1944ニース航空戦1
ジャン・ル・プレー少尉は操縦席からの光景に違和感を禁じえなかった。少尉が乗り込んでいるのは、ここしばらく愛機としているD.525に間違いないのだが、風防外の光景はいささか奇妙なものだった。
操縦席内部の様子はこれまでと変わりはなかった。そもそもドヴォアチヌD.525は、開戦前に制式化された同社製のD.520の改良型に過ぎなかった。
その改良点も、旧式化したエンジンをドイツ製かあるいはライセンス生産されたエンジンに換装したものでしかなかった。
原型機が装備していたのは、クランク軸に対してピストンが上部にある正立配置のものだったが、同じ液冷V型でもD.525になって新たに配置されたエンジンはダイムラー・ベンツ製のクランク軸に対してピストンが下部にある倒立配置のものだった。
このエンジン型式の違いによって地上での駐機姿勢などには幾分か違いがあったのだが、飛び上がってしまえば飛行姿勢にはほとんど変化はなかった。
操縦席内部もそれは同様であり、違いはエンジン周りの計器盤などがすげ替えられている程度でしかない。プレー少尉は開戦前からD.520が配備された部隊にいたから、エンジン出力増大による機体性能の変化を除けば、D.525にも今ではそれほど違和感は無くなっていた。
しかし、視線を風防の外にまで広げてみると相当の違和感があった。見慣れた525の直下に別の双発機が姿を見せていたからだ。
おそらく、それぞれを別に見るか、あるいは距離をとった状態であればプレー少尉も不自然さは感じなかったはずだった。双発機の方も、機首部分の違いは無視出来ないものの、現在のヴィシーフランス空軍の主力機の一つであるアミオ359だったからだ。
D.525と同じく、アミオ359も原型機は開戦前に制式化されていた。もっとも、高速の双発爆撃機であったアミオ350の原設計自体は郵便機であったアミオ341を元にしていたから、原型をたどれば初飛行から十年にも達していた。
その間に開発されていた派生型は少なくなかった。非力な空冷ノームローンエンジンの換装を試みたものが大半だったが、中には機体形状の変更に踏み切ったものもあったらしい。
同時期に採用されていた他の双発爆撃機を押しのけて、アミオ359がヴィシー・フランス空軍の主力生産機種に選択されたのは、単に機体性能が優れていたためではなかった。
これまでエンジン換装を含む改設計が繰り返されていたから、その経験が活かせるとでも考えられていたのではないか。
以前に搭載が検討されていたのは、水冷正立のイスパノスイザ製かロールスロイスマーリンだったらしいが、改修後に搭載されたのは、D.525と同じルノー社でライセンス生産された水冷倒立エンジンだった。
そのあたりの経緯はD.525と同様だったものの、もともと余裕のある双発機だったためか、D.525ほどにはエンジン換装による問題は少なかったらしい。
少なくともD.525のようにプロペラ径の短縮やエンジン取付角度の変更といった慌ただしい程の処置はとられなかったようだ。
愛機であるD.525程ではないにせよ、本来であればプレー少尉にはアミオ359も見慣れた機体のはずだった。
休戦期における航空技術の断絶によってフランス空軍の装備は陳腐化が進んでいたが、最新のドイツ製エンジンへの換装によって飛躍的に性能を向上させたD.525やアミオ359は優先生産機種となっており、再編成後にこれらを配備された部隊は多かったからだ。
ただしこれまで見慣れてきた機体とは相違点も多かった。愛機の翼下に見えるアミオ359の機首は、爆撃手に良好な視界を提供する為に設けられた全面ガラス張り構造のそれではなく、つるりとした爆弾や魚雷の弾頭部にも似た流線形の薄板で覆われていた。
D.525の胴体の影になっているからよく分からないが、アミオ359の胴体中央部に設けられていた操縦士と電信員を収容する風防は完全に撤去されており、胴体中央部の突出部は無くなっていた。
プレー少尉は、周辺空域の警戒に視線を向けながらも、初めてこの姿の機体を見た日のことを思い出していた。
プレー少尉が所属する大隊の要員が集められたのは、国際連盟軍がニースに上陸するしばらく前のことだった。
ただし、上陸地点の正確な予測はともかく、ヴィシーフランス空軍が国際連盟軍の本土上陸の可能性を高く見積もっていたのは確かだった。目立たないながらもいくつかの措置が施されていたのだ。
上陸が予想される地中海に面した基地から、大型機などが内陸部に移動していたのもその一環だった。軽快な戦闘機などはともかく、爆撃機などは上陸に先立った航空撃滅戦によって大きな損害を被る可能性が高かった。
そのために初期の哨戒に必要な部隊を除いて沿岸からの攻撃に晒されることのない内陸部に退避させていたのではないか。
もっとも、この時期フランス空軍は大規模な再編制の途上にあった。
今時大戦開戦時には、フランス本土に駐留する主力部隊は、ドイツ及びイタリア軍に対抗するために国境線近くに戦力を集中させており、それらは国境に沿って北から北部、東部、南部そしてアルプスという4つの航空作戦圏に分割されていた。
もちろんこのような体制は休戦に伴って完全に崩壊していた。フランス本土のうち大西洋側はドイツ占領地域に指定されていたし、スイス、イタリア国境付近やコルシカ島もイタリアに占領されていた。
残る地中海沿岸から内陸部、それに本土外の海外領土などはヴィシー・フランスに委ねられていたが、軍備に関しては軽装備の休戦軍の保有が許されていた程度に過ぎなかったから、空軍の装備も少なくない数が接収され、残りも交戦国間の急速な航空技術の発展の前に旧式化が進んでいた。
この状況が一変したのは、休戦時にイギリスに逃亡した一部将兵を中核として結成された自由フランス軍によるインドシナ植民地の占領や、かつての友軍であった英国海軍による一方的なフランス艦隊への攻撃といった事態を受けて硬化した世論を受けて、ヴィシー・フランス政権が枢軸側にたって再戦を決意した時だった。
これを歓迎したドイツは、休戦軍の枠組みを超えた本格的な再軍備の許可や段階的な占領地帯の統治権返還などに加えて、旧式化が進んでいたフランス軍装備の更新に必要な戦闘機用エンジンのフランス国内企業によるライセンス生産などの技術転移にも乗り出していた。
これらの措置によってフランス空軍の軍備は改善されつつあったが、その一方で軍令機構の刷新は等閑に付されていた。各隊に続々と新鋭機が配備される一方で上部機構は旧態依然とした体制のままだったのだ。
もっとも、それも無理のないことだった。フランス軍は各隊のみならず、軍政機関も治安維持と国外植民地の防衛以上の戦力を持たない休戦軍の規模に合わせて縮小されていたから、指揮系統の変更に伴う事務作業も滞っていたのだ。
ここにきて今次大戦の開戦以後混乱を極めていたフランス空軍の指揮系統が改められたのは、ある意味で皮肉な所に原因があった。
開戦前、フランスは世界各地に数多くの植民地を有しており、そこには現地の防衛にあたる陸海空の植民地軍が配置されていた。それらの植民地の多くは、本国が対独休戦に至った際も、ヴィシー政権を正統性を有すると認めて忠誠を誓っていた。
しかし、だからこそ資源や兵力の供給源となりうる植民地は、ヴィシー・フランスと自由フランスを尖兵とする国際連盟軍との争奪戦の舞台となってしまっていた。
だが、本国駐留の部隊再編成すらままならない状況では、ヴィシー政権には遠隔の植民地に十分な防衛戦力を配置するだけの余裕は無かった。
プレー少尉自身何度も経験していたが、植民地や保護国に逐次投入された少部隊は短時間で戦力を喪失して惨めに撤退を余儀なくされていた。
北アフリカではある程度纏まった戦力を投入できていたものの、国際連盟軍の大軍の前では結果に変わりはなく、いまでは欧州本土に近接するコルシカ島でさえ国際連盟軍に奪取されてしまっていた。
その一方で、この防衛線の後退が戦力の集中と指揮系統の単純化をもたらしたのも事実だった。
ヴィシー・フランスに残されているのはフランス本国だけだった。しかも、段階的に占領地帯における行政権の返還が進められているとはいえ、大西洋に面するフランス北西部の防衛は未だにドイツ軍の担当となっていた。
ドイツからすれば、オランダ、ベルギーと並んでフランス北部は、英国から飛来する国際連盟軍爆撃隊に対して欧州大陸の玄関口となる位置になるために、本国防衛の縦深地として必要不可欠だったのだ。
搭載量の大きい重爆撃機による夜間爆撃を重要視する英国空軍に対して、日本陸軍は重火力の高速爆撃機や攻撃機による航空撃滅戦を行っていた。
軍需工場や操車場などの破壊を目論む英国空軍が国際連盟軍の鉾だとすれば、その夜間爆撃機を阻止するために展開する夜間戦闘機やレーダ施設などを逆に集中的に狙ってくる日本陸軍は盾とでも言うべき存在なのだろう。
何れにせよ本土の一部防衛すらドイツ軍に委ねているヴィシー・フランス空軍は、戦力を地中海沿岸のフランス南東部に集中させていた。そのうえ、展開地域が限られているものだから、作戦域を分割する航空作戦圏などは廃止されて単一の航空軍に集約されていた。
しかも、空軍総司令官のタシニー元帥が航空軍の司令官を兼任する単純な指揮系統をとっていたから、開戦時の細分、多重化が進んでいた複雑な指揮系統からすれば信じられないほど単純化が図られていた。
もっとも、書類上の指揮系統こそ単純化が図られていたものの、航空軍の再編制は国際連盟軍がニースに上陸する時点でも未だ完結していなかった。
この時点でフランス空軍のほぼ全力が投入されていた航空軍は、合計1000機程度を保有している、はずだった。この数だけを見れば航空軍の戦力は強大なものに見えていた。
これまでの戦訓などから推測すると、地中海方面に展開する国際連盟軍の航空戦力もほぼ同数になるはずだった。
国際連盟軍にはこの他に大型の正規空母を揃えた日英海軍の艦隊航空戦力も存在しているが、イタリア半島でドイツ軍と対峙し続ける国際連盟軍がフランス上陸作戦に全力を投入できるはずはないから、前線に投入される作戦機の数だけを見ればやはり両者は拮抗していると考えてもよいはずだった。
ただし、実戦力となると些か怪しいものだった。作戦機1000機と言っても、その実数を正確に把握しているものは誰もいないのではないか。
慌ただしい再軍備と再編制作業の連続によって、どの部隊も保有機の入れ替わりや補充が激しかった。
プレー少尉達のように新鋭といってもよいD.525やアミオ359を優先的に配備された精鋭部隊がある一方で、開戦当時の主力機であるD.520や更に旧式なモラーヌソルニエMS406などを保有し続けている部隊もあるようだった。
もっとも、書類上ではその様な旧式機を装備していることになっているものの、実運用を行っているとは思えなかった。
エンジンを除いた機体設計がD.525と同一であるために予備部品の調達も容易なD.520などはともかく、開戦時の時点で旧式の構造が目立っていたようなMS406などは満足な予備部品の集積もままならないのではないか。
実のところ、プレー少尉たちの飛行隊のようにこれまで前線に投入されていた実働部隊はともかく、再軍備によって急遽実戦部隊としての体裁を整えたような部隊は、書類上だけの保有機や練習機扱いを受けている旧式機で実働の機体を水増ししているようだった。
その様な中で、プレー少尉たちは戦闘機隊であるにも関わらず、内陸部に存在するある航空基地への移動を指示されていた。その時点では、飛行隊のほとんどが再編制作業の混乱によって出された命令なのではないか、そう考えていた。
それが誤っていたことに気がついたのは、新装備を受領した時だった。
ドヴォアチヌD.525の設定は下記アドレスで公開中です
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アミオ359の設定は下記アドレスで公開中です
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