1944バルト海海戦7
ヒトラー総統のもとで食糧大臣の任に就いていたバッケ大臣は、今年の春に大臣代行から正式に前任者から大臣に交代したばかりだった。
しかし、バッケ大臣も東プロイセンの総統大本営で行方不明になっていた高官の一人だった。その大臣に代わって会議に出席しているのは実務を行う官僚のようだった。
その目立たない官僚がドイツ陸軍の最長老であるルントシュテット元帥に向かっていった。
「東部戦線が危機にあることは私も承知しておりますが、国内の労働者数もまた危機的な水準に達しております。ここは動員解除によるドイツ人労働者の確保を考慮して頂きたいと考えております」
食糧省の官僚は最後まで言い切れなかった。遥か格下に見える官僚の言葉に苛立ったのか、ルントシュテット元帥は眉をしかめていた。
「一体なぜここに来て急に労働者不足などと言い出すのか理解できぬ。前線では一人でも多くの兵士を必要としておる。この事態での動員解除など考慮するにも値せぬ」
さして大声でもなかったにも関わらず、人生の大半を職業軍人として過ごしてきたルントシュテット元帥の言葉には迫力があった。
だが、食糧省の官僚も引かなかった。視線をさまよわせていたが、それはルントシュテット元帥の迫力に屈したからではなかった。
視線の先に座っていたのは軍需省次官だった。次官は重々しくうなずくと言った。
「軍需省としても食糧省の意見に完全に賛同します。この講和条件に従えば、もはやドイツの労働力不足は限界を超えてしまいます。農業、工業分野に早急に人員を回して頂けないと、我が国は例えソ連軍を国境の向こう側で阻止できても短期間で破綻します」
ルントシュテット元帥が更に何かを言おうとしていたが、それよりも早く硬い口調でゲーリング国家元帥が理由を質していた。予め質問を予期していたのか、軍需省次官の説明は流暢だった。あるいは食糧省の官僚とも事前に打ち合わせてあったのかもしれなかった。
「現在、我がドイツ軍は約一千万の将兵、軍属で構成されております。言うまでもありませんが、この人員の大半は20代から30代の若者たちで成り立っています。
あえてこのような言葉を使いますが、この若年労働者の流出に対してドイツ国内には約八百万程度の戦時捕虜を含む外国人労働者が存在しています。これはドイツ人と外国人労働者の作業効率や、戦時体制において不要不急となる産業の停止などの措置を考慮すれば一千万のドイツ人労働者に匹敵する労働力と言えなくもないでしょう。
しかし、この外国人労働者の少なくない数が講和が成立すればドイツから去っていくことになります。まず労働者のうち百万程がイタリア人労働者、戦時捕虜となります。当然これは講和と同時に返還となりますが、すでに戦時捕虜の強制労働は停止しています。
次にフランス人を含む西欧占領地域からの労働者が合計二百万程になります。これは戦時捕虜を含みませんが、占領地帯での労働の義務化に従ってドイツ国内に移送されたものも多いですから、やはり即時解放を要求されるでしょう」
軍需省次官は、顔の前に掲げた手の指を一つ一つ折りながら言ったが、一旦口を閉ざすと、片手を下ろして残り五本の指だけを示していた。
「のこり五百万、この内二百万はポーランド人捕虜と強制労働者です。彼らは単純に帰国というわけには行かないでしょう。半分はソ連の占領下で半分は我がドイツ軍の展開地域である戦場の真っ只中ですから。
しかし、いずれにせよポーランド亡命政府軍が国際連盟軍に加わっている以上捕虜は直ちに彼らのもとに返さなければなりません。労働者も彼らに預ける形で出国させるという形を取るのが一番素直な解決法でしょう」
そこでもう一度軍需省次官は残り三本となった指を高く掲げていた。
「残りの外国人労働者はソ連三百万、半分を切ったこの労働力では経済は成り立ちません。我々が動員解除を要求する理由はお分かり頂けたでしょうか」
だが、ルントシュテット元帥は口角泡を飛ばす勢いで反論しようとしていた。
「我が軍は、東部戦線の占領地帯からあれだけソ連から奪取した穀物や物資を危険を犯してドイツ本国へ移送したではないか。あれは一体どうなったのだ」
軍需省次官が何かを言う前に、食糧省官僚が呆れたような声でいった。
「ウクライナの穀倉地帯からの分ですか。それはとうに使い果たしていますよ。労働者を必要とする現場は、今年の収穫であり、来年の種まきです。これは今現在の話なのです」
ルントシュテット元帥は止まらなかった。鋭い目を向けながら続けた。
「冗談ではないぞ。君たちはソ連軍を食い止めるのに必要な兵士たちを農夫や工場労働者にすり替えようとしているのか。そんなことをすれば、彼らが働く農園や工場にまでソ連軍が攻め込んでくるだけで、収穫も生産品も奴らに奪われるだけではないか。
労働者が必要ならば残った三百万のソ連人を働かせればいいではないか。労働者の半分がなくなるのであれば、怠け者のソ連人に二倍働かせればいい。昼は農家で夜は工場で働かせれば帳尻が合うではないか」
軍需省次官が何かを返すよりもはやく、アデナウアー特使が冷ややかな声で割り込んでいた。
「ロシア人をこれ以上劣悪な条件で酷使させるのは、戦後のことを考えればお勧め出来ない」
ルントシュテット元帥はまたも鋭い目を向けたがアデナウアー特使は意にもしなかった。ゲーリング国家元帥が不協和音に辟易とした顔でアデナウアー特使に続きを促していた。
「ソ連軍捕虜や労働者に関しては、ロシア帝国側で受け入れの用意があるということだ。それと先程のポーランド系市民に関しても市民達が望むのであれば国内に招き入れても良い。そうハバロフスクのロシア政府は言っているそうだ」
ルントシュテット元帥は嫌そうな顔になっていた。
「なぜここでロシア帝国の名前が出てくるのだ。彼等はソ連とは未だに戦端を開いていない。関係ない話ではないか」
アデナウアー特使は首を振っていた。
「彼等の理屈ではそうならないのだ。いいかね、ソ連もシベリア―ロシア帝国も自分たちこそが旧ロシア帝国の全土を統治する正当な後継者であると主張している。
それは裏を返せば相手は自国の領土を不当に占領する犯罪者集団ということになるが、そこで相手側の「国民」をどのように解釈すれば良いのかが問題となる。
ロシア帝国側から見た場合、ソ連人は不当に占領された自国内に取り残された善良なる一般市民と解釈することも可能ではないかな。それ以前に、国際連盟の有力な加盟国であるロシア帝国が同人種がドイツ国内でどのような扱いを受けているのかを知れば、彼らの態度が硬化してもおかしくはないだろうな」
ルントシュテット元帥はひどく不機嫌そうな顔になっていたが、ゲーリング国家元帥は眉をしかめてグデーリアン上級大将に尋ねていた。
「理由はどうであれ、これ以上の増援が得られずに現有の兵力のみだとして、マンシュタイン元帥の南方軍集団は東プロイセン包囲網の解囲を再度実行できるかね」
グデーリアン上級大将は、難しそうな顔をしていた。
マンシュタイン元帥麾下の部隊による包囲網への攻撃は一度は成功していた。バルト海沿岸にまでソ連軍先鋒が達して、単位距離あたりの戦力が最も手薄となった瞬間を狙った攻撃だった。
その時は、ソ連軍によって破壊されていた鉄道網の修復まで行って、包囲網内に残されていたかなりの数の軍や民間人の脱出を行う事ができたのだが、突破口を維持出来ていたのはそれほど長い時間ではなかった。
体制を整え直したソ連軍が突破口の切断を行ったからだ。ソ連領側に位置する東方の部隊はともかく、マンシュタイン元帥の思惑としてはバルト海に達した部隊は後方連絡線を断たれて浮足立つのではないかと期待していたようなのだが、実際にはバルト海側からの圧迫も強かった。
原因は明らかだった。ドイツ海軍を撃破したソ連海軍による補給線が存在していたからだ。
結局、なし崩し的に行われた準備不足の解囲作戦を強行し続けて戦力を過剰に失うことを恐れたマンシュタイン元帥は、一時的に後退して戦力の再編成と補充を待っていたのだ。
南方軍集団のそのような様子を考えていたグデーリアン上級大将は、悲観的な表情で言った。
「再度の解囲作戦を即座に実行するのは難しいですな」
ルントシュテット元帥が我が意を得たりとばかりに何かを言おうとしたが、それよりも早くグデーリアン上級大将は続けていた。
「問題は兵隊の頭数だけではありません。南方軍集団には突破戦の中核となるべき装甲師団が欠けているのです。
以前南方軍集団に所属していた装甲師団は、前総統からの命令でバルト海沿いに行われると想定されていたソ連軍の攻勢に備えるために、北方軍集団に移動させられていました。
詳細は不明だが、北方軍集団に配属されていた装甲師団は、今はほとんど使い物にならんようです。包囲網の大きさが大きさだけに食糧や弾薬、医薬品の備蓄などはある程度は確保されていますが、戦車隊が集中したおかげで予備部品は枯渇、共食い整備の連続で稼働率は低下する一方です。
包囲網内からの脱出時にはそれらの装甲師団は戦力としてはさほど期待できないでしょうな」
ルントシュテット元帥は眉をしかめていた。
「戦車隊が使えんならば尚の事主兵たる歩兵が重要なのではないか。動員解除にしても作戦後には出来んのか」
グデーリアン上級大将は首をすくめていた。
「今日来る兵隊が棍棒を持った百人か小銃を抱えた十人か、たった一人で機関銃を抱えてくるか、どれが良いのかは状況によるでしょうな」
諦観さえ感じられるグデーリアン上級大将の顔にルントシュテット元帥は絶句していた。
ゲーリング国家元帥は、気を取り直すようにガーランド少将とクメッツ大将に目を向けていた。
「解囲作戦にあたって海空軍の準備はどうか。海軍はキールに戦力を集中させているのだな」
クメッツ大将は眉をしかめていた。
「おっしゃる通り、先の戦闘で残存したものを含めバルト海艦隊の主力をキールに集結させていますが、修理中の艦艇を含めても予想されるソ連艦隊を圧倒するまでには至らないというのが現実ですな」
「では、バルト海艦隊がソ連艦隊を抑え込んでいる間に輸送船団を送り込むことは出来ないかな……」
「それも難しいですな。軍艦以上にそのような作戦に投入可能な船舶も不足しています。ユダヤ人移送計画においてマダガスカルで拿捕されたシャルンホルストやポツダムのような高速客船があればいくらかは東プロイセンから連れ帰られるのですが……」
アデナウアー特使が、首を傾げながら言った。
「一つお聞きしたいのだが、そもそも包囲網内の東プロイセンには何人が取り残されているのかね。まだ相当数の民間人が取り残されているはずだが」
何人かが顔を見合わせていたが、グデーリアン上級大将が代表するように重々しい口調でいった。
「正確な数は家族や親族など少人数の集団で逃れてきたようなものもいるので把握し辛いのですが、軍も民間も合わせて百万から下を見ても三十万程度はいるはずです」
改めて突きつけられた膨大な数に会議室は静まり返っていた。
「見捨てるにはあまりに多い数、だな」
ゲーリング国家元帥のつぶやきに答えるものは誰もいなかった。