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1944ニース航空戦14

 パリ市街地は混乱の最中にあった。詳細はプレー少尉には分からなかったが、駐留するドイツ軍に大きな動きがあったらしい。


 だが、ドイツ軍の行動目的などは不明な点が多かった。パリ市街でもいくつかの情報が流れていたのだが、錯綜する情報をいくらかき集めたところでお互いに矛盾するものだから、正確な事実関係を把握することは出来なかった。

 あるものは国防軍内に反乱の兆しがあるために親衛隊が治安維持のために行動を開始したと言っていたが、別のものは訳知り顔で反乱を起こしたのは親衛隊の方だと主張していた。

 市街でも何度か慌ただしく走り回るドイツ軍の一団を見ていたが、下級将校や下士官兵ばかりの彼ら自身も要領を得ない様子だった。

 ドイツ国内で大規模な政変があったのは確かなようだったが、これ以上は相当に腰を据えて情報の収集と分析を行わないと正確な流れを追うのは難しそうだった。

 もっともプレー少尉にはそのような情報処理の能力はなかったし、それ以前に興味も無かった。ただ、この政変が目標の行動にどのような影響を与えるのか、それだけが気がかりだった。



 プレー少尉が潜んでいるのは、パリの中心街から離れた一角だった。暗がりになっているから、行動を開始するその瞬間まで周囲から目撃される危険性は低かった。

 ただし、この場所が隠れ家として機能するのは夜明け前までの短時間だけだった。周辺の地形からして日の出とともに明るく照らし出されて存在を暴露されてしまう筈だった。


 この辺りは、各種官公庁に務める官吏の住宅が多かった。ただし、大臣や次官級のような大物が住む高級住宅街では無かった。それどころか目標の男は、官僚というよりも治安機関の使い走りのようなものだったから、このあたりに住むのも違和感がある程だった。

 襲撃を警戒して身分不相応な場所に居を構えたか、あるいは他人を蹴落として家まで手に入れたと考えるのが自然だった。



 状況に動きがあったのは、プレー少尉が今日のところはこの場を離れるかどうかと考え始めた頃だった。まだ街路は暗がりのままだったが、東の空は白み始めていた。

 最初の異変は足音だった。単なる通行人とは思えなかった。足音を忍ばせている気配があったからだ。

 ただし、その足取りは不明瞭なものだった。こういった隠密行動に不慣れなものだから、逆に目立ってしまっているようだった。周囲をびくつきながら不用意に見回しながら歩いていた。


 やがて姿を表したのは目標の男に間違いなかったが、プレー少尉は違和感を拭い去れなかった。写真では何度も確認していたのだが、写っていたのはふてぶてしい小悪党といった様子だったのに、実際にこの目で見た男は中年に差し掛かったどこにでもいそうな男だった。

 決意が鈍りそうになったプレー少尉は、懐の得物に手をやっていた。



 用意していたのはイタリア製の自動拳銃だった。使用するのは小口径の銃弾だから威力は大きくないが、至近距離で狙うなら人一人殺すのには十分だった。

 イタリア軍の制式採用品だから、イタリア王国が国際連盟に恭順した際に本国に戻れずに脱走した将兵などから入手するのは容易だった。

 それに、小口径だから反動は少ないし、銃声も小さかった。最初はもっと容易に入手できる刃物を使用することも考えたのだが、プレー少尉は格闘戦の経験も訓練も受けていなかったから、まだ射撃訓練程度の経験はあった拳銃を得物に選んでいたのだ。


 鈍りそうな決意を、懐に隠した拳銃の銃把を握りしめ、同時にクロードからの手紙の内容を思い出すことでプレー少尉は振り絞っていた。

 目を開けると、何も知らない様子の男がほっとした様子で家の扉に手を当てた所だった。



 プレー少尉は意を決して隠れ場所から飛び出していた。物音に気がついたのか慌てて男が振り返っていたがその動きは鈍かった。空軍の搭乗員に過ぎない少尉よりも陸戦には不慣れな様子だった。

 それも無理は無かった。男は言ってみれば単なる密告屋だった。市街地での戦闘どころか体系だった戦闘訓練を受けた事もないはずだった。男は近所に住んでいたユダヤ人をドイツの親衛隊に売り飛ばしことで今の地位を得ていたのだ。そして、彼がクロードの仇でもあった。


 男が何らかの反応を示す前にプレー少尉は拳銃を突き付けていた。男は何か喚こうとしたが銃口を突きつけると哀れそうな顔で慌てて両手を上げていた。

 手早く体を弄ったが、意外なことに男は何の武器も携行していなかった。

「金ならいくらでもやるぞ。だから撃たないでくれ」

 男は哀れな声で言った。無言のまま最初に銃を突きつけた時点で撃ち殺していれば良かった。そう後悔しながらも、プレー少尉は不機嫌そうな声で返していた。

「金はいらない。あんたはその行為の報いを受けるときが来たんだ」


 プレー少尉の声に男は一瞬だけ意外そうな顔をしたが、すぐに言い訳を始めていた。

 男は言った。何かの誤解だ。俺は上の命令に従っただけだ。そう言葉を連ねていたが、プレー少尉の心は冷えていった。

 同時にこの男を殺す必要があるのか疑問に思えていた。殺すほどの価値もない。哀れっぽく言う男の姿にそう考え始めていたのだ。



 物音がしたのはその時だった。プレー少尉と男に同時に緊張がはしっていた。まだ日の出ない時刻だったが、二人のやり取りに近所の住民に気が付かれたのかもしれない。あるいは、単に早起きのものでもいたのか。

 厄介だった。下級の官吏とはいえ、政府の役人を拘束した姿をうまくごまかせなければ見咎められる可能性は高かった。


 もっとも、この男からしても状況の変化が安全をもたらすとは限らなかった。余計なことが起こる前に目的を果たそうとプレー少尉が引き金を引くかもしれない。その程度のことは考えているはずだった。

 だが、二人の耳に聞こえてきたのは無粋な誰可の声では無かった。戸惑いがちに父親を呼ぶ鈴の音のような声だったのだ。


 プレー少尉は眉をしかめていた。声の調子からして、相手はせいぜい10代半ば位の少女のものだった。おそらくは目の前の男の娘なのだろう。

 その証拠に、男は娘の名らしきものを呼んで家の中にいるように伝えると、哀れっぽい声で命乞いを言ったただし、その内容は先程と変わっていた。自分を犠牲にしてでも娘には手を出さないように懇願していたのだ。



 プレー少尉は、ひどく気分が萎えているのを感じていた。結局、いつもこうして最後に決意が鈍ってしまうのだ。そう脳裏の片隅で考えながらも、少尉は男に銃口を押し付けるようにして、素早く引き金を引いていた。

 予想通りくぐもったような銃声だったが、夜明け前の住宅地では思ったよりも周囲に響き渡っていた。男は苦痛の声を上げていたが、それ以上に家の中からも状況を察したのか娘の悲鳴が聞こえていた。

 それだけではなかった。プレー少尉は、周囲の家からもいくつかの気配が上がりかけているのを察していた。


 あまり長居は出来なかった。プレー少尉は、うめき声を上げる男の襟元を掴み上げてその耳元でいった。

「安心しろ。死にはしない。ただし、早く病院に行かないと砕いた骨が下手に癒着するし、どのみちこれから先は貴様は走ることは出来ないだろう。

 貴様があと何年生きられるかは知らないが、その傷と娘の顔を見るたびに思い出せ。貴様が何を犠牲にして何を守ったのか。絶対に忘れるな」

 プレー少尉は乱暴に男を地面に転がすと、素早く去っていった。



 夜明け前の街角に広がる暗がりを伝うように、プレー少尉は市街地を駆け抜けていった。危険は感じなかった。この方面に治安部隊は配備されていないのは確認済みだったからだ。

 事前の計画時よりも政治的な混乱は生じているようだが、戦力があるとすれば、政府や駐留軍の要人が住まう高級住宅街のほうに集中しているはずだった。


 プレー少尉は、ふと気配を感じて立ち止まっていた。灯火管制された街角の暗がりで少尉を待っていたのは、初老の男ただ一人だった。

 彼は、パリ市街に潜伏するある抵抗運動の指導者の一人だった。その抵抗運動は、他の多くの組織のように無分別な闘争や襲撃に打って出ることは少なかった。

 安易な武力闘争が駐留ドイツ軍やヴィシー政権など治安維持勢力の過剰な暴力を招くことを知っていたからだ。それにパリに巣食うこの組織には粗暴な労働者や元軍人よりも作家や学生などの知識人が多かったから、構成員の面でも武力行使に長けた人間はいなかったのだ。


 プレー少尉は居候の形で、主に情報収集を行うこの抵抗運動に身を寄せていた。巧みに地下に潜った組織と接触できたのはクロードからの手紙に従ったからだった。

 あの手紙に暗号化された接触方法が書かれていなければ、組織への接触どころか存在にすら気が付かなかったはずだった。



 初老の男は、プレー少尉に手を上げながら言った。

「例の男は始末出来たのかね」

 うなだれながら、プレー少尉は首を振って言った。

「駄目でした。先生。あの男の娘が出てきてそれで……」

 そう言いながら、プレー少尉は懐に入れていた拳銃の銃身を掴んで差し出していた。つい先程発砲したために、まだ自動拳銃のスライドは温かった。


 先生と呼ばれた男は、戸惑ったような顔で拳銃を受け取っていた。その銃口に体を晒しながらプレー少尉は続けた。

「俺は、クロードを……あなたの息子を殺しました。それに彼から託された敵討ちすら出来ない男です。だから、あなたには俺の息の根を止める権利があるはずです」

 そう言ってプレー少尉は、生まれ故郷ケルグリの近くで教師を務めていたクロード・リュノの父親に顔を向けていた。



 だが、クロードの父親である先生は寂しげな表情で手にした拳銃をだらりと下ろしていた。

「私にはその気はない。息子の……初めての友達を撃つことはできない」


 プレー少尉の怪訝そうな表情に先生は苦笑しながら続けた。

「あの前世紀のドレフュス事件以後も本国に住み続けたユダヤ人にどんな目が向けられていたか君も知っているだろう。

 あの子達の祖父母……妻の両親は頑なな人たちでね、生まれ故郷から離れるのも、教えを捨てるのも拒んでいたんだ。もちろん妻もその影響を受けていた。

 だが、まだ若い頃の私は妻を愛する気持ちがあれば、宗教など乗り越えられると思っていたんだ。その考えが浅はかなものでしか無かったのを悟ったのは、学校に入っても友達一人出来ずにいじめられて帰ってきた息子の傷を見た時だったよ。

 その後は……君も知っての通り、私は息子を連れて誰も自分たちを知らないケルグリに移住したというわけだ。だがこうなってしまうと、あの時強引にでも息子だけではなく娘も母親から引き離すべきだったのではないか、そう考えてしまってね。

 まだ忘れられんよ、うちに帰ってきたあの子が初めての友達が出来たと喜んで私に言ったあの日のことは……」



 先生の独白に何も言えずにプレー少尉は押し黙っていた。口をついて出たのは全く違う言葉だった。そのまま話を聞き続けるのは苦痛だったからだ。

「ドイツの……ヒトラー総統が死んだというのは本当なんでしょうか」

「さて、まだ分からんな。ベルリンで大規模な政変があったのは間違いないようだが、それ以上はパリ駐留のドイツ軍も正確な情報を掴んでいないようだ。何にせよ、この戦争も終わりが見えたのではないかな……ところで、君はこれからどうする気だ」


 しばらく思案顔になっていたが、プレー少尉は戸惑った表情のままいった。

「ケルグリに帰ろうと思います。皆の墓を建ててやらなければならないし……その後のことは、今は考えられません。ですが、今の私はヴィシー政権軍からの脱走兵だから、いずれは再編成された自由フランス軍に捕まるでしょうが」

 先生は、それを聞いて眉をしかめながらいった。

「もったいない事を言うな。その歳で墓守になるつもりかね。そういう仕事は私のような老人に任せて、君は空を飛び続ける事を考えなさい。息子の分まで君が飛ばんでどうするんだ」


 先生の言葉に唖然としながらも、プレー少尉は首を振っていた。

「それは……この戦争が終われば、ヴィシー政権に従っていた自分たちはお払い箱でしょう。一兵卒ならば無罪放免ということもあり得るが、下士官からの累進とはいえすでに私は士官のうえに脱走兵扱いですから」

 だが、先生は不満そうな表情になっていた。

「そんなことは大した障害にはならんよ。考えても見ろ、自由フランス軍の戦力は大半が植民地から連れてこられた現地兵だぞ。彼らは戦争が終われば君のように故郷へ帰っていくさ。そうして残るのはほんの少数の生粋のフランス人だけだ。

 戦後のフランス軍が自由フランス軍が中核となったとしてもヴィシー軍を吸収しなければ軍を維持できんよ。

 それ以前にだ、本土の住民の大半は自由フランス軍を国際連盟軍の影に隠れて勝ち馬に乗っただけだと思っているんだ。我々三々五々分裂している抵抗運動も人のことは言えんがね。

 抵抗運動も一枚岩ではない。我々のように独立した組織もあれば、自由フランス軍の指揮下にあるもの、国際連盟軍と直接やりとりをしているもの、我々と接触はないが共産党に援助されているものも少なくないようだ」


 そこまでいうと、先生は夜明けが迫って星々が次第に駆逐されつつある空を見上げながら続けた。

「戦争が終わっても、此の先もこの国は揺れるぞ。そんな状況で下士官から累進した優秀な搭乗員を、どちらの派閥が優勢になるせよ軍が放って置けるほど余裕があると思うかね。

 脱走兵の件ならば、機体から脱出した後に我々抵抗運動に救助されて連れ回されていたことにでもすれば最低限の辻褄は合うだろう。

 とにかく、君らはまだ若い。将来の結論を出すには早すぎるよ」


 プレー少尉は、突然目の前に広がったような気がする可能性に圧倒されていた。ただ、先生の言ったとおりに、クロードやグローン中尉の分まで、まだもう少し空を飛んでもいいかもしれない。そう考えていた。

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