1944総統暗殺11
ベルリンの総統官邸に呼び出されたグデーリアン上級大将は、不機嫌そうな顔で総統執務室の外に置かれたソファーに腰を下ろしていた。丁重ながらも有無を言わさぬ態度で上級大将をここまで案内してきた親衛隊の男はすでに扉の向こうに立ち去っていたが、執務室の扉が開けられる気配はなかなか無かった。
不機嫌そうな表情を隠そうともしないグデーリアン上級大将に恐る恐る対処しているのは、この部屋の持ち主が変わる前から総統官邸に務める職員だけだった。
この総統官邸の持ち主が実質的に変わってから何日か経っていたが、すでにベルリンの官邸街は総統暗殺の舞台となった東プロイセンからの命令系統ではなく、この総統官邸に従っていた。
詳細はグデーリアン上級大将にはわからなかったが、総統官邸に入ったゲーリング国家元帥やその取り巻きたちは、巧みな手腕で多くの実務官僚たちを統率することに成功したようだった。
ただし、軍部はまた別だった。官僚達は政府の閣僚でもあったゲーリング国家元帥を当座の指導者として認めたのかもしれないが、軍人たちはヒトラー総統本人に忠誠を誓ったのであって、国家元帥は忠誠の対象ではなかったからだ。
グデーリアン上級大将自身は、別にゲーリング国家元帥がドイツの首班となること自体には反対するつもりはなかった。親衛隊と軍との力関係やこれまでの実績を考慮すれば、ヒムラー親衛隊長官よりはゲーリング国家元帥が政府首班となるほうがマシだろうとは考えていた。
もっとも、簡単にグデーリアン上級大将はゲーリング国家元帥に尻尾を振るつもりはなかった。最終的には従うにしても、それまでの間に自分や軍部の価値を出来るだけ高く売りつける事が重要だと考えていたのだ。
グデーリアン上級大将は、ソ連侵攻時に起こった方針の違いからヒトラー総統から罷免された後も、注意深く前線の情報を収集していた。装甲兵総監の地位についた後もそれは変わらなかった。
得られた情報をもとに推測する限りでは、グデーリアン上級大将は残念ながらドイツの敗北は避けがたいと考えていた。
ヒトラー総統はいずれ前線に配備されるであろう数々の新兵器による逆転を夢見ていたようだが、装甲部隊の編制に携わる装甲兵総監であったグデーリアン上級大将は、開発中の新型戦車が配備されたところで、練度の低下した戦車兵や整備兵ばかりの戦車隊では十分にその性能を活かすのも難しいと考えていた。
ドイツの敗北が避けられないのであれば、そうであればこそ自分の価値を高く売りつける必要があった。ドイツの現政権の崩壊が避けられなかったとしても、戦後も軍人たちは生き延びなければならないのだから富や名声はいくらあっても足りないことはなかった。
どのような形で敗戦を迎えるにしても、いずれはドイツの軍事力は再建が図られるはずだった。年齢からしてその新生国軍に自分が加わるのは難しいだろうが、顧問の形であれば違和感はないし、先の大戦で活躍した将軍という名声が高まれば在野にとどまるにしても市民からの支援も受けられるのではないか。
グデーリアン上級大将があれこれと考えていると、親衛隊の男が無遠慮に声をかけてきていた。
総統執務室に入ると、記憶にあるよりも机が小さく見えていた。平均的な体格だったヒトラー総統よりも、ゲーリング国家元帥のほうが遥かに横幅があるせいかもしれなかった。
ゲーリング国家元帥は、グデーリアン上級大将を呼びつけたにもかかわらず、忙しそうに机の上の書類を確認して次々とサインをしていた。苛立ちを覚えながら上級大将が声を上げようとした瞬間に、国家元帥は顔を上げると済まなさそうな表情で言った。
「いやすまんな、見てのとおり立て込んでいるのでね」
そう言うと、ゲーリング国家元帥は書類の束を親衛隊の男に渡しながらグデーリアン上級大将に執務机前のソファを指し示していた。
「現状に関してどこまで把握しているかね。グデーリアン」
着席したのを見計らったかのようなタイミングでゲーリング国家元帥が言った。グデーリアン上級大将はうなずいてみせたが、そんな事を気にする様子もなく国家元帥は続けた。
「ソ連軍の今回の攻勢が開始される前に、我が軍は北方、中央、南方の三個軍集団を東部戦線に展開していたが、ソ連軍の大規模な突破作戦の目標となった中央軍集団は現在実質的に壊滅した状態と言える。
今回の攻勢では、ソ連軍は突破を優先したのか残存した兵員は少なくないようだが、中央軍集団司令部は突破作戦の際に大規模な襲撃を受けたらしくモーデル元帥も行方不明となっている。
正直なところ私はモーデル元帥はすでに戦死しているのではないかと考えている。軍集団司令部は、脱出してきた護衛部隊の証言によれば、ソ連軍から突破作戦の最中に集中射撃をくらったらしいからな。
他の師団級司令部も通信が途絶した部隊が多く、脱出した残存部隊は南方軍集団から部隊を出して収容を開始しているが、ばらばらに脱出してきた小部隊を再編成するのに手間取っており、がら空きとなった南方軍集団側面の防御に回すのが精一杯で反撃は当分難しいというのがマンシュタイン元帥の意見だった」
暗にすでにマンシュタイン元帥とは連絡は取り合っているという話をしながらゲーリング国家元帥は続けた。
「南方軍集団では当初戦線全面で攻勢を確認していたが、結局これは大規模な陽動の粋を出なかったようだ。マンシュタイン元帥と参謀たちは全部隊を未だに掌握し続けている。
ただし、南方軍集団がこれ以上後退すれば、ユーゴスラビアで旧王国軍派が勢力を増しつつある為に、バルカン半島やギリシャとの連絡線が立たれる恐れがあるとマンシュタイン元帥は言っていた。
ちなみに、私は指揮下の部隊の残存に寄与するのであれば、マンシュタイン元帥の行動に制約を与えるつもりはないと通達している」
ゲーリング国家元帥の説明は達観しているかのようだった。グデーリアン上級大将は口を挟もうとしたが、それよりも早く続けられていた。
「さて、では肝心の北方軍集団だが、かれらは中央軍集団を切り裂いて西進したソ連軍主力によって包囲されている。今の所、師団級以下の司令部の多くは無事のようだ」
一旦ゲーリング国家元帥が説明の口を閉じた隙を狙って、グデーリアン上級大将がようやく口を挟んでいた。
「ソ連軍がそこまで我々の電撃戦を真似て高速で進出してきたのは意外ですが、大きな損害を被ったのは中央軍集団だけなのでしょう。それならばマンシュタインの南方軍集団とリンデマンの北方軍集団の戦力で南北から突出部を逆包囲して突破口をふさぐ事も出来るのではないですかな」
だが、ゲーリング国家元帥は冷ややかな声でいった。
「どうも貴官は状況をよく理解していないようだ。すでにソ連軍突破部隊は西進を止めて北上しており、すでにバルト海の海岸線に到達して北方軍集団を全面的に包囲する体制に移行している。
それだけではない。バルト海では、艦砲射撃を中止して急遽出撃した我が海軍の艦隊がソ連海軍と交戦したが、大きな損害を受けてキールまで後退している。
我が海軍は戦艦グナイゼナウを始めとする艦隊を出撃させたのだが、ソ連海軍のバルト海艦隊は予想以上に戦力を集中させていたようだ。
未だに正確なところはわからないのだが、少なくともガングート級とクロンシュタット級か戦艦4隻以上を含む有力な艦隊だったそうだ。つまり、すでに我々は海上からの連絡線をも絶たれたということだ。
勿論、陸でも海でも強引な突破を行った彼らの戦力は薄く引き伸ばされているから、その間隙を縫って脱出することは不可能ではない。
しかし、高速の軍艦や、機動力を保持した装甲師団ならばともかく、鈍足の商船や歩兵師団、避難民の群れではソ連軍の包囲網を大きな損害なしに突破することは難しいと我々は考えている。
それに、先程も言ったが、北方軍集団は師団以下の命令系統は維持されているが、軍集団はほとんど機能していない。信じがたいことだが、リンデマン上級大将は突破作戦が行われた頃、軍集団司令部の幕僚を引き連れて総統大本営を訪れていたそうだ」
グデーリアン上級大将は、唖然とした表情を浮かべていた。
「それではつまり、リンデマン、いや北方軍集団はソ連軍ではなく……」
苦々しい表情を浮かべたゲーリング国家元帥は大きく頷いていた。丸々とした顔つきの国家元帥がそうするとまるでふんぞり返った蛙のようだったが、そのユーモラスな姿を笑うような余裕はなかった。
「裏切り者達が破廉恥な行為を行ったその時、リンデマン上級大将もその場にいたのは間違いない。ソ連軍による突破作戦時に北方軍集団が能動的に動く事ができなかったのはそれが理由であるようだ。
それと……今回のソ連軍の作戦は、捕虜から得られた情報によればトハチェフスキー攻勢と呼ばれているそうだ」
酷く疲れたような顔でゲーリング国家元帥はいった。トハチェフスキー元帥は、ソ連軍の近代化を主導したという赤軍の軍事理論家だった。赤軍の至宝とも呼ばれたほどの逸材だったが、ここ数年はその名がソ連の宣伝などに挙がる機会はなかった。
ドイツ軍の情報機関で得られた情報では、機械化の推進による機動戦を指向していたトハチェフスキー元帥の理論に対して、従来の砲撃戦を重視したソ連軍のドクトリンを唱える主流派との間で衝突があったと言われていた。
同時に、軍の独自性を確立しようとしたトハチェフスキー元帥がスターリンの逆鱗に触れて粛清か更迭されたとの未確認情報もあった。
しかし、事前に得られていたそのような情報は誤ったものであったようだ。更迭された軍首脳の名前をこのような一大攻勢作戦の名称に取り入れるとは思えなかったからだ。
グデーリアン上級大将の考えを肯定するようにゲーリング国家元帥が言った。
「捕虜が言うには、トハチェフスキー元帥は病死したらしい。それが本当かどうかは分からないが、ソ連軍の将兵に対してはトハチェフスキー元帥の死を悼んでこの攻勢作戦に同志スターリンがその名を冠した、と説明されたらしい」
「では、この作戦の内容自体もトハチェフスキー元帥が加わって立案していたものだと……」
グデーリアン上級大将はそう言ったが、ゲーリング国家元帥はそこには興味も無さそうだった。
「それは分からない。ただ、これまでのソ連軍の攻勢が砲兵戦を念頭に置いたものに対して、今回は機動力を重視したのは確かだから、その可能性はあるだろう。
だが、正直なところソ連軍の作戦立案者が誰かは些事に過ぎぬ。問題は、実質的に二個軍集団の司令部が壊滅して統率が取れない時期に、軍中央の指導者が不在な点にある」
そこで一旦ゲーリング国家元帥は口を閉じてから、グデーリアン上級大将の目を見ながら言った。
「グデーリアン上級大将、貴官にはそこで陸軍参謀総長に就任して、マンシュタイン元帥と共に東部戦線の立て直しを図って貰いたい」
一瞬、グデーリアン上級大将は嫌そうな顔になっていた。予想していなかったわけではなかったのだが、労多くして功少ない事になるのではないか。
―――最終的に引き受けざるを得なかったとしても、条件を吊り上げてみるか……
グデーリアン上級大将はそう考えたのだが、ゲーリング国家元帥はそれよりも早く、朗らかとさえ見えるような顔になって言った。
「ところで、ご家族は無事だったかね。貴官が買い求めた荘園は、すでにソ連軍の占領地帯に含まれてしまっているのではないかな」
「はぁ……幸い家族は脱出が叶いましたが……」
突然の話題にグデーリアン上級大将は警戒していた。そんな眉のしかめられた上級大将に対して、一見するとひどく同情しているような顔になりながらゲーリング国家元帥は手元に置かれた一通の封筒を手にとっていた。
「それは幸いだったな。だが、残念ながら荘園付邸宅の内外改装費用の請求書が来ているのだが。荘園で施工を行った業者もベルリンまで脱出してきたのだが、貴官の所在が分からなかった為に巡り巡ってこちらに回ってきたようだ……」
予想もしなかった展開に呆気にとられながらグデーリアン上級大将は封筒を見つめていた。