1944バルト海海戦2
会合の出席者である次官達の多くは、今時大戦においてこれまでのドイツ軍の攻撃によって日本軍が被った損害を今更に口にした塩沢大将の意図がわからずに困惑していた。
しかし、同じような結論に達したらしい内務次官が眉をしかめているのを気にした様子もなく、企画院の長谷は言った。
「提督がおっしゃりたいのは、ドイツとの講和には大義名分が必要ということでしょうか」
塩沢大将は、僅かに苦笑していた。
「私にもうまくは言えないが、そう考えてもらって構わない。貴公らもご承知かと思うが、戦艦や空母のような大型艦は海軍のみならず我が帝国全国民にとっても象徴的な存在と言えるのではないかな。
そのような精神的な話を除くとしても、戦艦や空母のような大型艦が沈むということは、千人の単位で戦傷死者を出すということだ。誰かの息子や夫、父親が失われるのだよ。
ドイツとの講和を行うのであれば、その損失に見合うだけのものがあったと国民が納得できるだけの理由を我々は示す必要があるのではないかね」
塩沢大将の声は淡々とした落ち着いたものだったが、多くの次官はその声に迫力を感じていた。次官達を一度見渡してから大将は続けた。
「これが完全に勝利と言えるものであれば、国民も損失を許容したのではないか。ベルリンまで我が陸軍が進出するとか、講和ではなく降伏であるとか、あるいは講和を申し出てきた彼らが言うようにヒトラー総統が暗殺されたのではなく我々の手で始末しただとか、そういう事態の場合だ。
だが、現実には国際連盟軍はフランス、イタリア国境付近の地中海沿岸までは制圧出来ているものの、フランス本土深く侵攻出来たわけでもないし、ドイツ本土には足を踏み入れてもいない。
それに、この報告によれば……」
一旦口を閉じると、塩沢大将はガリ版で慌てて刷られたのだろう手元の資料を手にとって掲げながら続けた。
「講和を呼びかけてきたのはゲーリング国家元帥とあるが、彼はナチス党の幹部だろう。これではドイツ国内の内紛としか見られないかも知れない。外務省では彼の情報は集めているのかね」
声をかけられた外務次官は手元のメモ書きを参照しながら言った。
「ゲーリング国家元帥は、ナチス党内では元々親英国的な傾向が強いと見られていました。ただし、これまでのドイツ政権では外交を担当するリッベントロップ氏など対英強硬派に押されていたようですな」
「外務次官としてはどう考えるかね」
「無論私も提督のおっしゃるように一官僚に過ぎませんが、ゲーリング国家元帥が講和を申し込んできたこと自体は信用出来るかと。あくまでも私見ですが。
ただ、それがナチス党全体にその考えが行き渡っているか、それは疑問の余地はありますね」
外務次官は西洋人のように首をすくめながら言った。何人かはその態度に不快そうな顔をしたが、駐在武官などで海外勤務も多かった塩沢大将は満足そうに頷いていた。
「結構だ。無論我々は常に平和を願っているわけだから、交戦国からの講和の申し出を跳ね除けるような真似はしない。しかし、今現在彼らの申し出に飛び付かねばならない程に困窮しているわけではない。
言い換えてみれば、是非にも講和を行いたいのは2正面作戦を続けているドイツ側であって国際連盟側では無いのだからな。……ところで、国際連盟には我が帝国だけがあるわけではない。英露など他国の様子はどうなのだろうか」
視線を向けられた外務次官は、難しそうな顔になっていた。
「現在集積されている情報だけでは、各国の対応を予測するのは困難だと申し上げるほかありません。
ただ、英国は今のところ対応を決めあぐねているようです。講和の申し出自体は歓迎するものの、地中海方面はともかくドイツ潜水艦による船団襲撃は未だに止まっていない。
これが講和を前提として即座に停戦を行うとするゲーリング国家元帥の文言と矛盾しているのではないか、そう考えているのでは無いかと思いますが、提督はいかがお考えですか」
塩沢大将も首を傾げていた。
「潜水艦に関してはさほど詳しくはないのだが、ドイツ海軍の潜水艦は我が軍のそれと比べて艦形が小さく居住性も悪いにもかかわらず進出距離は大きいらしい。
おそらく対潜哨戒機の本格的な運用など、我々の対潜作戦能力の増大に伴って大西洋の中心にしか作戦海域を設定できなくなっていたためだろう。
それを考慮に入れると、現在作戦中の艦艇は大半がこの騒動が起こる前に出撃していた可能性が高い。それに彼らの潜水艦の寸法からして、さほど高性能の空中線を展開できるとも思えない。
仮に作戦の中止がベルリンなどから発せられていたとしても、行動中の潜水艦が通信を取り損ねる可能性は高いのではないかな」
外務次官もすぐにうなずいていた。おそらくある程度は予測済みだったのだろう。次官は納得した様子で続けた。
「なる程、それは納得できる理由ですね。おそらく英国軍も同様に考えているのでしょう。英国の夜間爆撃が停止しているのもそれがわかっているからでしょうか」
塩沢大将はわずかに眉をしかめていた。
「一応いっておくが、現在英国本土に展開する部隊を含めて攻勢は中止している。
ただし、これは我が軍を含む国際連盟軍の無力化を意味するものではない。講和の申し出が罠であった場合、真実であっても破綻した場合を考慮して前線の各隊は整備と警戒、それに偵察に専念している。
無論これは英国軍も同様だ。爆撃隊でも補充と整備で戦力の向上に努めているはずだ。もしもドイツが罠のつもりで講和を申し出ていたのであれば、手痛い代償を支払う羽目になるだろう」
「それは……その警戒態勢の維持はどの程度まで可能なのでしょうか。このままずるずると、いつまでも待機を続けるわけではないですよね」
声を上げたのは逓信省から来た男だった。塩沢大将は首を傾げていた。
「さて、一週間か二週間か……その程度は待機できるだろうがね。しかし、仮に停戦となっても貴官が望むようにすぐに平時体制に戻るということはできないだろう」
今度は逓信省の男が眉をしかめていたが、塩沢大将はあっさりと言った。
「仮にドイツと講和がかなったとしても、彼らの向こうにはソ連が待ち受けている。ドイツが敗れれば、我々が矢面に立たされる可能性もある。
ドイツが十分に強ければこんな心配はしなくて済むのだがね。どうも彼らが言うところの東部戦線では随分と押され続けているようだからな」
まるで入れ替わるかのように、今度は外務次官が眉をしかめていた。
「そのようになし崩し的に軍事的な理由だけでソ連と早々に戦闘を開始されては困りますな。
先程の続きですが、英国は最終的には我が国と共同歩調を取るかと思われます。彼らにとっても共産主義者からの防波堤となるドイツの存在は望ましいものですから。
提督のおっしゃるように、大義名分や見返りがあればドイツとの講和に応じても良いと英国政府は考えているでしょう。
ただ、他の国の中には困惑しているものもあるようです。フランスは我々以上に混乱しているでしょうね。最悪の場合、ドイツがフランス本国から撤退したとしても、今度は本土に残留していた抵抗運動、自由フランスとヴィシー政権の三つ巴の争いになりかねません。
我々は立場上自由フランス支持となるでしょうが、彼らには広大なフランス本土を統治するのに必要な官僚組織との接点を欠くのが弱点となるでしょう。
それに……」
「どの勢力も一枚岩ではなく、決定打に欠くということかね」
塩沢大将の要約に外務次官は苦笑しながら頷いていた。
「フランス本土の抵抗運動は、言ってみればこれまでは英国主導で無秩序に支援が行われていたのですが、必ずしも国際連盟側の自由フランスに隷属するものだけではありません。
自由フランスを嫌って英国の支援、指揮を受ける組織もありますし、中には共産党系の過激派もあるようです。
というよりも、現在のフランスは組織化されたものだけではなく、極端なことを言えば個人でしか行動していない抵抗運動も数多いようなのです。
自由フランスの思惑も参加した組織、個人で異なるでしょうから、フランス本土がこれからどうなるか、予測は極めて困難だと言わざるを得ません」
開き直ったように外務次官はいったが、周囲のものは困惑した表情を返すばかりだった。
内務次官もうんざりとした顔になっていた。
「それでは、フランス以外のドイツ占領地域はどうか。同様に混乱するのか」
外務次官は、淡々とした口調でいった。
「西欧の占領地域は概ねフランス同様と思いますが、自由フランスとは異なり本国から王室や政府機関が亡命していたためにフランスほどの混乱となる可能性は低いでしょう。それに本国に残された政府機関の統治力も限られていますから、ドイツが撤退すれば亡命政府の帰還は順調にいくでしょう。
むしろ、彼らがドイツに対して過剰な賠償を要求する可能性の方を考慮したほうが良いのかもしれません。将来的には我々の知ったことではありませんが、ドイツがソ連と交戦している間はドイツの足を引っ張りたくはありませんね。
難しいのはポーランドでしょうね。亡命政府は独ソ両勢力と敵対関係にあります。ドイツと講和を行ったところで、彼らがソ連占領下の本国に帰還できるのぞみは薄いでしょう」
一旦口を閉じると、外務次官は複雑そうな顔でいった。
「ドイツとの講和にあたって、考慮すべきはドイツ自体よりも彼らに占領された地域なのかもしれませんな。
国際連盟軍は、日英露、あとは満州といった国を除けば各国亡命政府や名目上の参戦でお茶を濁した国ばかりです。
これまでは、強大なドイツ軍を相手取っていたためにとりあえずは一体となっていましたが、ここから先は各国の思惑の違いが色濃く現れる事になると予想されます。
満州やインドシナ諸国などは日英と共同歩調をとるでしょうがほかはどうなるか……オランダなどは強硬な態度を取るかもしれません」
外務次官の発言に、海軍省から来た男が苦虫を噛み潰したような顔でいった。
「だが、亡命したオランダ政府軍などは戦力整備と言って東南アジアの植民地に籠もっているだけで、今次大戦の戦局にほとんど寄与していないではないか。彼らに発言権があるというのか」
「いや、東南アジアの植民地から提供、輸入される資源はかなりの量になりますよ。それに船団護衛部隊にはオランダ海軍も加わっているのではないでしたかな」
逓信省次官はそう言ったが、海軍次官は眉をしかめたままだった。
「彼らが派遣してきたのは、最前線では使えない老朽の駆逐艦ばかりだ。開戦直後ならまだしも、松型や英海軍の護衛駆逐艦が揃ってきた現状では、船団護衛でも他艦との性能の違いから、むしろ足を引っ張られかねないというのが現場の意見だ」
「彼らも国際連盟軍加盟国です。無下な扱いは避けてください。戦後も我々は蘭印から資源を購入しなければならないのですから」
外務次官がそう言うと、海軍次官は不詳不精といった様子で押し黙っていた。
外務次官は何事もなかったかの様に続けた。
「国際連盟加盟国で動きが読めない国があと一つあります。ロシア帝国です。ロシアは、これまでは今次大戦に慎重に対応してきました。言うまでもありませんが、我々国際連盟軍が対峙するドイツはソ連とも交戦しています。
そのために、ロシア側はソ連を過剰に刺激することのないように行動し続けています。バイカル湖畔の国境線で今紛争が起これば、戦時体制に移行済みのソ連が有利ですからね。
ですから、ここでドイツと我々が講和を行えばソ連がどう反応するか、それが読めるまでロシア帝国は積極的な行動を避けるものと思われます」
「大筋ではドイツとの講和を進めるとして、結局は彼らとの今後の条件のすり合わせ次第としか言いようがないのではないかな」
誰かがため息とともにそう言っていたのを、諦めとともに多くの出席者がうなずきを返していた。