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1944総統暗殺1

 イタリア社会共和国の首相を務めるファリナッチは、不機嫌そうな表情を隠そうともせずに周囲を睨みつけていた。専用列車の絢爛な調度品や椅子もファリナッチの気分を和らげてはくれなかった。

 この車両には他に何人かの随員が同乗していたが、誰もがファリナッチの怒りを買うのを恐れて車両の隅で縮こまるばかりだった。そのことが逆に、ファリナッチを苛立たせる原因の一つになっていたのだが、それを察することができるような腹心はこの場にはいなかった。


 専用列車の作りは、大国の代表が外交に使用するのにふさわしい贅を尽くしたものだったが、細かな塗装の剥げや調度品の傷みは隠しきれなかった。

 流石にファリナッチの乗る専用車両には大きな損害はないが、随員用や貨物車の中には今次大戦で生じた被弾痕もそのままにしたみすぼらしい外見となってしまったものもあった。

 すでに、イタリア社会共和国には首相専用列車をその華美に相応しいように整備する余力すら無くなっているのだった。


 この首相専用車両は、元々はドイツのヒトラー総統からファシストの同志であるムッソリーニ統領に贈られたものだった。

 それをムッソリーニ統領が暗殺されてから裏切り者達に支配される様になったローマから命からがらファリナッチが脱出する際に徴発してそのまま使用しているのだった。



 現在のイタリアは南北に二分割されている状態だった。すなわち、裏切り者の王党派が支配する南部のイタリア王国と、ファリナッチのように南部から脱出した生粋のファシスト党員が作り上げた北部のイタリア社会共和国の2つだった。

 だが、二分割とは言ってもその勢力には大きな格差があった。


 本来は旧イタリア王国の工業力は広大な面積のポー平原を有する北部の方が圧倒している筈だったが、実際には国力の点ではイタリア社会共和国は南部のイタリア王国の後塵を拝していた。

 原因はいくつかあった。イタリア王家はもとを辿れば南部のサルディーニャ王国の出身だった。それ故か南部の農業地帯では伝統的な王家の支持者層が優勢だった。

 それに対して、ファリナッチ率いるイタリア社会共和国はムッソリーニ統領暗殺以降に半ば成り行きで成立したものだった。だから国民の士気に差が生じているというのだ。



 だが、この説には一つの大きな矛盾があった。国民の士気を地域性にだけ求めるのには無理があったのだ。南部の農民層が王家支持であるならば、逆に北部の工業労働者は社会主義支持でなければおかしいのではないか。


 実際には、国民感情を左右している主因は前国王エマヌエーレ3世をドイツが暗殺した事件にあった。

 それ以前、イタリア国民によるエマヌエーレ3世の人気はそれほど高くはなかった。イタリアを無謀な戦争に引き入れた指導者の一人と思われていたからだ。

 ところが、皮肉なことに暗殺事件後に前国王の人気は急上昇していた。昨日まで国王を密かに罵っていたのようなものまでが、国王の仇を討てと声高に言い始めていたのだ。


 理由はいくつか考えられた。戦争を招いたとしてもエマヌエーレ3世は自分たちの国王であったと考えられるし、何よりも前国王よりもはるかに人気の高いウンベルト2世への期待もあったはずだ。

 ベルギー王室出身の皇太子妃の影響があったのか、皇太子時代よりファシスト党に批判的だったウンベルト2世の人気は国民の間で高かった。

 それに皇族の務めとして軍務についていたウンベルト2世は、偶然ながらマタパン岬沖海戦において艦隊の指揮をとっていた。しかも、その戦闘で英国海軍の戦艦一隻を撃沈せしめるというイタリア海軍にとって数少ない大戦果をも上げていたのだ。

 だから、ドイツと縁を切って国際連盟軍との単独講和を主導した現国王ウンベルト2世に対する一般国民や兵士達から支持は、絶大なものがあったのだ。



 しかし、現在ではイタリア王国の単独講和前後に何が起こっていたのか、その事実が明らかになっている筈だった。

 実際には、ドイツによるエマヌエーレ3世の暗殺など計画されていなかったのだ。当時すでに一部政府関係者の不審な動きなどからイタリア王国の単独講和を事前に察知していたドイツは、密かに特殊戦用の部隊をローマに派遣していた。

 その部隊の目的はあくまでもイタリアの単独講和を阻止することだった。具体的な作戦目的は重要人物の拉致であったらしい。しかもその人物はエマヌエーレ3世では無かったというのだ。


 ところが、作戦を実行した場所には密かにイタリア王国全土に向けて放送を行う予定だったエマヌエーレ3世がいた、らしい。

 その辺りの詳細は敵に回ったイタリア王国側の情報と突き合わさなければ分からないが、いずれにせよ誤射か流れ弾でエマヌエーレ3世を殺害してしまった作戦実行部隊は、現場となった放送局に人質をとって立て籠もったものの、最終的にローマ中から殺到してきた治安部隊に十重二十重に包囲されて投降していた。



 もっとも、事態がわかったところで国民感情に訴えることは出来なかった。どのみち要人の拉致を企んでいたなどと公表できる訳もないのだから、ドイツ及び実質的にその傀儡でしかないイタリア社会共和国が発表した内容は当たり障りのない情報でしかなく、説得力には欠けていた。

 それだけではなかった。こちらは間違いようもなく真実であったにも関わらず、ムッソリーニ統領の謀殺という情報も国王暗殺という情報の前に流されるだけだったのだ。



 表向き事故死と公表されていたムッソリーニ統領は実際には裏切り者達に謀殺されたという事実をローマから脱出したファリナッチから聞かされたヒトラー総統は、酷く怒り狂っていた。

 ヒトラー総統の怒りは、ファシスト党の裏切り者達だけに向かっていただけではなかった。その場に居合わせながら何も出来なかったファリナッチにも向けられていた。

 ただし、怒りながらもヒトラー総統は、宣伝省を牛耳るゲッベルスに命じて、ムッソリーニ統領の謀殺という情報をファリナッチの証言を元に報道させていた。南部イタリアの現政権が不法と謀略によってでっち上げられたことを明らかにさせるためだった。



 しかし、この情報はイタリア全土にまで流れたものの、国民からの反応は鈍かった。

 国王の暗殺というより衝撃度の高い情報に押し流されてしまったという事もあるが、多くの国民にはムッソリーニ統領の謀殺はファシスト党の内紛としか捉えられていなかったからではないか。


 ムッソリーニ統領が殺されたのは、ファシスト党幹部が集められたファシズム大評議会でのことだった。

 ファシスト党政権の成立と共に誕生したファシズム大評議会は、党と政府の一体化を図るものだったが、ファシスト党の独裁権が確立されたためか、最近では開催頻度は低下していた。

 開戦前から開催されてこなかったファシズム大評議会だったが、ファシスト党幹部が戦況の説明と士気の鼓舞を図るために各地方に赴くにあたって統領から党幹部に説明を行うのが最後のファシズム大評議会の本来の開催目的だった。

 ところが、実際には裏切り者の党幹部によってファシズム大評議会はムッソリーニ統領の弾劾の場にされてしまっていた。下院議長だったグランディによって首相退陣要求が出されたからだ。


 ファシズム大評議会は長時間の討論が行われたが、そこに負傷後に半ば引退していたはずのバルボ元帥が現れたことで状況が一変していた。以前よりバルボ元帥は、反ドイツの国際協調路線を主張していたからだ。

 だが、ファシズム大評議会はどちらの立場にとっても意外な結末を迎えることになった。自らの主張が受け入れられないと思ったのか、グランディが自爆の形でムッソリーニ統領を道連れにしようとしたからだ。


 このファシズム大評議会におけるムッソリーニ統領の謀殺がそれまでのイタリアの政治体制を一変させる事となったが、一般国民にはファシスト党内の行事である大評議会よりもその後の政変によるイタリア王国の単独講和、更にはその前後に発生した国王暗殺の方が目立つ事件であったようだ。



 このような事情を反映して、国民の支持という点では南北イタリアには大きな格差が生じていた。当然のことながら、軍事力もそれに比例していた。というよりもイタリア社会共和国は独自の軍事力をほとんど保有していなかったのだ。

 建前ではファリナッチの指揮のもとに国軍が存在していたが、志願者は少なく徴兵されたものも士気は低かった。しかも、実質的な指揮権はこの方面の枢軸軍の総指揮官であるドイツ空軍のケッセルリンク元帥に委ねられていた。


 ドイツ軍によるイタリア社会共和国軍の評価は著しく低かった。国軍は数の上では2個師団を数えていたのだが、士気も練度も低い上に第2師団は定数割れが激しいことから実質的には教育部隊としか機能していなかった。

 それ以前に南部の王国軍に合流を試みる脱走兵も少なくなかったから、前線どころか乱れがちな後方の治安維持任務に投入するのも難しかった。イタリア社会共和国軍がまとめて配属されているリグニア軍団でもまともな戦力とは扱われていないようだった。



 北イタリアの現状に対して、南イタリアに残留したイタリア王国軍は比べ物にならないほど充実しているようだった。元々シチリア島が陥落する前後から国際連盟軍の本土上陸に備えるためにイタリア軍主力は首都ローマ周辺と南部に集中していた。

 当然のことながら国際連盟軍との講和が行われた時点では南部に残された部隊の方が多かったのだ。


 ただし、国際連盟軍のローマ上陸と国王暗殺、イタリアの単独講和とごく短時間のうちに激しい動きがあった前後こそドイツ軍に激しく抵抗する部隊などもあったものの、その後暫くの間はイタリア正規軍の戦力は半島全土で見られなくなっていた。

 北部に取り残された部隊は単独講和を予期していたドイツ軍の素早い侵攻によって早々に武装解除させられるか、それ以前に兵舎から将兵が逃亡したためだったが、奇妙なことに南部でもイタリア正規軍は暫くの間姿を消していた。



 イタリア半島中心部に位置するローマに対する予想外の国際連盟軍の上陸によって、イタリア戦線の枢軸軍はローマ以南の放棄を迫られていた。ローマ橋頭堡及び半島南部から燎原の火のごとく国際連盟軍は北上を開始したが、その中には当初大規模なイタリア正規軍は含まれていなかったのだ。

 枢軸軍では、この事態を国際連盟軍上層部が寝返ったイタリア軍を信用していないからではないかと考えていたのだが、最近になって最前線において軍団規模のイタリア軍が姿を表したことでそのような推測は裏切られた形になっていた。


 各種兵器類を含むイタリアの重工業は、ポー平原など南部に集中していたにも関わらず、最前線で確認された再編成後のイタリア軍は重装備の機械化部隊ばかりだった。

 若干の国産兵器はあるものの、重装備の大半は日英などのものが供与されていたらしいのだ。

 イタリア社会共和国では、日英に魂まで売り渡したとこれを避難する宣伝を行っていたが、政治的な信頼性の低さからドイツ製どころか南部イタリアで生産されたものすら満足に配備されていない自らの国軍の状況を顧みれば自虐にしかならなかった。


 南部のイタリア正規軍は精強な部隊だった。士気、練度、それに装備の質量どれもが高い水準にあったのだ。

 開戦からこれまでの戦闘で、個々の戦域や部隊を抽出すれば目覚ましい活躍をしたものも散見されていたものの、スペイン内戦への介入による疲弊や戦争準備の遅れなどからイタリア軍の戦闘能力は概ね他国よりも低かった。

 その今までの評価を覆すような戦果をドイツ軍を相手にした南部のイタリア正規軍は示していたのだ。



 南部のイタリア正規軍が活躍するのと反比例して、イタリア社会共和国の権威は大きく低下していった。

 ファリナッチは思わずため息をついていた。今日に予定されているヒトラー総統との会談では、おそらくそのあたりを強く言われるだろう、そう考えていたからだった。

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