1944総統暗殺3
妙な老人だった。自身も初孫ぐらいがいてもおかしく無い年齢になっていたのだが、ロンメル元帥はエッカート老を前にしてそう考えていた。
ロンメル元帥が、このエッカート老人の為に仕立てられた特別列車に便乗しているのは、半ば偶然によるものだった。
元々ロンメル元帥は、指揮下の軍集団が駐留する北フランスから総統との面会を求めて現在滞在しているという情報のあったベルリンに向かっていたのだが、ベルリンに着いたところで総統が実際には総統官邸に不在であることを聞かされていたのだ。
思惑が外れた形になったが、あまり時間に余裕は無かった。直属上官である西方総軍司令官ルントシュテット元帥からは、軍集団の指揮権に空白が生じるのを避ける為に用件は短い休暇の間に済ませるように厳命されていたからだ。
総統が東プロイセンの総統大本営でいつもどおりに執務をとっていることまではわかったのだが、そこから先はなかなか事態が進まなかった。ドイツ本国から東プロイセンや旧ポーランド領への移動が制限されていたからだ。
西方総軍司令部にはまだ通達はなかったが、東部戦線では大規模な作戦行動が予定されているらしい。それに合わせて部隊や物資の移動に優先権が与えられているらしく、通常の旅客列車の運行は滞っているようだった。
当初は、ロンメル元帥は便乗できそうな列車を探そうとしていた。部隊の移動が激しいのであれば逆に便乗など容易だと考えていたからだ。
ところが、実際には便乗できる列車はなかなか見つからなかった。行き先が微妙に異なったり、無蓋貨車ばかりの機甲部隊や補給物資専用などで元帥を乗車できる客車が編成に含まれていなかったりと理由は様々だったが高官の便乗は拒否されるばかりだったのだ。
戦時下のベルリンは混乱していた。それに総統護衛部隊の指揮官を勤めていたロンメル元帥はベルリン勤務も長かったのだが、元帥がフランスから北アフリカ、イタリア戦線と転戦し続けている間に、戦時体制の強化による相次ぐ拡張工事で見慣れない施設や部署がいつの間にか増えていた。
ロンメル元帥は事務処理能力に長けた副官を帯同してこなかったことを後悔していた。元帥は先の大戦以来の豊富な実戦経験を有していたが、その一方で参謀勤務などの後方勤務の経験は少なかった。
普段は事務作業を補佐する副官が付いているのだが、総統との面会こそ約束をとりつけたものの、公式にはロンメル元帥は休暇中の扱いだった。休暇中でも副官を連れて行くくらいは不思議ではなかったが、目立つのを避けるためにあえて単独行動をとっていたのだ。
暫くの間ロンメル元帥は無為に鉄道駅やベルリンの各司令部を回っていたのだが、次第にある事情が見えてきていた。どうやら元帥の便乗が断られているのは、物理的な問題というよりもベントラー街の陸軍総司令部から何らかの要請があったらしいのだ。
ロンメル元帥に直接対応した職員達にも事情は知らされていなかったようだが、何人かは口を濁らせながらもベントラー街の関与を示唆していた。
困惑する事態だった。ロンメル元帥の移動を妨げているのは同じ陸軍であるというのだ。ただし、理由がいくつか思いつかないわけではなかった。
機密度が高いのか東部戦線で予定されている作戦の規模などは分からないが、部隊移動の様子からすると相当に大規模なものになるようだ。そのような一大作戦を実施しようとしているときに、ロンメル元帥のような有名人の高官が訪れて作戦を引っ掻き回されたくないと考えているのではないか。
実際にはお忍びの視察などではなく、単に目的地である総統大本営が東部にあるというだけなのだが、そう素直に受け取れないものは少なくないはずだった。
理由はわかったものの、ロンメル元帥は途方に暮れることになった。その頃には移動手段を見つけられずに総統との面会を諦めて一度フランスに戻ろうかとも考え始めていた。
一縷の望みを掛けて空軍の輸送機も探してみたが、鉄道網以上に貴重なそれらは全て高官の移動や貨物輸送で手一杯の状態で、休暇中扱いの元帥を乗せてくれそうな機体は簡単には見つかりそうもなかった。
状況が一変したのは、手詰まりを感じて駅まで戻ってきた時だった。対応した職員は最初とは代わっていた。気が付かないうちに随分と時間が経っていたらしい。
その職員の対応は先程と変わらないように思えた。ロンメル元帥のファンだというその職員は、直筆のサインを貰って嬉しそうにしていたものの、申し訳なさそうな声で軍用列車への便乗は禁止されているといった。
職員の言葉を上の空で聞きながら、ロンメル元帥は立ち去ろうとした。ところが、職員の話はそれで終わりではなかった。憧れの元帥と話ができた事で上機嫌になっていた職員が続けていたのだ。
ロンメル元帥に対応したドイツ国鉄職員が持ち出した案は、軍用列車ではなく要人専用列車への便乗だった。
盲点だった。大規模な作戦に対応するために軍用列車の増便の煽りを受けて通常の客車の運行は大きく遅れていたのだが、専用列車はその例外となっていたのだ。
しかも、都合の良いことに専用列車の行き先は総統大本営になっていたのだ。
だが、ロンメル元帥はその話を聞いても眉をしかめていた。随分と都合のいい話だった。この状況で総統大本営のある東部に向かう専用列車を用意できるなど並大抵の権力では出来ないはずだった。
それが誰かは分からないが、便乗者の存在を気楽に容認するとは思えなかった。
ところが、職員を通じて打診した便乗願いはあっさりと承諾されていた。その頃になってようやくロンメル元帥は専用列車の客がエッカート老であることを知った。
しかも、ロンメル元帥は便乗した車内では隅の方で控えているつもりだったのだが、実際にはベルリン近郊の駅を走り出てすぐにエッカート老に呼ばれて旅路の間エッカート老の相手をする羽目になっていたのだ。
エッカート老とは面識が無いわけではなかった。ロンメル元帥は開戦前は総統護衛隊勤務が長かったから、その時からナチス党の特別顧問だったエッカート老と顔を合わせたことは何度もあったのだ。
だが、当時のロンメル元帥にはエッカート老の印象はさほど強くは残っていなかった。ヒトラー総統を始めとして強烈な個性を持つ他のナチス党の幹部に比べれば好々爺然としたエッカート老は目立たない存在だったのだ。
実際にはエッカート老の影響力は大きかった。引退して孫か曾孫の相手でもしているのが似合いそうな外見だったが、そのような見た目に反してエッカート老は苛烈な民族主義者として知られていた。
確かに、ナチス党の政権奪取当時は、すでにエッカート老は老齢を理由に公職には就かずに党の特別顧問という肩書でしかなかったのだから、引退していたようなものだった。
だが、これが要人に与える影響を考慮すると事情は変わっていた。エッカート老は、ナチス党の初期活動期から生き延びていた貴重な人材だった。民族主義者の論客として活躍をしていた時期はそれよりも長い程だった。それに、劇作家やジャーナリストとして先の大戦前から名の売れた人物でもあった。
今の党幹部の中にもナチス党が不遇を囲っていた時期にエッカート老の世話になっていたり、数多くの著作に影響されたと公言するものも少なくなかった。若い党員たちにしてみればただの老人でしかないが、古参党員にしてみれば頭の上がらない存在なのだろう。
そのエッカート老が車内でロンメル元帥をそばに招いたといっても、最初は単に長旅の間の話し相手を求めているだけだろうと考えていたのだが、実際には列車が走り出してすぐにエッカート老は核心をついてきていた。
「元帥は大本営で総統に直訴するつもりかね」
短く言ったエッカート老の表情はあくまでも穏やかなものだったが、その目は深く、相手の心まで取り込もうとしているようだった。
ロンメル元帥は、思わず言葉を失っていた。具体的な単語は何一つ出ていないにも関わらず、エッカート老はすべてを察しているのではないか。そう考えていたしまったのだ。
幾多の戦場を駆け巡ったロンメル元帥は、この小柄な老人を前にして冷や汗を感じていた。
ロンメル元帥が言葉を選んでいる間に、エッカート老の方が先に口を開いていた。
「ありがたい事に私のような時代に取り残された老人でもまだ慕ってくれるものもいるのでな。彼らから話を聞いておおよその事情は理解しているつもりだ。
君は、指揮下の部隊を引き連れて、イタリア半島に攻め寄ろうとしているのではないかな。一度はケッセルリンク元帥との論争に負けて、君はイタリア戦線から引き上げさせられてフランスに送られていた。
ベルギーからフランス周辺の海岸地帯周辺に展開する部隊は、本来英国から上陸を図る敵主力に備えて大西洋の防壁たらんとする為に配置されているはずだった。
ところが、待てど暮らせど英国本土に駐留しているはずの部隊は動こうとしない。それどころか、イタリア戦線から抽出した戦力によって南部フランスへの上陸をも許してしまった。
どうやら英国本土に駐留する部隊は囮だったようだ。あるいは、単純にすでに前線に投入された部隊の移動を確認できずに幻の戦力に踊らされていただけなのかもしれない。軍上層部ではそのような疑いを持ち始めているとも聞いている。
実際のところは私のような軍事の素人にはわからないが、君はこのような状況……具体的には何ら戦局に寄与できずに無為に過ごしているかもしれない事自体を憂いているのではないかね」
次々と言葉を連ねるエッカート老の底なし沼のように深い目に覗き込まれているうちに、次第にロンメル元帥は警戒心がなくなって来ていた。
エッカート老は続けた。
「君には戦いを求める強い心があるのだ。安心したまえ。私は君のその心を否定したりしないよ。君の心を作り上げたのはドイツ民族の、戦場で君の名を呼びながら戦死した仲間達との絆だからだ。
君は先祖代々戦いを生業とする硬直したユンカーとは違う。市井から生まれた君のような男が、ゲルマンの騎士として目覚めた事を一人のドイツ人、一人の民族主義者として大変誇りに思う。
だから、場合によっては君の作戦計画を承認するように私から総統にとりなしても良いと考えているのだ。
君が総統に直訴したいのは……国際連盟軍、というよりも日本軍の後背からのニース奪還、ではないかな」
ロンメル元帥は押し黙っていた。エッカート老の言葉が誤っていたからでは無かった。軍事には素人と言いながらも、エッカート老は元帥の作戦計画を正確に見抜いていた。
遊兵となりつつあるロンメル元帥のB軍集団や、他のフランス駐留部隊を動員すれば、ニースの奪還は難しくない筈だった。
それだけではなかった。ニース奪還の先には、無防備に背面を晒した日本軍主力の姿が見えるはずだった。
ロンメル元帥は、ニース奪還から日本軍の撃滅、さらにその先のイタリア戦線への突入まで考えていたのだ。
気がつくとロンメル元帥はエッカート老に今度は自分の考えを話していった。作戦の事だけではなかった。これまでの戦争で感じた思い、散っていった部下達のこと、堰を切ったように溢れ出るそうした様々な思いが発する言葉を夢中で話していた。
何故この老人に話す気になったのか、それは途中から考えることすら忘れていった。完全な自分の理解者が現れたのだと考えたからかもしれなかった。
一体どれほどの時間が経ったのか、それもわからなくなっていた。何度かエッカート老の使用人らしきものが来て食事をとっていた記憶はあった。夜通し語っていたような気もするし、それに反して微睡みの中に居たような気もする。
ふとロンメル元帥が我に返ると、目的地である総統大本営が近づいてきていた。すでに一般の路線を離れて総統大本営専用の待避線に入り込んでいるのか、周囲の景色がこれまでとは変わっていた。
車窓は締め切られていたが、どこかから夏らしい眩さを感じられる干し草の匂いがしてくるようだった。
半ば呆然としながらも、ロンメル元帥は大きく伸びをしていた。よくはわからないが、エッカート老と話をしたことで万事がうまい方向に行くような気がしていた。
だが、ロンメル元帥の動きは途中で止まっていた。よく伸びた木々の向こう側から白煙が見え隠れしているのがわかったからだ。本格的な爆撃などの痕跡とは思えなかった。頼りなく宙に消えていく白煙はただ一筋しかなかったからだ。
それにも関わらずロンメル元帥の視線は白煙に釘付けにされていた。何かとてつもない事態が起きている。そのような予感だけがあった。