1944断章 イタリア戦線3
砲撃戦の続くイタリア戦線では、両軍共に各級部隊の司令部を頻繁に移動させていた。一箇所にいつまでも留まっていた場合は司令部に打撃を加えて指揮統制機能を麻痺させることを狙って砲撃が加えられるからだ。
北アフリカ戦線がそうであったように最前線の戦況が常に流動的であれば自然と頻繁に司令部も移動するだろうが、長時間の対陣が続くイタリア戦線ではそのような事はできなかった。
しかし、司令部在地の転換は必要不可欠だった。
両軍とも激しい航空戦の合間を縫うようにして各種偵察機を繰り出して、司令部や砲兵陣地などの優先射撃目標を発見しようと躍起になっていたし、最近では電波評定などの技術も発達していたから、一箇所に留まっていればたちまち位置を特定されてしまうはずだった。
電波評定などの手段に対抗するために、師団通信隊の分割や師団司令部と通信隊の分離などの他に積極的な偽電の送信なども組織的に行われるようになっていたが、頻繁な司令部の移動が最も単純で効果が期待できるのは間違いなかった。
アバカロフ中尉が訪れた満州共和国第10独立混成師団も、師団司令部の移設と再展開を終えたばかりだった。
師団司令部が移設している間は隷下各隊との連絡も不十分となるから、師団司令部の再展開を終えたばかりの今は、各隊からの伝令の出入りが激しくなっており、師団司令部の幕舎は慌ただしい雰囲気が漂っていた。
その男たちの姿をアバカロフ中尉が見たのはそんな時だった。
どことなくだらしのない姿だった。最初は師団付隊の隊員かと思ったのだが、そうではなさそうだということはすぐに分かっていた。被服が周囲の将兵たちが着込んでいる満州共和国軍の軍衣とは意匠が異なっていたからだ。
そもそも男たちの軍衣にはまとまりがなかった。使い古された穴だらけのものをまとっているものもいれば、なかには新品と変わりないような満州共和国軍の軍衣を着込んでいるものもいた。
だが、いずれの場合も軍衣には階級章や部隊を示す記章は見えなかった。
男たちは、日差しを避けるように木陰などを見つけて皆だらしのない格好で休んでいるようだった。おそらくは師団司令部の移設に伴って幕舎の立て直しなどの作業を行っていたのだろう。
アバカロフ中尉は、その兵たちの休息の様子からして作業途中かとも思ったのだが、実際には司令部の移設は終わっているようだった。通信隊などの司令部付き隊の将兵たちが慌ただしく作業に入っていたからだ。
だらしなく休んでいる男たちだけがその例外だった。彼らには移設後の師団司令部で取り急ぎの仕事が無いようだった。
―――使役されている捕虜、なのか……
アバカロフ中尉はそう考えていた。捕虜を労働につかせること自体は合法的な活動だった。
国際連盟軍では、獲得した捕虜の多くは管理を容易にするために大半が後方の収容所に送られており、人口に対する出征者の比率が多い英国本土などを除けば労働力という観点から顧みられることは少なかった。
だが、中立国経由の報道や赤十字の活動などから得た情報によれば、青年男子層の多くが出征したことによって本格的な労働者不足に陥っているドイツやソ連では、組織的な労働力として捕虜を使役していると聞いていた。
泥沼の消耗戦を戦う両国は、もはや国家としての生産力を競う段階にあるのだろう。
戦火の及ばないアジア圏を後方策源地とする国際連盟軍では、収容所内の軽易な労務を除けば捕虜の労働力に期待することは少なかったが、前線部隊では指揮官の裁量で収容所送りになる前の捕虜を各種の作業につかせること自体は珍しく無かった。
軍衣が統一されていないのも、捕虜であればおかしくはなかった。投降する際に軍衣を失って被服廠から満州共和国軍の衣類を支給されたものもあるのだろう。
それに、よく見れば、周囲には小銃を携行した見張りらしい兵の姿も見られた。
ただし、捕虜を囲む見張りの兵の数は少なく、小銃を手にしていても緊張感は大して伺えなかった。
僅かにアバカロフ中尉は首を傾げていた。以前にもドイツ軍捕虜の作業場を見かけたことがあったが、もっと緊迫した雰囲気だったような気がする。軍衣の意匠もドイツ軍や武装親衛隊のそれとは微妙に違っているようだし、大分簡易化されているようだった。
それに、男たちの顔つきはドイツ人のそれとはかけ離れているような気がしていた。
そう考えて、アバカロフ中尉は薄汚れただらしない格好で休む男たちを見ていたのだが、混乱は深まるばかりだった。確かに第一印象の通りあまりドイツ人には見えない顔つきのものばかりだったのだが、男たちの中でも人種はばらばらの様だった。
しかも、白人ばかりではなく明らかにアジア系の顔立ちのものも少なくなかった。そのうえまとまりが無いのは人種だけでは無かった。
最初は何人かは略帽を被っているのかと思ったのだが、よく見ればそれは略帽ではなく中近東辺りのムスリムの特徴であるフェズのようだった。ムスリムらしい人物はそれだけで固まってはいたが、その他の軍衣では見分けはつかなかった。
―――この連中は一体何者なんだ……
首を傾げるアバカロフ中尉に気がついたのか、何人かの男たちの中尉の方を向いて顔を見合わせていた。
妙な圧迫感を覚えてアバカロフ中尉は後ずさりかけていた。別に何か根拠があるわけでも無かったのだが、この男たちに関わるとひどい目に合うような気がしていたのだ。
しばらくして、意を決したかのように男たちの一人が声を上げていた。
アバカロフ中尉は愕然としていた。声の内容ではなかった。聞こえてきたのが明らかにロシア語だったからだ。不揃いながらも、男たちは立ち上がると中尉に敬礼していた。反射的に答礼しながらも中尉は困惑していた。男たちの目がひどくぎらついていたからだ。
ソ連の兵隊だったのか。そう考えたところで、疑問が尽きたわけではなかった。それならばなぜソ連軍の兵隊たちが国際連盟軍の捕虜になっているのか、事情がよく分からなかった。
困惑するアバカロフ中尉に助け舟を出すように、幕舎内から中尉を呼ぶ鋭い声が聞こえていた。慌てて中尉は男たちに背を向けて幕舎に入っていた。
幕舎の中でアバカロフ中尉を呼んでいたのは、師団参謀部付きの孔飛上尉だった。上尉も他のモンゴル人と同じく満州共和国に亡命したモスクワ留学組の元共産主義者だった。
表向きは満州共和国を代表して派遣された師団の広報関係をまとめているのだが、実際には師団長の信任厚い情報士官だという話だった。確かに他のモンゴル人と比べても一段と鋭い瞳には、全てを見通すような凄みがあった。
何度か第10独立混成師団司令部を訪れていたから孔飛上尉と面識はあるのだが、何度会ってもアバカロフ中尉は上尉の鋭い視線には慣れなかった。
だが、幕舎の中でアバカロフ中尉を待ち受けていたのは、孔飛上尉だけではなかった。幕舎の奥の暗がりから力強い声が聞こえていた。
「おう、来たか王子様。待っておったぞ」
アバカロフ中尉は脱力感を覚えながら、暗がりに目をやっていた。まばゆい陽光のもとに居たものだから人物の顔はしかとは見分けられなかったが、この威丈夫の姿を見誤るわけは無かった。
ロシア人には、タタールのくびきと呼ばれる長きに渡った異民族による支配体制があったせいか、モンゴル人に対して蛮族と蔑む一方でどこか畏敬の念を抱いているのも事実だった。
この男は、そんなロシア人全般が抱くモンゴル人という印象をそのまま抜き出したかのようだった。
満州共和国軍第10独立混成師団の師団長であるウランフ中将に一応は失礼のないようにしながらも、アバカロフ中尉は嫌そうな顔を隠しきれなかった。
「以前にも申し上げましたが……私は王子と呼ばれるような身分ではありません」
アバカロフ中尉はそういったのだが、ようやく幕舎が作り上げた日陰になれてきた目には、笑みを消す気配もないウランフ中将の顔が見えていた。
「だが、中尉は大公家の息子なのだろう。革命で死んだ前皇帝の兄弟が親父殿なんだから、今の女皇陛下から見れば従兄弟になるじゃないか。それなら立派な王子様じゃないかね」
本当にこの人はモスクワで共産主義者の教育を受けてきたのだろうか。そう疑問を覚えながらもアバカロフ中尉は続けた。
「私は大公の実子ではなく養子ですから、それに……」
そこでアバカロフ中尉は口を閉じていた。先の欧州大戦の頃までとは違って、現在のシベリア―ロシア帝国においては、革命の原因となったとも言われる皇帝の強大な権限は大きく制限されていた。日英などの国家にならって王権を議会や政府が制限する立憲君主制となっていたのだ。
現在のロシア皇帝は、絶対的な君主ではなく共産主義勢力に対抗するシベリア―ロシア帝国の象徴とでも言うべきものになっていたのだ。
だが、それを同盟関係にあるとはいえ他国の軍人に公言するわけにも行かなかった。
ウランフ中将は途中で口をつぐんだアバカロフ中尉を気にした様子もなく続けた。
「中尉はそんな事を気にしているのか。それで大公家の名を出さずにアバカロフの姓を名乗っているというわけか。
だがなぁ中尉、男として生まれたからにはもっと上を目指さないか。兄たちを蹴落として次代の大公になるくらいは言ってほしいものだな」
つまらなそうな声のウランフ中将を思わずアバカロフ中尉は睨みつけていた。ロシア帝国の秘密警察など遠い過去の存在になってはいたが、帝室をめぐって妙な噂でもたてば、微妙な立場にある大公家にどんな影響があるかしれたものではなかった。
微妙な立場なのは自分だけではなかった。モスクワで教育を受けた元共産主義者のウランフ中将にも、二重スパイを警戒して密かに監視役くらいついているはずだった。
「馬鹿なことを言わないでください。私は養父にも義兄にも良くしてもらっています。蹴落とすなどとんでもない話です。将軍、我々の立場では、それ以上なにか迂闊な事をおっしゃれば、両国間の外交問題となる可能性もありますよ」
険しい表情のアバカロフ中尉の勢いに辟易したように、ウランフ中将は溜息をついていた。
「分かった、分かったよ、中尉。お互い痛くもない腹を探られるのはごめんだからな。
ところで、表の捕虜達は見たかね」
唐突に変わった話題に困惑しながらも、アバカロフ中尉は頷いていた。
「あれは……一体どこの捕虜なのですか。ロシア語を喋っていたようですが……」
また笑みを浮かべ始めたウランフ中将は、こともなげにいった。
「この間捕まえたドイツ軍の捕虜、ということになっているな」
妙なことを言うウランフ中将にアバカロフ中尉が首を傾げていると、傍らに控えていた孔飛上尉が続けた。
「ドイツの軍隊には変わりはないが、正規軍ではない。ドイツ軍に投降したソ連軍の捕虜の中から志願したもので構成された東方部隊、ということだ」
そう言いながら孔飛上尉は書類綴をアバカロフ中尉に差し出していた。何枚かめくって一瞥したところ、捕虜の尋問を行った際の資料のようだった。
困惑しながらもアバカロフ中尉はうなずいていた。それであのまとまりのない集団の正体がわかっていた。確かに元ソ連軍捕虜のドイツ軍ということであれば中央アジアあたりから徴用されてきたムスリムが混じっていてもおかしくなかった。
正体がわかったところで、アバカロフ中尉は彼らの行き先について少しばかり不安に思っていた。国際連盟軍とソ連軍は共にドイツ軍と交戦しているものの、同盟関係にあるわけでは無かった。
それどころか、シベリア―ロシア帝国のように、基本的にソ連と敵対関係にある加盟国家も少なく無かった。つまり正規のルートでは元ソ連軍の将兵を彼らの故郷に送り返す手段はないのだ。
それ以前にシベリア―ロシア帝国からすれば、公式にはソ連は自国領内の反乱分子という扱いだった。さらに言えば一度ドイツ軍に寝返った自国の兵士の帰国をソ連が歓迎するとは到底思えなかった。
彼らには行き先がないのではないか。アバカロフ中尉は同情心からそう考えてしまっていたのだ。
ところが、どこか他人事のように考えていたアバカロフ中尉に向かって、ウランフ中将は面白そうな顔でいった。
「それで王子様。彼奴等を率いて新生ロシア遠征軍を作ってみないかね」
冗談を言っているのだろうか、そう考えながらアバカロフ中尉は押し黙ったままでまじまじとウランフ中将の顔を見つめていた。