1944ニース航空戦7
計器盤に据え付けられたスイッチを入れてからしばらくして、咳き込むような音が聞こえるとともにプレー少尉の体を不快な振動が襲っていた。
震源はプレー少尉が座るD.525の操縦席からは距離があった。そのせいで鋭い振動も支柱を伝わってくる間に奇妙に増幅されて不快な周波数になっている。ようだった。
実際のところはこれまで試験もできなかったのだから、プレー少尉を含めて機体に起こっている現象を統計立てて説明できるものは誰もいなかった。概ねこれまでは整備隊や技術将校達が事前に予想していた通りだったが、これから先は何が起こるかは分からない。
―――これは早く切り離さないと機体が持っても俺の体のほうが持たないな……
振動に耐えてそう考えながらも、プレー少尉は今入れたスイッチから手を離して、ギイシステム関係の計器やスイッチが集中配置されている盤面に手をやっていた。
プレー少尉が手早く1つのスイッチをひねると、機体の奥底から気の抜けた酒瓶をこじ開けたような軽い破裂音が聞こえていた。単独で聞けばそれなりに大きい音の筈だったが、にわかに振動とともに大きくなったエンジン音に邪魔されてわずかに聞こえただけになっていたのだ。
しかし、音は小さかったものの、効果は大きかった。炸裂音の発生からわずかに遅れて、少しばかりD.525の機体が揺れた後は振動がすっかりおさまっていた。
操縦席から大きく起き上がるようにして、プレー少尉はD.525の機体下方を確認しようとしていた。だが、そんな少尉の眼の前を白煙を後方になびかせながらD.525を繋いでいた支柱を上部に括り付けたままアミオ359が飛び去ろうとしていた。
慌ててプレー少尉は背中を操縦席の背もたれに押し付けるように戻しながら、操縦桿と改造で追加されたギイシステム用の無線操縦系統に両手をそれぞれ伸ばしていた。
アミオ359は無事にD.525から切り離されていたが、その姿はまるで焦点のずれた写真の様にぼやけていた。先程まで支柱を伝わってプレー少尉を襲っていた振動のためだろう。
プレー少尉が射出したアミオ359は、エンジン回転数が極端に上昇したものだから、振動を発すると共に白煙を引くようになっていたのだ。
―――使い捨ての機体に搭載するには随分ともったいない機材だな……
プレー少尉はそう考えながらもD.525とアミオ359の2系統の操縦装置を器用に操っていた。
もちろん、アミオ359は単にエンジン出力を上げたわけではなかった。二度目の改造工事で搭載された出力増強装置を作動させていたのだ。アミオ359に強引に追加されていたのは、エンジン吸気系統に追加する水エタノール噴霧装置だった。
出力増強装置の構造自体は単純なものだった。液体の形でタンク内に収められた水とエタノールの混合物をポンプで加圧して、過給器の吸気配管内に散布するだけだったからだ。
エンジン吸気系統に設けられた過給器によって加圧された吸気は圧縮過程で加熱されてしまうが、この加熱された吸気が燃焼室に送られると点火の過早などのエンジン不調を引き起こす原因となっていた。
これに対して過給気に水エタノール液を噴霧した場合、急速な気化によって吸気温度を低下させると共にブースト圧の上昇も期待ができたのだ。
もっとも、出力増強装置は決して魔法の装置ではなかった。一時的にエンジン出力の上昇は望めるものの、液体タンクやポンプなどの艤装品が増えるから、装置を使用していない、あるいは水エタノール液を使い果たした後は単なる死重量にしかならないのだ。
第一、過給器による吸気の高温化に対しては、英国機の一部のように高効率の中間冷却器を過給器の吸気路後部に設ければ対応できるし、高オクタン価の燃料が供給出来るのであれば異常燃焼の抑制も可能だった。
これまでの戦闘で優秀な国際連盟軍機と交戦し続けていたプレー少尉は、そう考えるようになってしまっていた。
相対的に見れば出力増強装置の始動でアミオ359の速度が格段に高まったのは間違いなかった。ただし、戦闘機隊でも一部の機体に搭載されている既成の出力増強装置と比べると水エタノール溶液タンクの容量が小さいから、アミオ359に強引に搭載された出力増強装置の稼働時間は短かった。
稼働時間の短縮は折り込み済みの事態だった。どのみち2回の改造を受けたアミオ359は、通常のギイシステム搭載機と比べても射出からエンジンが停止するまでの予想時間は短かった。
使い捨ての弾頭機に出力増強装置を搭載したのも、その時間を更に縮めると共に、作動時に母機から適切な距離を作り出すためだった。逆に言えば、敵機群が近すぎる場合は危険度が高すぎて使い物にならないのだ。
プレー少尉は、とりあえず順調に飛行している様子の自機から射出されたアミオ359の飛行姿勢を確認すると素早く周囲を見渡していた。前衛の小隊各機から射出された他のアミオ359の様子を今のうちに確認したおきたかったのだ。
だが、プレー少尉はすぐに眉をしかめていた。少尉の機体と同じように無事に弾頭機の射出に成功したのは、後1機だけだった。小隊4機のうち残りの2機から射出されたアミオ359は迷走を始めていた。
位置からすると射出に成功したのはプレー少尉とその僚機であるコルコンブ曹長の機体のようだが、この状況では詳細を確かめることはできなかった。
小隊機のうち他の一機はとりあえずは射出に成功していたが、針路が安定せずにぶれていた。無事に射出された2機が概ね適正な間隔を保ちながら並進しているのに対して、その機体は小刻みな蛇行を繰り返していた。
余計な進路変更で速度がやや遅れ気味になっているせいか、先行する2機が後方に伸ばす白煙をかぶりながら飛行していた。
一応はその機体も遅れながら追随しているのだが、状況からしてその機体が無事に使用できるかどうかは分からなかった。飛行姿勢からすると出力増強装置の起動には成功したものの、無線操縦装置が完全には作動していないようだ。
あるいは、周波数帯に十分な余裕がないものだから無線波が干渉して混線を起こしてしまっているのかもしれなかった。
残る1機はそれよりも状況が悪かった。その最後の機体を確認するためにプレー少尉は首を振って後方を確認しなければならなかったからだ。
最後の機体は、後方で急旋回を連続していた。プレー少尉は眉をしかめたまま首を傾げたが、すぐに原因に思い至っていた。
そのアミオ359は、両翼にそれぞれ据え付けられたエンジンのうち片側しか白煙をたなびかせていなかったのだ。距離があるから振動については分からなかったが、他機よりも随分とおとなしいものだったはずだ。
おそらく、その機体は出力増強装置の始動に失敗していたのだ。あるいは、切り離しには成功していたから、始動そのものには成功してもすぐに停止してしまったのかもしれない。
状況は悪かった。両翼エンジンとも出力増強装置が停止すればよかったものの、中途半端に片側だけが停止してしまっていた。そのせいで両翼エンジンの出力に無視できない格差が生じて旋回を起こしてしまったのだろう。
そのままでは両翼の揚力の均衡までが取れなくなって水平スピンに入ってしまうのではないか。
しかも、弾頭機改造のアミオ359は搭乗員が乗り込んでいないから、スピン状態からの回復は難しそうだった。そのような繊細さを要求される複雑な操作を無線操縦で行えるとは思えなかったからだ。
後続の飛行隊僚機からすれば、迷走するアミオ359は危険極まりない存在だった。衝突を恐れて回避しようにも異常を起こした無人機がどのような挙動を示すのか全く予想がつかなかったからだ。
蛇行を続ける機体はともかく、迷走中の機体は無視するしか無かった。仮に出力増強装置が再起動しても、プレー少尉達に追いつけるとは思えなかった。
母機であるD.525もここに残すしかなかった。迷走する弾頭機のアミオ359の見張りといざというときは自爆を行わせるためだ。
―――やはりこのギイシステムの稼働率はさほど高くないということか……
視線を自機前方を加速するアミオ359に戻しながらも、プレー少尉はそう考えていた。母数がわずか4機とはいえ、高く見積もっても七割五分、成功と言い切れるのが五割では先が思いやられる数だった。
だが、プレー少尉はそれ以上考えるのを意図的にやめていた。作戦中に考えることではなかった。それどころか考え方次第では少尉は射撃中とも言える状態だったからだ。
プレー少尉とコルコンブ曹長の機体から射出された2機のアミオ359は順調に加速を続けていた。水エタノール溶液タンクの容量が少ないとはいえ、出力増強装置の稼働時間にはまだ余裕があった。
それに対して、敵機群も変わらずにこちらに向けて上昇を続けていた。しかし、プレー少尉は敵機の微妙な動きなどから、敵搭乗員の困惑を敏感に感じ取っていた。
それも当然のことだった。精密なレーダー観測を行っていたのでもない限り、距離があったから単機の反応が単座戦闘機のD.525と双発機のアミオ359に分離したことまでは気が付かなかったかもしれないが、爆撃機と思われる双発機が編隊から分離して猛然と彼らの方に向かってきていることは察知しているはずだ。
もっとも、これを明確に自分達にとっての脅威と受け取ることができているかは些か疑問だった。本来は戦闘機隊の護衛対象であるはずの鈍重な双発爆撃機が迂闊に突出してきているようにしか見えないからだ。
この距離でも所属を示す記章などの詳細は分からないが、敵機の機種は日本製の三式戦闘機か英国製のスピットファイアか、いずれにせよ水冷エンジンを搭載した単発単座の戦闘機であるようだった。
それでは仮に向かってくるのが爆撃機では無く高い火力を持つ双発戦闘機の類であったとしても大した脅威とは思えないのではないか。
敵機の搭乗員達がこの状態を不可思議に思っていたとしても、彼らの行動に変化は無かった。真正面からの衝突を避けるように機動しているのだろうが、プレー少尉達からの見た目には敵機群に複雑な動きは見えなかった。
今のところ状況はプレー少尉達の思惑通りに進んでいるようだが、懸念すべきこともあった。
事前に想定されていた事でもあったが、射出されたアミオ359の誘導は難しかった。単に同時に2機の操縦を行うという技術的な問題だけではなかった。射出されたアミオ359と敵機群の視線方向が一致しているものだから、双方の距離関係を正しく把握することが困難だったのだ。
通常型のギイシステムが想定する対地攻撃であれば地上物が比較対象となるかもしれないが、目標が空中にある軽快な敵機群ではそれも困難だった。
こんなことなら切り離し訓練の際に、訓練機には改造型をも想定して機動してもらえばよかった。渋面を作りながらプレー少尉はそう考えていたが、直ぐに目を見開いていた。
上昇を続けていた敵機群に新たな動きが見えていた。先程までは水冷エンジン搭載機特有の大型スピナーからなだらかに機体形状が連続する機首部分しか見えなかったのだが、徐々に機体側面が見え始めていたのだ。
どうやら目的は不明ながらも猛然と突入してくる3機のアミオ359を警戒したのか、回避行動に移ろうとしているようだった。
―――大型の冷却器開口部が胴体下に一箇所……日本の三式戦闘機か。
プレー少尉は、素早く機体形状を確認していた。ただし、敵機の所属は日本軍ではあり得なかった。当初の予想通りに機体側面には自由フランス軍所属を示すロレーヌ十字が描かれていたからだ。
いずれにしても余裕はそれほどなかった。やはり敵機とアミオ359との距離は正確な測定はできないが、敵機の挙動からして相当に両者は接近していると考えるべきだった。
プレー少尉は覚悟を決めると、最後にアミオ359の機首が敵機に向くように無線操縦装置の操縦桿を操作すると、出力増強装置用のそれと同じように取ってつけたような1つの計器板に手を伸ばしていた。
安全装置の掛けられたスイッチをひねり込んでからわずかに遅れて、アミオ359が飛行していた空域には凄まじい閃光が発生していた。
ドヴォアチヌD.525の設定は下記アドレスで公開中です
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三式戦闘機の設定は下記アドレスで公開中です
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