打ち込まれていった砲弾は幻ではあり得なかった。

 その後のことは記憶が曖昧だった。プリンツオイゲンとエムデンは反撃に転じていた。しかし、2隻のソ連海軍航空巡洋艦に先手を取られた影響は大きかった。

 しかも、技量はソ連海軍の方が優れていたかもしれなかった。敵航空巡洋艦への命中弾が少なかったのは、プリンツオイゲンの乗員たちが浮足立っていたことだけが原因とは思えなかった。


 彼我共に挟叉を得ていたが、命中弾はソ連側のほうが多かったはずだ。プリンツオイゲンからの射弾が敵艦の飛行甲板に命中して炎上させた時は艦橋内に歓声も上がったが、すぐに静まり返っていた。

 その直後にプリンツオイゲン、エムデンともに命中弾が発生していたからだ。前部の砲塔に命中した敵砲弾の一発が、砲塔の分厚い装甲板に遮られて跳弾を起こした挙げ句に、艦橋間近で起爆していたのだ。



 着弾の瞬間、クリューガー少佐は激しい衝撃で吹き飛ばされていたが、結果的にはそれが幸いしていた。次々と艦橋内に飛び込んできた破片によって艦長以下の艦橋要員の多くが一瞬で戦死していたが、破片が散乱する前の衝撃によって少佐は海図盤の後ろ側に弾き飛ばされていた。

 僅かな時間気絶していたクリューガー少佐が目を開けた時に見たものは、破片によって塵屑のように破壊された海図盤とうめき声を上げる乗員だった。少佐自身は破片の大部分が海図盤に遮られたために軽傷で済んでいたのだ。


 たった一発の砲弾で艦長を始めとする艦橋要員の多くが戦死していた。エムデンも助からなかった。おそらくは敵艦に搭載されていたのはキーロフ級軽巡洋艦のそれと同型の18センチ砲だったのだろう。

 そのような大口径砲を次々と被弾するような状況は、旧式の軽巡洋艦でしかないエムデンが耐えきれるようなものではなかった。



 艦隊の指揮権を掌握したのはアドミラル・シェーアの先任艦長だった。旗艦グナイゼナウもリュッツォウも沈んでいた。アドミラル・シェーア自体もほとんど大破状態で、プリンツオイゲンよりもひどい状態だった。

 主隊が遭遇した敵主力も当初の予想以上の戦力だったらしい。ガングート級戦艦複数や艦種不明の大型艦もあったという話だった。


 かろうじて撤退出来たのはプリンツオイゲンなど数隻だけだった。僚艦の撃沈を目撃していたプリンツオイゲン乗員の士気は、キール工廠の修理工事を終えた今でも回復していなかった。

 クリューガー少佐は途方に暮れていた。艦長の戦死後、その後任も着任しないまま艦長代行を務めていたが、このプリンツオイゲンをどのように再戦力化させればいいのか、それが分からなかったのだ。



 クリューガー少佐が暗然としていると艦橋に見張り員からの上擦った声が聞こえていた。

 どうやら修理工事後の海上公試にかこつけて押し付けられた護衛対象が到着したらしい。クリューガー少佐は興味を引かれて自分も双眼鏡を掲げていた。キールに派遣される増援がどの艦なのかは事前に知らされていなかったからだ。

 だが、双眼鏡を向けたクリューガー少佐は、見張り員が上擦った声を上げていた理由を見つけて絶句していた。

アーカム級航空巡洋艦の設定は下記アドレスで公開中です

http://rockwood.web.fc2.com/kasou/settei/cfarkham.html

キーロフ級軽巡洋艦の設定は下記アドレスで公開中です

http://rockwood.web.fc2.com/kasou/settei/clkirov.html

マクシム・ゴーリキィ級軽航空巡洋艦の設定は下記アドレスで公開中です

http://rockwood.web.fc2.com/kasou/settei/clmakcnm.html

クロンシュタット級重巡洋艦の設定は下記アドレスで公開中です

http://rockwood.web.fc2.com/kasou/settei/cakronstadt.html

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