1944ニース航空戦10
国際連盟軍がニース上陸を開始した直後に出撃したヴィシーフランス海軍艦隊との戦闘は、自由フランス軍に大きな損害を与えていた。
フランス本国に残された大型艦すべてを編入したと思われる艦隊は、最終的には英日両海軍の迎撃艦隊によって殲滅されていたものの、自由フランス軍への損害はその後になって発生していた。
大規模かつ巧妙に配置されていたヴィシーフランス海軍の潜水艦隊によって、激しい海戦の隙間を縫うようにして策源地であるコルシカ島からニースに向かっていた輸送船団が襲撃を受けていたのだ。
本来、第二陣の上陸部隊を乗せた輸送船団は、有力な英国艦隊の護衛のもとでニースに向かうはずだった。ところが、ヴィシーフランス艦隊の出撃を脅威と思っていたのか、自由フランス軍上層部が独断で船団の出港を命じていたらしい。
輸送船団と言っても、未だ完全な状態には復旧されていなかったニースの港湾への上陸を想定していたから、その大部分は英海軍の上陸用艦艇で構成されていた。
その一方で、船団の直衛についていたのは、船団の規模からするとあまりに小規模な自由フランス軍所属の僅かな護衛艦艇だけだった。
それに、英日から供与された護衛駆逐艦やコルベットに乗り込む将兵は、士気はともかくとして練度が低かった。
開戦から間もない対独講和時において、フランス海軍は本土周辺に主力を集中させていたため、自由フランス軍に加わった生粋の海軍軍人は少なかったからからだ。
結局は自由フランス軍所属の海軍は、極少数の正規軍人と徴用されたばかりの新兵で構成するはめになっていたのだ。
その少数の自由フランス軍所属の護衛艦艇を安々と突破したヴィシーフランス海軍の潜水艦隊は、自由フランス軍ユダヤ系部隊からなる上陸第2陣が乗船する輸送船を次々と沈めていった。
ヴィシーフランス海軍潜水艦隊の布陣は恐ろしく正確だった。急遽派遣された雑多な対潜部隊が周辺海域を制圧するまでの間にかなりの兵員輸送船が犠牲となっていた。
対潜戦術が飛躍的に発展した最近では潜水艦が水上航行を行う機会は減っていた。
魚雷戦用の射撃指揮装置の性能が向上したこともあって、索敵から襲撃まで一貫して潜没状態で行うことも増えていたのだが、よほど直掩部隊の戦力が手薄だったのか、輸送船の中には至近距離で浮上した敵潜水艦から砲の射撃を受けたと報告したものもあったらしい。
砲撃には砲塔式の大口径砲が使われたというが、それが本当ならば20センチ砲を搭載する大型潜水艦のシェルクーフまで投入されていたのかもしれなかった。
だが、自由フランス軍の上層部では、実際に被った損害よりもヴィシーフランス海軍潜水艦隊の行動が正確過ぎるという疑念のほうが重要視されているようだった。
自由フランス軍はなりふり構わぬ規模の拡大を続けていたから、ヴィシーフランス側の諜報員が潜入するのは容易だった。
当然のことながら戦前から存在する情報機関は本土に残されていたから、諜報の分野ではヴィシー政権と自由フランスの間には質量共に大きな差が生じていた。
自由フランス軍上層部が諜報員を警戒するあまり疑心暗鬼になる一方で、ほうほうの体で大きな犠牲を払いながらフランス本土に上陸したユダヤ系部隊は、新たな試練に晒されていた。
ニース市民が彼らに向けたのは、本土開放を祝う歓喜の声ではなく、どことなく冷ややかな視線だった。
今次大戦において、フランス海軍が対独講和後に英国海軍から襲撃を受けたこともあって、フランス本国では予想以上に国際連盟軍に対する反感は強かった。
しかも、その後の自由フランスの名のもとで行われたインドシナ植民地の独立は世論の硬化を促すのに十分な火種だった。ここニースにおいてもその傾向は強いようだった。
それに、この地域は旧イタリア占領地域を経てヴィシー政権のもとに置かれていた。
講和直後の一時期を除けばドイツの軍政下に置かれたことはなかったから、ドイツ宣伝省の指導のもとで巧みに行われた世論誘導もあったのだろうが、大半の住民はドイツよりも自由フランス軍の方に反感を抱いているようだった。
当然のことながら、ユダヤ系に限らず期待を裏切られた自由フランス軍の士気は低かった。一度ならずニース市民の反発に過剰な暴力で答えた部隊もあったらしい。
ニース郊外に設けられた仮設基地に駐留するハルヴィッツ少尉達は市街地の情勢は詳しくは知らないが、ニース市内には治安維持のために急派された日本軍の憲兵隊が駐留しているらしい。
日本軍憲兵隊の目的は一時的な軍政に伴うものとされていたが、実際には彼らの目は市民ではなく自由フランス軍に向けられていたのではないか。
このような混乱した自由フランス軍の中でも、ノルマンディ連隊は補給品や人員などが充実しているせいか、比較的士気は高かった。
ニース橋頭堡の防空任務を任せられているのも道理だった。
もっともそのノルマンディ連隊においても、確かにユダヤ系に対する差別意識は存在していた。連隊に配属した直後に特別小隊に入れられたハルヴィッツ少尉も、敏感に本土の人間の意識を感じ取っていた。
だが、特別小隊を率いるリュノ中尉は、その様な意識とは無縁のようだった。ユダヤ系がどうこうというよりも、中尉には世間の些事に関心がないとでもいうような超然としたところがあったのだ。
対独講和後にこれに反発した世界各地の植民地などからの志願者で膨れ上がった自由フランス軍だったが、ノルマンディ連隊は開戦前からの経験豊富な搭乗員が多かった。
元々、ノルマンディ連隊はフランス本国が降伏する際に自力で英国まで脱出した搭乗員で編成された部隊だった。もっとも、搭乗員はともかく整備兵などはその殆どが本土に取り残されていたから、編制当初は地上要員が不足して満足に動けなかったらしい。
それがまともな部隊となったのは、インドシナ植民地の防衛に当たっていた部隊が自由フランス軍に編入されて地上要員に手当がついてからのことだった。
実は、リュノ中尉は対独講和後に英国に空路脱出していた元からのノルマンディ連隊の隊員ではなく、植民地軍に配属されていた搭乗員であったらしい。
フランス本土の生まれと言うから、リュノ中尉も英国脱出組だとハルヴィッツ少尉は考えていたのだが、実際には開戦前に空軍士官学校を卒業した後にインドシナ植民地に配属されていたというのだ。
だが、当時のフランス空軍は本土の軍備拡張に躍起になっていたから、植民地防衛部隊に新鋭機が配備されるようなことは無かったはずだ。
インドシナ植民地は近隣の諸外国植民地や独立国であるタイ王国などとの間に国境問題などを抱えて緊張状態にはあったが、いずれも即座に戦端が開かれるような気配はなかったから、植民地軍の任務は外敵に備えたものというよりも反乱の抑止や鎮圧といったものであったようだ。
そのような状況では、現在の特別小隊が装備している44式特殊戦闘機のような高性能機を活かすような機会はなかった。それどころか、高性能を追求したが故の複雑な機体構造などから兵站や整備に支障をきたしていたはずだ。
実際には、植民地警備には旧式機や複座戦闘機といった二線級の機材が配備されることが多かったようだった。確かにハルヴィッツ少尉が子供の頃マダガスカル島でみた機体も前大戦で使用されていたような旧式機だった気がしていた。
新鋭機が配備されることがあっても、欧州の最前線で使うには性能が不足する複座戦闘機程度だった。
戦間期に長距離戦闘機や偵察、軽爆撃機など多用途に使用できる万能機として各国で開発が進められていた多座戦闘機は、その多くが結局は器用貧乏な高性能な雑用機とでも言うべき機体になってしまっていた。
最前線で運用するには多座戦闘機は低性能ではあったが、植民地軍に配備するにはその多様性は魅力的であったようだ。植民地では対戦闘機戦闘など滅多に発生することはない為に運動性能の低さなどが問題となることはないし、偵察や爆撃など様々な事態に単機で対応可能だったためだ。
詳しくは知らないが、リュノ中尉が配属されていたインドシナ植民地も状況はマダガスカル島とそう大して変わっているとは思えなかった。
開戦前まではそのような状況にあったにもかかわらず、リュノ中尉はノルマンディ連隊内でも指折りの戦闘機乗りという扱いを受けていた。そうでなければ新鋭機を優先的に装備する連隊本部付きの特別小隊の指揮を任されたりはしないだろう。
もっとも連隊内ではリュノ中尉の評判はあまり良くなかった。共にフランス本土から英国まで逃れてきたという経験を有するせいか、ノルマンディ連隊の古手の搭乗員たちは仲間意識が強かったが、その反面新たに配属された若手の搭乗員を侮ったり軽視するものも少なくなかった。
だが、リュノ中尉に対してはそのような偏狭な仲間意識のせいというよりも、中尉が超然として周囲に溶け込もうとしていなかったかもしれなかった。
リュノ中尉の口数は極端に少なかった。感情を表に出すこともなく、一見すると淡々と任務をこなしているように見えていた。そのせいでもないだろうが、中尉の高い戦果はノルマンディ連隊に配備された三式戦闘機などの日本製の重戦闘機と相性が良かっただけとも思われているようだった。
もっともハルヴィッツ少尉は、むしろリュノ中尉には深い海の底に沈み込んでいるかのように表に出さないだけで、恐ろしく執念深い何かの感情を秘めているのではないか。最近になってそう考えるようになっていた。
インドシナ植民地に配属された当初はリュノ中尉も今のように無口ではなかったらしい。当時からの長い付き合いだという機付長はハルヴィッツ少尉にそう教えてくれたからだ。
リュノ中尉が変化したきっかけが何だったのか、それは機付長も分からないようだった。以前は普通の青年といった風でさして印象に残る人間ではなかったらしいが、開戦に前後した頃から妙にふさぎ込むようなことが増えていたらしい。
それに国際連盟軍の進攻を受けたインドシナ植民地守備隊が短時間で投降したのち、真っ先に自由フランス軍に志願していたとも聞いていた。
機付長から話を聞いたハルヴィッツ少尉には、一つだけ心当たりがあった。少し前から気になっていたことがあったのだ。いくら新米にしては腕が良かったからと言って、なぜ自分のようなものをリュノ中尉は僚機に選んだのか。
もしかするとリュノ中尉も自分と同じユダヤ系か、近くにそのような立場のものがいたのではないか。時折中尉が自分の方を妙な目で見ていることがあったのだ。
あの目線は自分をみているのではなく、その向こうに別の誰かをみていたのではないか。何となくハルヴィッツ少尉はそう考えていた。
ふとハルヴィッツ少尉は懐の手紙に意識を向けていた。それは今日の出撃前に唐突にリュノ中尉から渡されたものだった。宛先の違う三通の手紙は、一通はハルヴィッツ少尉宛だったが、残り二人の名前は知らなかった。
同性だからもう一つは兄弟か父親にでも向けたものであるようだったが、もう一通は全く分からなかった。
三通の手紙を渡されたのは、今回の出撃の前日の事だった。すでにノルマンディ連隊はニースに展開してから何度かの防空戦闘を行っていた。先日も大規模なヴィシー軍の空襲を受けていたが、戦闘は危ういものだった。
配属から間もないハルヴィッツ少尉は以前のことはよく知らないが、最近はヴィシーフランス空軍の戦術も巧妙化しているらしい。
その時は、攻撃隊をいくつかに分けて多方向からの侵入を図られていた。ノルマンディ連隊は予備機まで動員して全力で出撃していたが、それでも手が足りずにニース市街地まで侵入した敵機まであったのだ。
その戦闘においてもリュノ中尉は戦果を上げていたが、それから三通の手紙を準備していたようだった。
思えばリュノ中尉はニースについてから様子がおかしかった。長い戦いの果にようやくフランス本土にたどり着いたことでノルマンディ連隊の隊員たちの中には感慨深げにしているものも多かったが、中尉はそれとも違う気がしていた。
―――自分が撃墜されたら開封してくれ、か。なんで俺に遺書を預ける気になったのやら。
ハルヴィッツ少尉は、高速で旋回するリュノ中尉の機体を歯を食いしばりながら追いかける一方でそんなことを考え続けていた。
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