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1944断章 イタリア戦線6

 ウランフ中将は馬に乗りたかった。

 もちろんモンゴル騎兵の末裔たるウランフ中将が乗るべき馬は、どこにでも居るような並大抵の駄馬などではなかった。戦士たちに愛情を持って育てられた名馬の背に跨って、中将は果てしなく続く草原をどこまでも駆け抜けて行きたかった。


 満州共和国軍の中でも最精鋭の第10独立混成師団を率いるウランフ中将の権限は強かった。モンゴル人にとっては特別な意味を持つテムジンの名を与えられた機械化師団には、何十両もの戦車まで与えられていた。

 だが、満州共和国軍ではまだ珍しい日本製の三式中戦車を定数一杯まで装備した大隊を指先一つで動かせたとしても、ウランフ中将はモンゴル人らしく軍馬で駆け抜けたかった。


 ふとウランフ中将はため息をついていた。中将の権限はたしかに強いが、同時にその肩に背負ったものも大きかった。単に満州共和国軍の軍人というだけではなく、満州に逃れたモンゴル人、さらには本国に残された全てのモンゴル人達の将来がかかっていると言っても過言ではないからだ。

 とてもではないが一人の戦士として馬上で戦うような贅沢を行う自由はウランフ中将には与えられていなかった。



 ウランフ中将は、一人残された幕舎の中でふと満州共和国軍の中でも自分たちに輪を掛けて異様な部隊のことを思い出していた。それは馬賊上がりであること以外は出自不明の尚少佐に率いられた特務遊撃隊だった。

 馬占山将軍直属の特殊戦部隊は、匪賊や共産主義勢力の国境侵入に対処するためにウランフ中将達第10独立混成師団と共に実戦に投入される機会は多かった。


 ウランフ中将が思い出しているのは、その特務遊撃隊の紅一点の王美雨中尉だった。

 馬賊上がりとはいえ、ウランフ中将の目にはまだまだ王中尉は娘っ子としか思えなかったが、幼少期から馬に慣れ親しんでいたせいか、無造作に縛った長い黒髪をたなびかせて愛馬と共に疾駆する姿はモンゴル人からしても様になるものだった。



 ―――あいつらはいまはユーゴスラビアに降下していたのだったかな……

 なんとはなしにそんな事をウランフ中将は考えていたが、ふと気配を感じて振り返っていた。幕舎に顔を出したのは客人達を送っていた孔飛上尉だった。

「二人共それぞれ司令部と兵舎に戻りましたよ。二人だけで話し出しそうになったんで、セミョーノフの奴を制止しておきました」

「あの野郎はやっぱり抜け駆けしようとしていたか。俺達の武力の後ろ盾無しにどうにかなると思っているのか。モスクワでは教官だった割には案外学習能力がないな」


 ウランフ中将の呆れたような声に、孔飛上尉も首をすくめていた。

「どうですかね。今の内にアバカロフ中尉に取り入っておきたかったんでしょう。

 ……しかし、師団長、あの中尉殿はこの話にちゃんとのってきますかね」

 ウランフ中将は一瞬だけ真顔になったが、すぐに笑みを浮かべながら言った。

「師団長はよせよ。ここには俺と貴様しかおらんじゃないか」

 孔飛上尉も首をすくめながら苦笑していた。

「ならば義兄様、この哀れなモンゴル人に現代のテムジンの知恵を授けてくれませんかね」


 破顔しながらウランフ中将は義理の弟である孔飛上尉に言った。

「あの王子様はお人好しだよ。ドイツにとっ捕まった赤軍の兵士がソ連に返されればどうなるか、その辺を泣き落としで説明すればきっと乗ってくるさ」

「それには同意しますが、指揮官としてはどうなんですかね……どうも甘いような気がしますがね……」

 ウランフ中将は少しばかり首を傾げていた。

「本物の王子様だからな。少しばかり甘いほうが仕える下々の俺たちからすれば良いんじゃないか。非情な判断が必要な時は周りがしてやれば良いんだからな。

 それよりも……例の調査はどうなった」

「どの例ですかね……」


 孔飛上尉は怪訝そうな顔を向けたが、ウランフ中将が軽く睨むとすぐに真面目な顔になってうなずいていた。

「やはり、アバカロフ中尉の実の親のことは分かりませんでした。中尉が生まれた頃に大公家に縁があるようなな大貴族で子供が生まれたという情報はありませんでした。これが妾の子と言うことになれば分かりませんが……そもそも革命を逃れてシベリアまでやってこれた大貴族なんて数が知れてますからね」

「妾の子では余程のことがない限り格上の大公家には預けられんだろう。やはり貴族の出という可能性は低いな……

 なら、あの方の方はどうだったんだ」


 孔飛上尉は、少しばかり緊張した顔になっていた。分かっていることなのに、幕舎内を見回して誰もいないことを確認してからいった。

「そっちも師団長の言われる通りでしたよ。確かに、アバカロフ中尉の生まれた頃に丁度皇女も姿を消していました。表向きは病気療養ということになっていましたが……」

「既にあの方は亡くなられて久しい。関係者を探し出して聞き出さない限り真相は確かめようがないが、そこまで調査できたということはほぼ間違いあるまい」

「では、アバカロフ中尉は皇帝の義理の従兄弟などではなく、実の甥、つまりアナ――」

 孔飛上尉は、そこで幕舎の外にまた誰かの気配を感じたのか押し黙っていた。容易に他のものに話せるようなことではなかったからだ。単に事実関係を知られることだけではない。第10独立混成師団の亡命モンゴル人が独自の調査を行っていること自体を知られたくなかったのだ。


 通りすがりらしい足音が遠ざかってから孔飛上尉は口を開こうとしたが、それよりも早くウランフ中将が言った。

「貴様の調べだ。まず間違いはあるまい。あの王子様は本当に王子様だったということだ。本人は知らされていないようだが、それなら大公家で預かることになったのもおかしくはあるまい」

「ですが、何故でしょうね。王子が生まれたとなれば慶事だったはずだ。何故大公家に預けるという迂遠な方法で隠されたのか。それに父親は誰なんですかね」



 孔飛上尉は首を傾げたが、ウランフ中将は口をへの字にしてつまらなそうな声で言った。

「理由はいくつか考えられるがな。1つは世継ぎ争いを避ける為だろう。畑が悪いのか種が悪いのかは分からんが、仲睦まじいと言われるのに女皇と王配のマウントバッテン公の間には子供が生まれていないが、中尉が生まれた頃はまだそんな未来のことは分からなかったはずだ。

 乱世では皇帝に子供が生まれたとしても、先に産まれた従兄弟を次の皇帝にと企む奴らが出て来てもおかしくはあるまいよ」


 孔飛上尉が今ひとつ納得していない様子なのを見て、苦笑しながらウランフ中将が続けた。

「ま、それは中尉の外側の理由だな。内側にも理由があると考えていいだろうよ。旦那……にはなりそこねたが、父親の身分が低い、あるいは外国人であったとしたらどうだ。確か、大公も貴賤結婚で悩まされてたんじゃなかったかな。それなら大公の方から申し出て引き取った可能性もあるな」

「ちょっと待ってくださいよ。今の女皇の旦那だって外国人じゃないですか。そっちはいいんですか。

 それにマウントバッテン公はイギリスの王族じゃないでしょう」


 ウランフ中将は呆れたような顔になっていた。

「お前も知っているだろう。あのマウントバッテン公はイギリス王家の血筋だよ。

 俺だって詳しくは知らんが、イギリス……というよりも欧州の王族なんてものはなんだかんだと言って長い間に皆で親戚関係になっていたからな。うまく行けば王族間の外交で全面戦争は避けられていたんだろうよ」

「なるほどね。ところで、アバカロフ中尉はどことなく俺達のような人種に近いものを感じませんか」


 意味有り気な視線を向ける孔飛上尉に、ウランフ中将は苦笑を返していた。

「そうなると別の理由も出てくるな。あの王子様が生まれた頃はまだ日露戦争の記憶も生々しかった頃だ。それで老人達に遠慮されてしまっていたのか……」

「父親は日本人、ですかね。そうなると、アバカロフ中尉が本当に王子扱いを受ける可能性は低いんじゃないですか」


 ウランフ中将は首を振りながら言った。

「いや、20年経って状況は大分変わったはずだ。さっきも言ったが、もう年齢的にも女皇に子供が生まれることは無いだろう。それにシベリアーロシア帝国は成立の頃から日本からだいぶ支援を受けているし、アジア系の移民の受け入れも多いから、人種や貴賤をとやかく言う奴らも減っている筈だ。

 未だにシベリアーロシア帝国では、姉の女皇の名代であちらこちらに顔を出していたあの方の人気は、特に庶民層の中では高いと聞いている。

 実は大公家に預けられていたのはその忘れ形見だったとなれば、民衆の支持も受けられるのではないかな」

「そこでロシア遠征軍を率いて活躍した実績があればなお良しと言うことですか。ところで父親というのはもしかして今も遣欧軍にいるというあの……」

 孔飛上尉は声をひそめながらいったが、ウランフ中将は首をすくめただけだった。

「それは野暮というやつかも知れんぞ。あとはロシア人の問題さ。あとは上手くあの王子様が活躍してくれれば良いんだがね……」



 最後は思案顔になったウランフ中将に、少しばかり戸惑ってから孔飛上尉は真剣な表情になって言った。

「あの中尉が偉くなるのは良いんですがね……どうしてそこまで肩入れするんです」


 それを聞くなりウランフ中将も表情を固くしていた。しばらく考えてから珍しく言葉を選びながら重々しい口調でいった。

「お前は……俺達はあの草原に帰れると思うか」

 孔飛上尉は予想外の答えに眉をしかめていた。

「お前だって難しいとは思っているだろう。漢人の共産主義者はソ連の支援を受けて着実に南モンゴルも北モンゴルもその支配を盤石のものにしようとしている。俺たちが多少の戦力を蓄えたところで、正面からでは太刀打ち出来んだろう。

 それに、少しばかり内乱の鎮圧で俺たちはやり過ぎてしまったかもしれん。満人だって俺たちモンゴル人に恨みを抱くやつもいるだろう。馬占山将軍が元気な間はいいが、最近親父さんは妙に弱気な時があるからな。

 ここだけの話だが、俺達は満州に受け入れてくれた親父さんには義理があるが、他の政府の偉いさんにはそんなものは無いんだ。

 軍人になったからには、監視の紐付きだろうが正規の命令には従うが、もし理不尽な横槍を入れられるようなら……」


 ウランフ中将はそこで押し黙っていたが、孔飛上尉も何かを察して頷いていた。

「つまり、そんな横槍を入れられない為に外国のロシアとの関係を作っておこうというわけですか……」

 ウランフ中将は、頷きながらもため息をついていた。

「それも確かにあるんだが、他のこともあるんだ。さっきも言ったが、これからすぐにモンゴルに巣食う共産主義者共を追い出す事ができるとは思えない。そうなると、亡命モンゴル人だけの集団では何れ行き詰まるには必至だろう。

 この場合、満州共和国や外国政府からの支援を得るのはもちろんだが、長期的な視野に立てばモンゴル以外のモンゴル人と連携を取ることも考慮すべきではないか」


 孔飛上尉は首を傾げながら言った。

「モンゴル外のモンゴル人……ああ、ロシア帝国内のブリヤート族ですか」

 シベリアーロシア帝国内でもソ連との実質的な国境線であるバイカル湖畔周辺を居住区とするモンゴル系民族の名前を孔飛上尉は上げていた。ウランフ中将も大きく頷いていた。

「そういうことだ。ブリヤート族は国境地帯に居るから、そんな重要な地域に住む民族とも連携を取ろうと言うなら政治的な発言権がないとどうしようもないしな」

「なるほど、そこまで考えておられたんですか」


 孔飛上尉は感心した様子で言ったが、ウランフ中将はいささか不機嫌そうな顔になっていた。

「何を他人事のような顔をしておるんだ。いいか、俺の代で草原に帰れなければ、今度はお前がウランフの名を受け継いで闘争を続けて行かなきゃならんのだぞ。

 お前が駄目ならその次の世代だ。いつかあの草原にモンゴルの旗を翻すまではな」


 思わず、といったふうに孔飛上尉は天を仰ぐと、疲れたような声で言った。

「何も考えず、ただ草原を馬で駆け抜けたいものですな」

 ウランフ中将は、憮然とした表情で何度も頷いていた。

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