1944バルト海海戦10
バルト海を軽巡洋艦エムデンを従えて北上するプリンツオイゲンの艦橋には、重苦しい緊張が走っていた。
速力は2隻で艦隊行動を取れる最大まで発揮していたが、それでもプリンツオイゲンとライプツィヒの衝突事故とその始末で費やした時間は少なくなかった。
プリンツオイゲンの艦橋は多くの将兵でひどく混雑していた。一応はまだ航海直体制で総員直は取られていなかったが、一度事故対応で艦橋に上がったものは、中々居住区に降りようとはしなかった。
クリューガー少佐も艦橋の定位置についていた。今艦橋を引き上げたとしても、中途半端な時間に戦闘配置による総員直が掛かって呼び戻されるだけだろう、そう考えていたからだ。
慌ただしい艦橋の隅で、砲術士だけが一人縮こまるようにしていた。砲術士の本来の配置は副砲射撃指揮所だったが、正式に戦闘配置となったわけではないから、艦長が操艦していても艦橋を出るわけには行かないのだろう。
だが、先程の事故を起こした当直将校である砲術士に向けられる艦橋要員の目は冷ややかなものだった。事故対応と主隊との合流を優先していたのか、艦長も砲術士を無視して操艦を続けていた。
下手に叱責や処罰が行われないものだから、余計に砲術士としては居心地悪く感じているはずだった。
クリューガー少佐も、今にも首をくくりそうなほど顔面蒼白となっている砲術士の様子は気にかかっていたものの、彼と向き合うような時間は無かった。主隊から離れてエムデン1隻だけを従える形でプリンツオイゲンが航行することになっていたからだ。
考慮すべきは、自艦や後続するエムデンだけではなかった。先行する主隊や警戒隊の位置を把握し続ける必要があった。視界の悪い状況で高速航行を行う際には僚艦との正確な相対位置を把握していないと、先程の様な無様な衝突事故を繰り返す恐れもあったからだ。
艦橋内に陰鬱な雰囲気が漂っていたのはそれほど長い時間ではなかった。警戒隊旗艦から主隊に向けたと思われる無線が傍受されたのだ。どうやら敵艦隊を発見したらしい。
艦橋内にはどよめきが起こっていた。当初の予想よりもだいぶ早かった。敵艦隊の速力を実際よりも低く見積もっていたのか、あるいは空軍の偵察機が報告した時点で位置にずれがあったのかもしれない。
ただし、警戒隊旗艦の現在位置は不明だった。プリンツオイゲンの通信設備では自艦を中心とした警戒隊旗艦の方位しかわからないからだ。理論的には続航するエムデンで傍受された電波情報を突き合わせれば三角測量で正確な位置までわかるはずだったが、実際には解析は出来なかった。
エムデンとプリンツオイゲンとの間に三角測量が可能なほどの角度差を生じさせる程の距離がなかった上に、艦首方向に電波源が存在していたために測定された方位に2隻で大きな差がなかったからだ。
もっとも観測された電波強度からするとそれほど遠くない距離から発振されたのは確からしい。
通信長からの推測を聞いた艦長は、即座に戦闘配置を命じていた。直後に戦闘配置を伝えるブザーが艦内に流れていた。ただし、艦橋内の動きは少なかった。脱兎のごとく逃げ出す様に砲術士は駆け出していったが、艦橋配置の将兵の大半はすでに艦橋内に揃っていた。
艦長はクリューガー少佐が位置する海図台に振り返ると、これまで少佐に命じて記載させていた主隊や警戒隊の推定位置に目を向けていた。海図を睨みつけながらしばらく思案顔になっていた艦長だったが、すぐに満足そうな表情になると頷いていた。
「航海長、航路を算出してくれ」
そう言うと艦長は海図の上をなぞる様にプリンツオイゲンが取るべき針路を示したが、クリューガー少佐は首を傾げていた。
艦長が示した針路は、警戒隊や主隊の想定位置とはずれていた。もちろん概略の推定位置だから多少の誤差は考えられるが、先程測定された警戒隊旗艦の方位からするとそれほど大きな誤りはない筈だった。
クリューガー少佐の怪訝そうな顔に気がついたのか、艦長は安心させるように凄みのある笑みを見せながら言った。
「本艦とエムデンは敵艦隊を包囲する為に側面に回り込むぞ。敵艦隊の主力は我が艦隊主隊と交戦中のはずだが、混戦となるであろうこの戦闘に本艦はともかくエムデンを突入させるのは危険は大きいが戦局に与える影響は少ないはずだ。
そこで本艦とエムデンは一度交戦海域を迂回して、敵艦隊側面から後背を突く機動を行うことで主隊の戦闘を援護する。
回頭用意、エムデンは付いてきているな」
艦長は、旧式化した軽巡洋艦であるエムデンの続航を確認した見張り員からの報告に満足そうに頷いてから、重々しい口調で取り舵を命じていた。
プリンツオイゲンの針路を慌ただしく海図に書き込みながら、クリューガー少佐は思案顔で艦長に尋ねていた。
「ソ連艦隊が主力の側面に警戒部隊を配置しているという可能性はないでしょうか」
艦長はあっさりと頷いていた。
「その可能性はあるだろう。だが、その数は大したことはないはずだ。おそらくは駆逐艦1、2隻といったところでは無いか」
艦長は、やや靄が出てきた海面を見つめながら続けた。クリューガー少佐に話すというよりも、艦橋要員に言い聞かせる様な声だった。
「先程の通信は、内容はともかく無線発振自体はイワン共も感知した可能性が高いだろう。つまりソ連艦隊も我が艦隊の警戒隊の存在には気がついたと思われる。
その場合、主隊と同行する我が警戒隊に対してソ連艦隊も軽快艦艇を差し向けるだろう。側面警戒を残したとしても僅かな数に過ぎない。そのすきを突いて本艦とエムデンでその貧弱な側面警戒を突き破って敵主力を叩くのだ。
運が良ければ、本艦がこの戦闘の運命を決することになるかもしれんぞ」
艦長の声に緊張しながらも、突然の事故によって乗り込んだ艦が戦力外と見なされたのではないかと危惧していた艦橋要員達の顔に普段の余裕が戻っていた。敵駆逐艦の発見報告が上がったのは、その直後だった。
やはり予想よりもいくらか早い発見報告だったが、発見された敵艦の数は想定どおりの2隻だった。駆逐艦は、開戦前から建造が開始されていたグネフヌイ級らしいが、靄の向こう側に見え隠れする敵艦の詳細は分からなかった。
もっとも、艦長は意に介した様子もなく自信有りげにいった。
「予想通りだ。まずは敵艦隊の側面援護と思われるこの2隻をやるぞ。エムデンには2番艦を狙わせろ。本艦は先頭を行くやつを撃つぞ。
この後は敵主力に突入する。まだ魚雷は使わずに主砲だけで叩くぞ」
だが、高揚した艦橋の雰囲気を打ち砕くように、見張員の悲鳴のような声が聞こえていた。
「敵駆逐艦後方に空母がいる。空母2隻が続航している」
唖然とした表情で多くの艦橋要員は顔を見合わせていた。バルト海艦隊にはこれまで空母が確認されたことは無かった。というよりも、ソ連海軍に空母が存在すること自体が確認されていなかったのだ。
―――艦隊を支援する為にレニングラードから出撃した平甲板型の輸送船か兵員輸送艦を誤認したのではないか。
眉をしかめながらクリューガー少佐はそう考えていたのだが、見張員の報告はまだ続いていた。
「間違いない。敵艦には飛行甲板と島型艦橋があります」
慌ててクリューガー少佐も見張員から報告のあった方位に手にした双眼鏡を向けていたが、視野に入った光景を見て絶句していた。
見張員からの報告に間違いはなかった。双眼鏡の狭い視野に映っているのは明らかに空母だった。視野内にある近くを航行する既報の駆逐艦の姿からすると、敵空母はこのプリンツオイゲンと同程度の寸法はあるのではないか。
その長大な艦体の上には長大な中央楼のような構造物があり、その天蓋をなしているのは確かに飛行甲板だった。飛行甲板は中央楼から前後に長く突き出されており、支柱で艦体に据え付けられていた。
そこだけ見ると確かに空母だった。日本海軍の空母には、艦体に比して長大な飛行甲板を設けるためか、支柱を立てた構造の艦もあったはずだった。
だが、クリューガー少佐は違和感を覚えていた。目の前の光景は何かが間違っているような気がした。
確かに靄の向こう側に見える姿は空母のそれだったのだが、空母には無いはずの何かがあるのか、逆に空母に不可欠のはずのものが無いのか、そのような違和感を言葉に出来ないもどかしさを感じていた。
しかし、同じ光景を見ていた艦長は特にそのような感想は抱かなかったらしい。苛立たしげな声で言った。
「いつの間にバルト海に入り込んだのか、キールの哨戒部隊は昼寝でもしていたのではないか。大西洋から入り込んだ日本軍か英海軍か、奴らソ連と手を組んだのか……いや、これは千載一遇の機会だ。駆逐艦を蹴散らして敵空母を砲撃で沈めるぞ」
クリューガー少佐は艦長の顔を見たが、そこには敵愾心こそあるものの、恐怖心などは全く感じられなかった。むしろ、航空機を運用出来そうもない状況において至近距離で無防備な空母に接敵出来た事を幸運に思っている様だった。
だが、そのような楽観を吹き飛ばすかのように、通信室からの報告が聞こえていた。
クリューガー少佐は唖然として通信室に繋がる艦内電話を手にした伝令の言葉を聞いていた。
―――主隊が……押し負けているのか……
旗艦であるグナイゼナウからプリンツオイゲン及びエムデンに向けられた通信の内容は、主隊への迅速な合流を求めるものだった。事故直後のプリンツオイゲンには可能であれば主隊に追随せよと下命されていたことを考えると、相当に不利な状況にあるのではないか。
だが、シャルンホルスト級戦艦と装甲艦2隻と言うドイツ海軍が誇る3隻の28センチ砲艦を凌駕する戦力を、今次対戦の大半をレニングラード軍港に逼塞していた筈のソ連海軍バルト海艦隊が有しているとは俄には信じがたい話だった。
単に戦闘艦の数や質の問題だけではなかった。バルト海の奥深くに封じ込められた形のここ数年のソ連海軍バルト海艦隊は、まともな訓練を行うことが出来たとも思えないのだ。
それどころか、レニングラードの海軍部隊はその少なくない数の将兵をドイツ陸軍との激戦を続ける陸軍部隊に転籍させていたという噂もあった。
プリンツオイゲンの艦橋には困惑が訪れていた。艦長も逡巡しているようだった。ここで無防備に航行しているように見える敵空母を襲撃して後顧の憂いを断つべきなのか、それとも主隊への合流を優先すべきなのかを考えているのではないか。
しかし艦長のそのような悩みを吹き飛ばすように、クリューガー少佐の視界の隅に閃光が走っていた。慌てて少佐は視線を閃光が走った敵空母の方に向けたが、すぐに呆けたような顔になっていた。
あり得ない光景だった。すでに閃光は消え去っていたし、靄の向こう側まではまだ距離があるために、詳細までは読み取れなかったが、敵空母の側面には発砲直後を示す赤黒い巨大な砲炎が伸びていた。
よほどの速度を出しているのか、砲炎はすぐに吹き散らかされていたが、痕跡の大きさからしてこちらに向けて発砲してきたのは間違い無かった。
クリューガー少佐は首を傾げていた。妙だった。一般的に空母が舷側に装備する高角砲の砲炎にしては先程のものは大きすぎるような気がしていたのだ。
それだけではなかった。各国海軍の高角砲と駆逐艦備砲は概ね同級の弾道の砲を使用していた。それならば、何故ほぼ同航しているように見える駆逐艦は発砲していないのか。
しかし艦長は別のことが気にかかっていたようだった。苛立たしげな声で艦長は伝令に言った。
「何故イワンに先を越されたんだ。逆探は敵艦からのレーダー波を探知していないのか、確認しろ。こちらもレーダーを使うぞ」
艦長が言い終わるよりも早く、プリンツオイゲンとエムデンの周囲に敵艦から放たれた初弾によって発生した水柱が発生していた。クリューガー少佐は唖然として屹立する水柱を見つめていた。
やはり、どう見ても駆逐艦主砲や高角砲から放たれた砲弾によるものとしては、弾着によって発生した水柱は大きすぎるようだった。しかも挟叉には至らないものの、意外なほど近くに水柱は発生していた。敵艦乗員の練度はかなりのものであるようだった。
クリューガー少佐は、唖然としながらも一つの可能性を思いついていた。双眼鏡を再び敵空母に向けると、敵艦は早くも第2斉射を放とうとするところだった。
今度はクリューガー少佐も発砲の瞬間を目撃していた。発砲しているのは、当初考えていたような舷側や飛行甲板上に設けられた高角砲などではなかった。艦体前後に背負式に装備された強力な巡洋艦主砲が発砲していたのだ。
半ば無意識のうちにクリューガー少佐は言っていた。
「あれは……敵艦は空母では有りません。あれは航空巡洋艦です」