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1944断章 イタリア戦線2

 陸軍部隊が自前の砲火力だけで広大なポー平原を縦断しなければならないとすれば、第9軍第4軍団はいささか他隊よりも不利な状況にあると言わざるを得なかった。


 並進する第8軍がポーランド軍団などの欧州亡命政権軍を除けば英国軍やニュージーランドなどの本国寄りの部隊で構成されているのに対して、スリム中将率いる第9軍は英国正規軍よりもインド師団などの植民地軍などの雑多な部隊を集成した軍だった。

 その第9軍のなかでも第4軍団はさらに特異な部隊だった。英国の正規軍は若干の支援部隊を除けば全く配属されておらず、その主力となるのは自由フランス軍所属の3個師団と満州共和国軍から派遣された第10独立混成師団だったからだ。

 これに軍団砲兵として日本軍の砲兵連隊が配属されていたのだが、砲兵連隊も日本各地の正規師団から抽出された部隊で構成されていたから、寄せ集めという軍団の性格を強める結果にしかならなかった。



 第4軍団に配属の部隊は、自由フランス軍所属とはいっても今次大戦初頭におけるフランス本国の対独講和を良しとせずに脱出してきた元フランス軍の将兵はほとんどいなかった。

 指揮官層はともかく、師団に配属された兵員の多くは新たに独立が承認された旧インドシナ植民地諸国から徴募されてきたアジア系の兵士達で構成されていたからだ。


 軍団に配属された自由フランス軍の極東師団の将兵は、独立と引き換えの傭兵ともいえる兵士たちだったが、一部の部隊では日本陸軍士官学校での促成教育を受けた現地人の将校も配属されていた。

 彼らはいわば将来における新独立国の国軍中核を担うことを期待された人材だった。



 第4軍団を構成する残る基幹戦力である満州共和国軍第10独立混成師団は、これもある意味で特異な部隊だった。

 中国東北部の軍閥を中核とした勢力が日英やロシア帝国などの支援を受けて作り上げた満州共和国は、その成立過程からしても特殊な国家だった。

 政治的には共産主義勢力と内戦を繰り広げる中華民国から高度な自治権を与えられた国内国家とも言える存在ではあったのだが、実際には各国から承認される歴とした独立国家といえた。


 しかし、以前より日本軍などから支援を受けていた奉天軍閥を中核としていたとはいえ、満州共和国、特にその国軍が旧軍閥を母体とする雑多な集団の寄り合い所帯である事実は否定できなかった。

 中国国内では、大規模な軍閥の中には小火器程度であれば独自の生産体制すら備える本格的な軍隊を構成するものもあったが、奉天閥に帰順して満州共和国軍の一翼を担う勢力の一員となった中には、中世期の山賊と見分けがつかないような匪賊の集団まで含まれていた。



 地中海方面に派遣されてきた第10独立混成師団は、優先的に重装備を与えられた最精鋭部隊であると共に、政治的な信頼性にかけるそのような雑多な部隊の反乱に備えた部隊でもあった。

 現在、満州共和国では参謀本部や士官学校などの機関を備えた中央集権国家にふさわしい近代的な体質の国軍を創設する動きがあったが、各地方の部隊にまで中央で育成された人材の配属が完遂するまでにはまだ長い時間が必要だった。

 そのために、現在の満州共和国軍の実態は、看板を付け替えた軍閥出身部隊に、帰属した周辺の匪賊などを配属した中途半端な組織に過ぎなかった。

 しかも、軍閥や匪賊の意識を色濃く残した彼らは、徴兵や収税の権限を中央組織に委ねざるを得なかった後も本拠地となる地方から離れようとしなかった。


 こうした地方に結びついた旧軍閥部隊と比べると、第10独立混成師団は異なる性質を持っていた。地方に巣食う部隊とは異なり第10独立混成師団は、各県に別れた軍管区などの上部組織を持たずに軍中央の直属となっていた。

 師団の将兵、特に指揮官層は固有の地方の出身者で固められてはいたが、彼らにとってそこは帰れない場所だった。第10独立混成師団は、元々モンゴルから亡命してきた騎兵集団を原型としたものだったからだ。



 独立混成師団を率いるウランフ中将は、モンゴル人民共和国の領土から切り離されて中国の一地方とみなされていた南モンゴルの出身だった。しかも、彼やその腹心たちは元共産主義勢力の一員であり、共産党の総本山であるモスクワで最新のソ連軍事教育を受けた異色の存在だった。

 先進的なソ連の軍事技術を学んで南モンゴル解放の尖兵となることを期待されていた彼らだったが、中華民国からの独立を夢見て南モンゴルに帰還した彼らが見たのは無理な開墾によって砂漠化が進められた故郷に広がる草原の跡地だった。


 その頃、満州共和国の承認と引き換えに日英などから近代兵器を手に入れた中華民国は、共産主義勢力との内戦を有利に進めていた。そして追い詰められた中国共産党は、ソ連を構成する自治共和国の一つとなっていたモンゴル人民共和国に隣接する南モンゴルに逃れていたのだ。

 中原から追われた中国共産党だったが、反抗を諦めたわけではなかった。脱出してきた兵員を現地で養いつつ、モンゴル経由でソ連からの援助を得て勢力を盛り返そうとしていたのだ。

 だが、南モンゴルの草原には膨大な兵員を養うだけの生産力は無かった。正確には中国共産党の組織が行ったような中原と変わらない農業技術では、モンゴルの草原地帯の生産力をあっという間に食い潰すことを理解していなかったのだ。

 結局、短時間の収穫の後に残されたのは彼方まで続く草原の気配を失った砂漠だけだった。



 故郷である草原の喪失を知ったウランフ中将達は、共産主義勢力と袂を分かっていた。縁戚関係を頼って満州共和国に亡命していたのだ。

 彼らモンゴル騎兵達が頼みとしたのは満州共和国軍の頂点に立つ軍政部長である馬占山将軍だった。第10独立混成師団が軍中央直属の機動集団として再編制されたのには、そのような背景があったのだ。


 馬占山将軍子飼いの兵力として再編成された第10独立混成師団は、満州共和国に亡命して来た当時の騎兵集団から、近代的な機械化部隊へと転科されていた。

 戦車部隊の装備は、自由フランス軍極東師団と同じく日本製の物だったが、極東師団が長砲身57ミリ砲を備えた一式中戦車を装備しているのに対して、第10独立混成師団は強引に75ミリ野砲を備えた一式中戦車乙型を以前から配備されていた。



 日本陸軍の一式中戦車の開発に関しては、ロシア帝国も無関係ではなかった。元々同車はロシア帝国経由で日本に情報がもたらされたソ連次期主力戦車に対抗するためのものだったからだ。

 ただし、そのソ連戦車への対抗相手として本命視されていたのは、現在日本軍の主力戦車となっている三式中戦車だった。


 アバカロフ中尉は詳細は知らないが、本命となる三式中戦車の就役までのストップギャップの役割を与えられた一式中戦車は、対戦車戦闘能力に特化しているらしい。

 車体前縁から大きく伸びた長砲身砲や、大出力エンジンを搭載したゆえの高い機動性能はその為のものだったというのだ。


 ところが、北アフリカの砂漠地帯では遠距離から敵戦車を打ち据えた長砲身砲は、イタリアの陣地戦では不利だった。山岳地帯での砲撃戦では、長砲身砲ゆえの高初速よりも曲射弾道で榴弾を打ち込むことのほうが多かったからだ。

 この点では一式中戦車のような小口径高初速砲は格段に不利だった。

 単純に小口径故に砲弾の容積が少ないということもあるが、高初速を実現するために大装薬量となっていたことで砲身内の腔圧は高く設定されており、当然のことながらこれに耐久することが求められた砲弾の弾殼は分厚く、榴弾でも炸薬量の比率は低かった。


 陣地線が続くイタリア戦線では、機動運用を封じられた戦車隊も車外にまで砲弾を積み上げて野砲や榴弾砲に混じって長時間の支援砲撃を行うことも珍しくなかった。

 当初から野砲弾道や高射砲弾道の75ミリ砲を備える三式中戦車などは、このような砲兵隊指揮下での間接照準による砲撃戦に備えて正確な座標を測定する為の測距儀を標準で備えていた。

 一応は一式中戦車の照準器にも測距機能は備えられてはいたが、簡易的なものだから精度は限られるし、使い勝手も悪かった。



 自由フランス軍極東師団の場合、戦車だけではなく師団砲兵も貧弱なものでしかなかった。極東師団には大口径の榴弾砲はほとんど配備されていなかった。砲兵隊の主力機材は日本製の75ミリ野砲だった。

 参戦後に日本軍は従来の75ミリ野砲と105ミリ榴弾砲という師団砲兵隊の組み合わせを、一回り大きくした105ミリ砲と155ミリ榴弾砲に装備改変を行っていた。極東師団に供与されたのは、この余剰となった75ミリ砲だったのだろう。

 日本軍の砲兵隊では余剰となったものの、同一弾道の砲は戦車砲などにも使用されていたから、砲弾や予備砲身などの消耗品の補充は容易だった。それで供与機材のリストに載せられていたのだろう。


 ただし、極東師団の火力が評価し辛いのは機材の問題だけではなかった。単に砲弾の威力だけを捉えるのであれば、師団砲兵隊の機材を88ミリという比較的小口径の25ポンド砲で統一している英国陸軍もそう大した違いは無いことになる。

 実際には極東師団の師団砲兵隊は、人材の面でも不利な点があったのだ。


 極端なことを言えば、徴用された現地の人間に銃の撃ち方を教えれば済む歩兵部隊に対して、砲兵や戦車は使用法の教育だけでも膨大な時間と物資が必要だった。

 特に砲兵隊の隊員には高度な数学能力が必要だったから、旧植民地でも現地民官吏の子息などの高度な教育を受ける機会のあったごく少ない人材でなければそもそも使い物にならなかったのだ。



 地中海戦線で国際連盟軍の火力が枢軸軍のそれを圧倒しているのは、機材の質や量の問題だけでは無かった。

 強力な統制力を持たせた砲兵司令部の統一指揮のもとで、師団や軍団の境界線を越えて火力を集中させているという戦術的な面も無視できなかった。

 この砲兵司令部の権限は大きかった。火力戦に限っては通常の指揮系統を飛び越えて直接各層の砲兵隊や支援砲撃役に指定された戦車隊、さらには歩兵隊指揮下の迫撃砲までの管制を行うことが許されていたからだ。


 北アフリカ戦線では日英各軍が各個に砲撃の管制を行っていただけらしいが、戦場がイタリア半島に移る頃には国際連盟軍所属の各国軍を跨ぐ組織へと再編成されていた。

 それに砲兵隊だけではなく艦砲射撃や航空攻撃の管制も行うように組織体制を変更していたが、そうした統一指揮に組み込まれながらも、極東師団の師団砲兵隊の動きは今ひとつ遅かった。観測車両との連携もまだうまく出来ていないようだった。



 従来から英国陸軍では各前線部隊に着弾観測や支援砲撃の要請などを行う砲兵将校を随伴させていた。戦車隊でも編制表では一個中隊に一両の割合で軽戦車に砲兵将校を乗せて前線観測車としていた。

 最近では、日本軍でも観測挺進車の名称で軽戦車や装甲兵車を観測用として改装したものを運用していた。


 第4軍団の各隊にも、日本軍から派遣された観測車両が配属されていた。

 ロシア帝国と同様の理由に加えて、最前線での消耗戦に備えて本国で大増産体制が取られている日本帝国も労働者不足の原因となる大規模な動員体制の実施は避けられていたが、砲兵科や機甲科は事情が異なっていた。

 平時の充足率が低く動員によって戦時体制に移行する歩兵と違って、それらの特殊兵科は練度の維持が難しいことから、平時から充足率が高かったし、徴兵ではない志願兵や職業軍人である下士官の比率も高かった。

 それで日本軍では基幹戦力である遣欧軍主力とは別に、本土から抽出した兵力で特設部隊を編成していたのだ。


 第4軍団にも前進観測車と共に1個連隊規模の日本軍砲兵連隊が軍団砲兵として配属されていた。

 配属された各師団の師団砲兵がいずれも機材や兵員の質に劣るなか、第4軍団がイタリア戦線の苛烈な砲撃戦を制することが出来ているのは、この軍団砲兵の存在があるためかもしれなかった。

一式中戦車の設定は下記アドレスで公開中です

http://rockwood.web.fc2.com/kasou/settei/01tkm.html

一式中戦車改(乙型)の設定は下記アドレスで公開中です

http://rockwood.web.fc2.com/kasou/settei/01tkmb.html

三式中戦車の設定は下記アドレスで公開中です

http://rockwood.web.fc2.com/kasou/settei/03tkm.html

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