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1944バルト海海戦3

 襲撃は唐突だった。10機程度のIl-2編隊が銃砲弾を基地内にばらまきながら高速で航過していったのだ。


 上空から一部始終を目撃していたデム曹長は、歯がみしながらその様子を見守ることしか出来なかった。

 Il-2の侵入から離脱までは極短時間しかかかっていなかった。しかも、Il-2が基地上空に侵入した際の高度は恐ろしく低かったから、野戦防空用のレーダーや対空監視員も襲撃直前まで襲撃機編隊の存在に気が付かなかったはずだった。

 あれでは基地勤務のドイツ空軍将兵の多くは防空壕に退避する時間すら無かったのではないか。


 中高度を飛行する戦闘機の操縦席から眺めただけでも、襲撃機の搭乗員たちが手練なのは明らかだった。地面に張り付くような低高度を高速で、しかも編隊で飛行するのは並大抵の技量ではなかった。

 それだけではなかった。基地上空の中高度を周回しながら警戒していたデム曹長達が誰も敵機編隊の存在に気が付かなかったということは、相当な遠距離から低空飛行を連続していたのではないか。


 ただし、ドイツ側の損害はそれほど大きくは無さそうだった。基地の防空能力が優れているわけではなかった。単に部隊主力が出払っていただけのことだった。今の基地に残されているのは、限定的な防空任務にしか使用できない機材だけだった。

 むしろ、そのような事情をごく短時間で察知したからこそIl-2の編隊は一航過で去っていったのではないか。



 もしかすると、あの襲撃機の編隊は数少ない開戦前からのベテランに率いられていたのかもしれなかった。


 ドイツ軍がIl-2と初めて交戦したのは、ソ連進攻作戦が開始された直後だった。それ以来ドイツ空軍はずっとその頑丈な襲撃機と戦い続けていた。

 ただし、開戦直後の頃のIl-2はそれほど大きな脅威ではなかった。現在前線で確認されている型式と比べると初期生産型の装甲は弱体であったし、防御用の後部機銃座も無かった。

 それ以上に、生産が開始されたばかりだったIl-2は数も少なく、搭乗員の腕も未熟だったらしい。


 ところが、開戦以後の相次ぐ戦闘を生き延びたソ連軍搭乗員の平均的な技量は確実に上がってきていた。

 機体自体も戦訓を受けて逐次改良が施されているらしく、ドイツ空軍の戦闘機隊にとっても手強い相手になっていたのだ。


 Il-2の撃墜が難しいのは、頑丈な襲撃機の機体や技量を上げ続ける搭乗員達だけが原因では無かった。特に戦闘機隊を単独で出撃させる事の多いドイツ空軍と違って、ソ連軍はかなりの頻度で爆撃機や襲撃機に護衛をつけていたのだ。

 ソ連軍で護衛戦闘機として運用されているのは、Yak戦闘機が多かった。

 Yakシリーズ各機は、最高速度などの点で他のソ連軍機よりも劣る部分が少なくないため、東部戦線で長く飛ぶ搭乗員の中には同機を軽く見るものも多かったが、小回りの効く機体は鈍重な爆撃機や襲撃機の護衛には向いているようだった。

 だから、ソ連軍の襲撃機を撃墜するには、まず邪魔な護衛機を撃墜する必要があったのだ。



 もっとも、ドイツ空軍戦闘機隊の搭乗員達がYak戦闘機を軽んじているのは、逆にそのような護衛任務に就いているせいなのかもしれなかった。

 ドイツ空軍の戦闘機乗りは、目標を定めずに指定された空域に在空する敵機を襲撃するフライヤクト、つまり自由な狩りと呼ばれる戦術を好んでいた。この場合は、細かな戦法などは出撃した搭乗員に任されているから、純粋に戦術的に有利な体制で敵機と交戦することができるからだ。


 その一方で、護衛戦闘を忌み嫌うものは少なくなかった。機動性に劣る上に巡航速度の低い爆撃機に合わせて飛ばなければならないからだ。実際に英国本土上空で行われた航空戦では、ドーバー海峡を越えて爆撃に向かう爆撃機隊の直衛を命じられた戦闘機隊が大きな損害を出していた。

 そのせいで未だに護衛任務の命令を出したゲーリング国家元帥の人気は戦闘機隊の中では低かった。ヒトラー総統亡き後に国家元帥が総統代行となってもそれは変わらないようだった。


 戦闘機乗り達にも理由はあった。ドイツ空軍の主力戦闘機であるBf109は高性能を実現するために極限まで小型化が推し進められていた。面積の小さな主翼と大出力水冷エンジンは高速性能には優れていたが、護衛戦闘に求められる航続距離や柔軟な機動性に一歩劣る部分があるのも事実だった。

 しかし、デム曹長には結局はドイツ空軍の戦闘機乗り達が護衛任務を嫌う上に、再軍備後の急速な規模の拡張によって昇進速度が速められたために彼らを諌める立場でなければならなかった指揮官層も若手でしかなったのも一因であると考えていた。



 だが、戦闘機搭乗員達の護衛任務を嫌う姿勢は、爆撃機隊の隊員達との間に隔意を抱かせる結果を招いていた。デム曹長は、最近まで地中海戦線に展開する第27戦闘航空団からこの第53戦闘/爆撃航空団に配属されていたのだが、周囲から冷ややかな目で見られているような気がしていた。


 デム曹長が所属していた第27戦闘航空団は、北アフリカ戦線の序盤から参戦していた。東部戦線に従軍してから同航空団に転属してきた曹長は直接の面識はなかったが、当時は有名な撃墜王も所属する有力な部隊だった。

 有力な国際連盟軍との戦闘で損耗が激しく、幾度か後方での再編成作業や北アフリカからシチリア島、イタリア半島へと後退を行いつつも、第27戦闘航空団は地中海戦線で国際連盟軍に抗戦し続けていた。


 そのような状況が一変したのは先の総統暗殺事件からの一連の騒動が一段落した頃だった。詳細は分からなかったが、政府機関が集中するベルリンを抑えたゲーリング国家元帥が総統代行としてドイツを率いることを宣言していた。

 クーデター派や親衛隊の一部などがベルリンでも騒ぎを起こしていたらしいが、ゲーリング国家元帥は自分の名を冠した空軍所属部隊であるヘルマン・ゲーリング装甲師団を投入していた。


 同師団は、イタリア戦線で被った損害が大きかったことからベルリン郊外で補充と再編成の作業を行っていたらしいが、戦力をすり減らした状態であったとしても、陸軍の正規機甲師団に匹敵する重装備の部隊だったから、警備部隊や親衛隊の軽装備の部隊では相手にならなかったのではないか。

 噂では、戦車部隊を引き連れながら高級オープンカーに乗ったゲーリング国家元帥がベルリン中心の官僚街であるベントラー街に乗り付けたというが、どうも話が出来すぎているような気がする。

 将兵の間に噂話が広がる間に話に次々と尾ひれが付いていっただけではないか。デム曹長はそう考えていた。それに、その事自体はゲーリング国家元帥がベルリンを掌握した話の本質ではなかった。



 総統代行を宣言したゲーリング国家元帥は、日英など国際連盟軍に講和を呼びかけているようだった。しかも、講和の結果を待つことなく一部部隊を地中海戦線やフランス駐留軍から抽出して、損耗の激しい東部戦線に転戦させていた。

 もっとも今も国際連盟軍との講和は果たされていなかった。理由は前線の一下士官でしかないデム曹長にはよく分からないが、講和の条件などで難しい交渉などがあるのかもしれない。

 このようないつ再戦となるかもしれない状況で地中海戦線から多くの部隊を抽出するのは危険に思えるのだが、ソ連軍に大規模な突破を許した東部戦線の戦況はなりふりをかまっていられるような状況ではなかったのだ。


 第27戦闘航空団の転戦もこのような事情によるものだった。

 航空団は水冷エンジンを搭載するBf109を装備する純粋な戦闘機部隊だった。イタリア戦線では有力な国際連盟軍との交戦で戦力をすり減らされてはいたが、ある程度の補充は受けていたから戦力価値が無くなってしまっていたわけではなかった。

 第27戦闘航空団に所属する各飛行隊は、急な転戦命令に慌ただしくイタリアから本国を経由してポーランドへと向かおうとしていた。

 デム曹長が飛行隊長に呼び出されたのはそんな時だった。



 航空団の移動は容易ではなかった。移動させるのが人員だけではなく機材、それも重量のある地上の機材一切合財を運ばなければならなかったからだ。

 これまでの転戦であればさほど大きな苦労はなかった。ドイツ空軍の部隊が損耗によって交代する場合は、大抵は飛行不能な予備機や部品を含めて残留する部隊に機材を譲渡する場合が多かったからだ。

 高いコストをかけて前線に運び込んだ機材を、また手間暇かけて本国に持ち帰るよりも他隊の機材として現地で消耗させた方が効率が良いからだ。

 それに航空機材を消耗した部隊は、新機種に転換される可能性が高かった。少数ずつ前線に補充するよりもまとまった数で部隊に配備したほうが整備性も上がるからだ。


 ところが、イタリア戦線での戦闘を中途半端なところで切り上げられたためか、航空団は整備機材を含め現状のままで東部戦線に送られることになっていたのだ。

 そのために航空団が移送すべき物品は多く、整備隊だけではなく搭乗員まで含めた隊員全員が駆り出されていたのだ。


 ところが、そんな慌ただしい中で呼び出されたデム曹長は、飛行隊長から転属命令を受けていた。

 デム曹長よりも後から転属してきた飛行隊長とはそれほど長い付き合いではないせいか、事務的な淡々とした口調だった。曹長は僅かに眉をしかめていた。


 空軍が大拡張を行っていた時期に志願していたデム曹長は、開戦前からの戦闘機搭乗員であるベテランだったが、軍歴に反して撃墜数は振るわなかった。

 戦闘機乗りとしての技量は他の搭乗員に劣るとは自分でも思わないのだが、運は悪いようだった。ところが、上官や若い搭乗員達は撃墜数や勲章の数で相手を評価しようとするものだから、下手に古参の下士官であるだけにデム曹長の彼らからの評価は低かった。


 激戦の続く東部戦線に転戦する航空団からすれば、本来であれば搭乗員の他隊への転出は喜ばしい事態ではなかったはずだ。飛行隊長が転出者を直接選んだのかどうかはわからないが、それがデム曹長となったのは振るわない戦歴によるものではないか。

 しかも転属命令の内容はよくわからないものだった。てっきり、デム曹長は転属先は再編成される戦闘航空団か教育飛行隊だと考えていたのだが、実際には爆撃航空団だった。



 異様な命令だった。転属命令そのものではない。戦闘機搭乗員が爆撃航空団に異動するのが妙だったのだ。航空団の装備機種は不明だが、急降下爆撃航空団でも戦闘爆撃機を使用する攻撃航空団でもないということは、双発以上の大型機であることは間違いないだろう。

 だが、デム曹長がこれまで操縦してきたのは単発の戦闘機であるBf109だから操縦特性はかなり異なるはずだった。それ以前に、最近では制空権の維持が最優先とされて使い道のなくなってきていた爆撃航空団は縮小されているとも聞いていた。

 爆撃航空団は航空団ごとこの戦局においてより需要の高い戦闘機や攻撃機航空団などに転科するか、人員をそれらの航空団に転出させられているらしい。だから爆撃航空団からの移籍はあってもその逆は無いはずなのだ。


 あるいは、デム曹長が転出する航空団は夜間戦闘機隊への転科を控えているのかもしれなかった。高速の双発爆撃機に各装備を施して夜間戦闘機とすることが多かったからだ。

 だが、落ち着いて考えてみるとその可能性もさほど高くは無かった。夜間戦闘機が集中配備されているのはドーバー海峡からドイツ本国に至る地域だった。

 つまり英国空軍の夜間爆撃に対応したものだったのだ。噂通り国際連盟軍との講和が間近なのであれば、そのような部隊を増強する意味は無いはずだった。


 結局、デム曹長が第27戦闘航空団を離れる時になっても詳細は分からなかった。

 飛行隊長が言うには、水冷エンジン搭載の戦闘機に慣れた搭乗員が要求されていたというが、今でも戦闘航空団の装備は実質的に半数がBf109なのだからあまり参考にならなかった。


 デム曹長が事態を把握したのは、着任先の格納庫を覗き込んだその時だった。

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