1944断章 イタリア戦線1
アバカロフ中尉がその男たちを見たのは、第9軍司令部の所用で同軍指揮下の満州共和国軍第10独立混成師団司令部の幕舎を訪れた時だった。イタリア戦線のある夏の日の出来事だった。
この時、イタリア戦線に展開する国際連盟軍は、アペニン山脈を境界線とする2個軍を並進させる形で戦線の北上を図っていた。
今の所は国際連盟軍の作戦に危うい所はなかった。ドイツ軍は狭隘な地形が連続する山岳地帯で縦深的な陣地を構築して待ち構えようとしているものの、陣地構築に十分な時間が取れないことや、集中射撃を行う彼我の火力の差などから概ね前線の戦況は国際連盟軍が有利な状況にあった。
有利であるのは前線の戦況だけでは無かった。国際連盟軍には地域住民の広範な支持が期待出来ていたからだ。昨年にドイツ軍によって行われた前国王の暗殺と新国王の即位から、イタリア人はドイツ占領地域にあっても反独感情が高まっていた。
イタリア北部では、枢軸側に留まるイタリア共和国が成立を宣言していたが、ファシスト党の重鎮だったファリナッチを首班とする政権がドイツの傀儡政権に過ぎないことは明らかだった。
イタリア共和国は独自の戦力を確保すべく現地に駐留していた旧王国軍部隊を中核として軍の再編制をおこなっているというが、脱走者や徴兵拒否者が相次いでいるというから戦力としては当分は無視しても良さそうだった。
ファリナッチ率いるイタリア共和国の現状に対して、国際連盟軍に新たに加わったイタリア王国軍はメッセ元帥の指揮のもと順調に再編成作業を進めていた。
以前は、少数のイタリア解放軍が地理に疎い国際連盟軍の道案内など補助的な任務を行う程度であったのだが、新国王ウンベルト2世によって参謀総長に任命されたメッセ元帥の指揮のもとで、イタリア王国軍は貧弱だった枢軸軍時代の装備を国際連盟軍より供与された日英製のものに替えて訓練を続けていた。
新生イタリア王国軍は士気も高く、戦車や重砲などの重装備の更新も進んでいたから、戦力価値は高いはずだった。
だが、概ね順調に戦局が推移する一方で、イタリア戦線の国際連盟軍に戦力を供出する各軍の中級指揮官の間には、機動戦への移行という言葉が熱病のように広がっていた。
現在の最前線はアペニン山脈の北限に達しつつあった。アペニン山脈は北西から南東に伸びていたから、アドリア海沿いに進む戦線右翼はすでに平原部に展開していた。
そしてアペニン山脈を越えると、スイスやオーストリアとの国境線を形成するアルプス山脈との間にポー平原が広がっていた。
イタリア最北端にあって肥沃な土壌を形成するポー平原は、イタリア有数の穀倉地帯であるとともに重工業が集中する工業地帯でもあった。
イタリア王国にとって、ポー平原の奪還はドイツ占領下にある領土を取り戻すというだけではなく、国家的な生産体制の回復にも直結していた。
国軍の再編成にあたって国外製の兵器を装備しているのも、イタリア製の同種兵器よりも日英製のそれが性能に優れている点も無視できないが、それ以前に国産兵器の生産工場をドイツ軍によって抑えられているためでもあった。
もっとも、最前線がポー平原に達することは別の意味も持ち合わせていた。
現状のイタリア戦線は険しいアペニン山脈の山岳地帯にドイツ軍に陣地を構築されてしまったために、陣地を一つ一つ砲爆撃で破壊しながら着実に進軍するしかない砲撃戦に終始していたのだが、同時に進撃路が限定されるために大軍の運用が難しいのも事実だった。
だが、広大なポー平原は師団どころか軍団単位で機動戦を行う余地が残されている筈だった。
あるいは、戦間期に理想と考えられていた機動戦を指向する指揮官たちは、別働隊となっている日本軍の存在を意識しているのかもしれなかった。
イタリア戦線から抽出された日本陸軍と自由フランス軍を主力とする部隊は、フランス南部海岸に位置するニースへの上陸を果たしていた。自由フランス軍の視点に立てば世界各地の植民地や地中海に浮かぶコルシカ島を経てようやくフランス本土奪還への端緒についていた、と考えられていた。
自由フランス軍の大部隊が本土に上陸すれば、これに呼応して抵抗運動の一斉蜂起もあり得るのではないか。そのように楽観的な意見も見られたほどだった。
ところが、実際には自由フランス軍上層部の思惑とは異なり、フランス本土における抵抗運動の活発化などの兆候は特に見られなかった。
自由フランス軍の息のかかった一部の組織は上陸に前後してドイツ軍などへの襲撃を行っていたが、いずれもヴィシー政権軍や駐留ドイツ軍の治安部隊によって制圧されていたらしい。
それどころか、主力である日本軍の上陸直後に発生した海戦によって第二波以降の上陸部隊に指定されていた自由フランス軍の部隊には大きな損害が出ていた。
結局、ニース橋頭堡は確保されたものの、自由フランス軍の上層部が計画していたような同軍を全面に押し立てた短時間でのパリやヴィシーの制圧といったフランス本土の解放は断念されていた。
それに代わって第二案として実施されたのが、ニース橋頭堡の防衛を自由フランス軍に任せた日本軍によるポー平原への東進だった。
イタリア半島に展開するドイツ軍の後方根拠地、あるいはドイツ本土との連絡線となっているポー平原に側面から圧力を加えることで、イタリア戦線の早期決着を図ろうとしていたのだ。
今の所は重装備の機械化部隊を先頭とした日本軍は順調に進撃を続けていた。背面となるニース橋頭堡の防衛に不安は残るものの、自由フランス軍の増援部隊や、すでに有力な敵艦隊がいなくなった海軍による支援もあるから、ヴィシー政権軍の反撃程度ならば対処は難しくなさそうだった。
そして、日本軍の前衛は仏伊国境線を突破して早くもポー平原の西部に達しつつあった。
イタリア戦線にあって機動戦を唱える指揮官たちは、この日本軍の快進撃にいささかの焦りを覚えているようだった。おそらく弾薬の消耗だけが激しい砲撃戦となって遅々として進まない主戦線の自分たちと、進撃速度が段違いと言っても良い日本軍を比較してしまっているのではないか。
同時に彼らは指揮官や参謀の作戦能力に左右されるところの大きい機動戦で鮮やかな勝利を収めたいという思いを浮かべていたのだろう。それに初戦におけるドイツ軍の電撃戦の記憶もまだ新しいはずだった。
それが再編成のなったイタリア王国軍という膨大な予備兵力と日本軍による多方位からの包囲という有利な状況を得てにわかに湧き上がっていたのではないか。
だが、アバカロフ中尉はどこか冷ややか目で機動戦を唱える指揮官達を見ていた。今次大戦の趨勢を思えば、もはや同級の相手に対して大胆な機動戦が可能だとは思えなかったからだ。
アバカロフ中尉は、国際連盟軍では数少ないシベリア―ロシア帝国から派遣された将校だった。そのロシア帝国では長年ソ連との実質的な国境線であるバイカル湖畔の狭隘な地形に幾重ものトーチカ群を構築していた。
自然と基本的な戦術は砲撃を中心としたものとなり、大規模な機動戦を試みる余地はなかった。陣地線において将兵の膨大な損害を避けるためには膨大な鉄量を叩き込んで敵を撃滅するほかなかったからだ。
戦間期に列強各国が予算の制約や機動戦理論の流行等によって、先の欧州大戦で蓄積されていたはずの砲撃戦に必要な戦術や機材を疎かにしだした時も、ロシア帝国軍は対するソ連と共に砲撃戦を根幹とする戦術理論を維持し続けていた。
しかし、様々なしがらみからロシア帝国は欧州に本格的な軍の派遣を行うことは出来なかった。
ロシア帝国軍は、強大なソ連軍に対する国家防衛の要石の役割を担っていた。ところが、今次大戦においては対独戦の勃発からソ連軍が早々と動員体制に移行したのに対して、直接的な戦火の及ばないシベリアを領土とするロシア帝国側は大規模な動員を控えていた。
現在でもソ連を不用意に刺激するのを防ぐ目的もあって、ロシア帝国軍は概ね平時体制のまま置かれていた。非公式なルートを用いて両国間の戦闘回避も図られているはずだった。
国際連盟軍にしても、明確な同盟国ではありえないものの、ソ連と対峙して交戦中のドイツに利するような事態は避けたいはずだった。
結局、シベリア―ロシア帝国としては大規模な動員を意味する大部隊の派遣ではなく、欧州に展開する国際連盟軍に対しての物資や原材料などの提供といった間接的な支援に留めざるを得なかった。
ただし大部隊の派遣こそ見送られたものの、最新の戦訓を得るためにもロシア帝国軍は若干の司令部要員を欧州に送っていた。アバカロフ中尉もその選抜された将校団の一人だったのだ。
そのように砲兵戦術を重視したロシア帝国軍で士官教育を受けたアバカロフ中尉の目からすると、日本軍の快進撃は決して機動戦理論に基づくものとは思えなかった。
元々、シチリア上陸から開始されたイタリア戦線において枢軸軍は同半島全体を巨大な縦深地とみなしていた。それゆえに後方に位置する半島の付け根にあたる仏伊国境線近くに配備された兵力は少なかったようだ。
いざとなれば増援としてフランス本土に駐留する部隊を東進させる予定だったのではないか。だが、フランス駐留部隊に今の所大きな動きは見られなかった。
おそらくは、兵員輸送船で英国本土に輸送された後に同地にとどめ置かれているインド軍などがフランス北西部に上陸することを警戒しているのだろう。
それに、日本軍の砲兵が満足な砲撃も出来ないような急進撃を行っていた一方で、同軍には絶大な火力支援が行われていた。
ヴィシーフランス海軍の実質的な潰滅によって地中海から敵艦がいなくなった日本海軍の戦艦や巡洋艦が、海岸線から一隻で陸軍の数個師団にも匹敵するという火力を脆弱な仏伊国境線近くの独軍陣地に叩き込んでいたのだ。
戦艦主砲は射程が30キロを余裕で超えるというから、縦列隊形であれば、師団どころか軍団の進撃路全般の制圧も可能ではないか。
それに、海岸線に並行した進撃という状況を活かして、駆逐艦改装の高速輸送艦による戦線後背地への陽動や偵察部隊の高速進出といった柔軟な水陸両用作戦も行われていたらしい。
先の欧州大戦での戦訓などを受けて、日本軍は以前から上陸専用機材の開発を進めていた。ロシア帝国がシベリア地方に逃れる事が出来たのも、生き残っていた2皇女を日本海軍の高速輸送艦に乗船した陸戦隊が救出したからだとアバカロフ中尉も幼い頃に聞かされていた。
だから河川や海岸を利用した水陸両用作戦では日本海軍はかなりの戦訓の蓄積を得ているようだった。
だが、広大なポー平原ではこのような手法は使えなかった。戦艦主砲では到底届かない内陸深部まで戦場が広がるからだ。
国際連盟軍はイタリア戦線を含む地中海方面にドイツ軍を圧倒する規模の航空戦力を集中させていたが、航空支援だけでは陸上部隊の進攻を支えるのは難しかった。
国際連盟軍は、敵軍航空基地を狙う航空撃滅戦に努めて制空権の確保に努めてはいたが、最近の対地攻撃の主流は軽快で貧弱な地上施設でも運用可能な戦闘爆撃機に移っていたから、航空撃滅戦で敵空軍を完全に制圧するのは難しかった。
勿論、戦闘爆撃機が生き残る状況であれば、基本的に同様の機体である戦闘機も生き延びている可能性は高かった。
それに、航空機による対地支援攻撃は、天候などの外的な要因で実施できなくなる事も珍しく無かった。
航空攻撃では継続的に敵陣地を制圧し続けるのもよほど条件が揃わないと出来ないのだから、結局は陸上部隊は自前の砲火力で敵部隊の妨害を一つ一つこじ開けながら進むしかないのだ。
アバカロフ中尉はある種の諦観を覚えながらそう考えていた。