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1944総統暗殺8

 ヘルマン・ゲーリング国家元帥の邸宅は、ベルリン郊外のショルフハイデに広がる森林に設けられていた。

 贅を尽くした家屋の周囲には、開発が制限された鳥獣保護区が広がっており、ゲーリング国家元帥が周辺の住民を招いて狩りを行うこともあるらしい。


 ケラー中尉は闇夜の中でそのカリンハルを守るように広がる深い森の中を走らせていた。すでに深夜と言っても良い時間帯だった。ただでさえ森の中には太陽光も届きづらく薄暗いのだが、夜はそのおどろおどろしさが増すような気がしていた。



 しかし、ケラー中尉が運転するシトロエンの助手席に座るシェレンベルク准将は落ち着いた様子を崩さなかった。

 実際にはゲーリング国家元帥の邸宅を含むショルフハイデの森は、十分に管理された土地だった。狩りの獲物となる鹿や鳥類などはともかく、暗がりに潜む物の怪が住む余地は残されていなかった。


 ケラー中尉は、ふとある事を思い出していた。この森を舞台とするものだけでは無く、ゲーリング国家元帥は狩りを趣味の一つとしていたが、ナチス党の幹部の中には国家元帥の趣味に眉をひそめる者もいた。

 ヒトラー総統は菜食主義者として知られていたが、ゲーリング国家元帥の狩猟には興味を示すことも表立って批判することも無かった。単に都市部の官僚の家に生まれて芸術家を志していたという総統には、職業ではなく趣味として山野で行う狩猟という貴族的な行為自体に馴染みがなかったのかも知れない。


 狩猟だけではなく、ゲーリング国家元帥の貴族的な趣味の数々を退廃的な浪費に過ぎないとして嫌悪感を顕にしている筆頭はヒムラー親衛隊長官だった。

 ヒムラー長官は、総統以上に厳格な菜食主義者であり、殺生を嫌ってゲーリング国家元帥の狩猟趣味に眉をひそめていたのだ。

 それに華美な貴族趣味を愛する国家元帥とは違って、ヒムラー長官は私腹を肥やすことなく政府高官には似つかわしくないほどの質素な生活を送っている、ことになっていた。



 実のところはこの二人の出身階級などにはさほど大きな差はなかった。二人共中産階級に位置するとはいえ、上流階級との付き合いのある裕福な家庭に生まれていた。ヒムラー長官は王家の家庭教師の息子であったし、ゲーリング国家元帥も大貴族を代父として高位外交官の家に生まれていた。

 ただし、ゲーリング国家元帥は少年期から代父の元で上流階級の中で成長していた。ナチス党が政権を奪取する過程で産業界からなどの支援を受けることができたのは、国家元帥の上流階級との豊富な人脈によるものであった。

 それに、今は見る影もないが、ゲーリング国家元帥は先の欧州大戦で活躍した著名な撃墜王でもあった。訓練過程で終戦を迎えた為に実戦経験の無いヒムラー長官やゲッベルス宣伝大臣が国家元帥に隔意を抱くのはこれも一因であるのかも知れなかった。

 つまり実戦経験の無さが華麗な経歴を持つゲーリング国家元帥に対して劣等感を抱かせているというのだ。


 ただし、親衛隊でも最大の諜報機関を束ねるシェレンベルク准将の副官であるケラー中尉は、必ずしもヒトラー総統やヒムラー長官が報道されている通りの節制された生活を送っているとは言えないことを知っていた。

 例えば、限られた給与以外に収入を持たないとされている総統だったが、実際には自身の肖像を用いた切手の発行によって郵政省から莫大な報酬を得ていた。

 ヒムラー長官の場合はもっと醜悪だったかも知れなかった。金銭的には禁欲的と言われる一方で、長官は何人もの愛人を抱えて性的にはだらしがないと言われていた。その点では、ゲッベルス宣伝大臣も同じようなものであるらしい。



 これに対して、私腹を肥やして贅沢な生活を送る一方で、ゲーリング国家元帥は、女性関係は潔癖そのものだった。国家元帥の中では、婦女子は庇護すべきものとまるで騎士道物語の主人公のようにでも考えているのではないか。

 それに、瀟洒な生活を送るゲーリング国家元帥に対して、一般国民が送る視線は案外に悪いものだけではなかった。あまりに開けっぴろげにしているせいなのか、むしろ微笑ましいとすら思えるようだった。

 一見すると禁欲的な日々を過ごすヒムラー長官が反感を抱くのは、政治的な対立などではなく、もっと単純なものが理由であるかもしれなかった。



 カリンハルへの道はもう通い慣れているせいか、シトロエンのハンドルを握る一方でケラー中尉は埒もないことを考えていた。

 ケラー中尉は助手席のシェレンベルク准将が身じろぎするのを感じていた。その理由は明らかだった。予め予想されていたことだったが、先に見えてきたカリンハルは、深夜にも関わらず煌々と照らされていたからだ。


 ケラー中尉がカリンハル正面玄関の近くにシトロエンを停車させると、こちらを覗き込むようにする不安そうな目に気が付いていた。視線の主はゲーリング国家元帥の使用人達のようだった。邸宅は慌ただしい雰囲気に包まれていた。

 しかし、シェレンベルク准将はそのような雰囲気とは無縁のように、何度も訪問しているために顔見知りとなっていた使用人に笑みを見せていた。相手もこわばりながらも笑みを返していたが、准将は勝手知ったる他人の家と案内もつけずに颯爽とした調子で入り込んでいた。


 ケラー中尉も急いでシェレンベルク准将についていった。行き先は分かっていた。ゲーリング国家元帥の執務室だった。

 シェレンベルク准将自ら扉を開けると、案の定ゲーリング国家元帥が執務机の向こう側にどっしりと座っていた。


 室内にいたのは、ゲーリング国家元帥だけではなかった。執務机を囲むように何人かの男達がいた。

 神経質そうに開け放たれた扉に振り返ったのは、国防軍情報部付きのオスター少将だった。それに、彼の部下らしき男達の他に1人執務机前のソファーに腰を下ろしているのは、その上官の情報部長であるカナリス提督だった。


 状況からして、カナリス提督の命で部下の補佐を得ながらオスター少将がゲーリング国家元帥に何かの説明を行っていたのだろう。

 シェレンベルク准将の入室を見たカナリス提督は、ほんの僅かに手を振っていた。説明は終わっていたのか、情報部の男達は手早く書類などを片付けてカナリス提督とオスター少将を残して退室していた。



 それまで執務机に目を向けていたゲーリング国家元帥が顔を上げていた。ケラー中尉は、表情の変化を周囲に悟らせないために必死になっていた。最後に国家元帥と面会したのはつい先日のはずだったが、わずか数日で国家元帥は激しく憔悴していた。

 正確には、今日の午後から大きな変化が生じていたのだろう。シェレンベルク准将と共にケラー中尉はベルリン中を情報をかき集める為に走り回っていたが、その間にカナリス提督達がカリンハルを訪れて総統暗殺の件を報告していたはずだ。


 ゲーリング国家元帥はいつものように特別誂えの白い軍服を着込んでいたが、まばゆいまでの純白の生地で縫製されていたはずのその軍服は、どこか薄汚れてくすんでいる上に皺だらけになっていた。

 室内にいたはずだから、国家元帥の軍服にさほどの汚れが付くはずもないのだが、五月雨式に飛び込んでくる情報をこの時間までまんじりともせずに待ち構えている間に汚れていったのだろう。

 あるいは、ゲーリング国家元帥の焦りが体を通して染み付いてしまっていたのかもしれなかった。


 憔悴しきった様子のゲーリング国家元帥は、入室したシェレンベルク准将の顔を見ると、すがりつくような目をしながら何事かを言いかけたが、口をついて出たのは唸り声のような吐息だけだった。

 実際に口に出したらそのことが決まってしまう。ゲーリング国家元帥はそう考えていたのではないか。



 ケラー中尉は、僅かに眉をしかめながら憔悴したゲーリング国家元帥の様子を見ていた。


 自分たちがカリンハルを訪れたのは、突き詰めればカナリス提督の計画だった。

 カナリス提督は、現状のヒトラー総統率いるナチス党による行き詰まった政権運営に危機感を抱いていた。しかし、軍内外のクーデター派にも期待はできないと考えていたようだ。

 理由はケラー中尉にはよく分からなかった。純粋な軍人であるカナリス提督は、親衛隊よりも軍内の事情には詳しいはずだから、なにか思い当たるところでもあったのかも知れなかった。

 あるいは、クーデター派の思惑とは異なり軍上層部のヒトラー総統への忠誠は深く、クーデターは失敗する可能性が高いと判断していたのかもしれない。


 何れにせよ、カナリス提督が次点として考えていたのが、ナチス党の幹部の中では対外穏健派で親英、親日的な傾向の強いゲーリング国家元帥だった。国家元帥を政府首班として操ることができれば、国際連盟軍との講和も可能だと考えているようだった。

 その様なカナリス提督の計画の中で、ゲーリング国家元帥を意のままに操作する役割を与えられたのがシェレンベルク准将だった。



 以前より仕掛けは成されていた。

 カナリス提督の差金で、親衛隊所属のシェレンベルク准将と、国防軍所属のオスター少将が、実質的に蟄居状態にあるゲーリング国家元帥に対して交互に戦況を説明するためにカリンハルを訪れていたのだが、その際に意図的にオスター少将よりもシェレンベルク准将の方が好印象を与えるように細工していたのだ。


 些かケラー中尉には違和感のある措置だった。子飼いの部下であるオスター少将ではなく、親衛隊のシェレンベルク准将の方をゲーリング国家元帥が信用するようにカナリス提督が工作していたからだ。

 ただし、シェレンベルク准将もその副官であるケラー中尉も、カナリス提督の思惑通りに動くしかない立場に立たされていた。



 きっかけとなったのは、昨年のイタリア王国の枢軸側からの劇的な離脱に前後して実施されていた前国王エマヌエーレ3世の暗殺事件だった。

 実際にはこれは国王暗殺を目的としたものでは無かった。イタリア王国の変節を予期していたドイツ側は、ベルギー出身で反ナチス的な言動の目立つ皇太子妃を標的とする作戦を実行しようとしていたのだ。

 勿論、皇太子妃を暗殺するつもりではなかった。彼女を誘拐することで、間接的にイタリア王国国民からの人気の高い皇太子を操ろうとしていたのだ。


 この作戦に投入されたのは、武装親衛隊内に編成された部隊である第502親衛隊猟兵大隊だった。

 同大隊は、一般的な戦闘に投入される部隊ではなかった。主隊の侵攻に先んじて開戦前に行われる敵地への潜入、破壊工作や戦線後方での撹乱など特殊な技能を必要とする作戦に投入されるために編成されていたのだ

 このような特殊戦部隊は、正面から正規軍と戦えば軽装備の歩兵部隊に過ぎないが、状況が噛み合えば僅かな兵士達が何万人もの兵士からなる一軍よりも大きな成果を上げることも可能だった。


 昨年度に計画されていた皇太子妃の拘束も、この猟兵大隊の指揮官であるスコルツェニー中佐の指揮で行われた作戦だった。

 ただし、第502猟兵大隊はあくまでも実施部隊であって情報収集能力は持たされていなかった。そこでイタリア国内の政治体制などの情報提供といった支援を国外情報の収集を任務としていた親衛隊国家保安本部第6局が行っていたのだ。



 だが、この作戦は結果的に大失敗に終わった。作戦自体がどうというよりも、全く意図していなかった国王暗殺事件へと発展してしまっていたからだ。

 イタリア王国の指導者層をドイツ側を留め置くことを作戦の目的としていたはずだったが、実際には指導者層どころか、一般国民までもがエマヌエーレ三世の死を受けて反ドイツの決意を固めていたのだ。


 カナリス提督が事態に介入してきたのは、そんな時だった。

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