1944特設水上爆撃隊13
青江二飛曹の瑞雲を凄まじい衝撃が貫いていた。操縦桿を握りしめているものの、機体の操作など思いもよらなかった。瑞雲周囲の気流も大きく乱れているはずだから、操縦翼が動いたとしてもどのみち思うようには動かなかったはずだった。
ただし直撃弾ではあり得なかった。おそらく撃った相手も最初から撃墜など望めるとは考えていなかったはずだ。
迂闊だった。
フランス海軍の新鋭戦艦は、いずれも主砲を艦橋前方に集中配置したことによるしわ寄せによって、前方、特に艦首真正面に指向し得る対空砲火は乏しい筈だった。
だが、実際には前方には無視出来ない火力が存在していた。言うまでもなく集中配置された8門もの主砲だった。
ただし、大口径の戦艦主砲を対空砲として用いるには支障が大きかった。砲弾重量が大きいことから装填時間が長く、単位時間辺りの発砲回数は少なくなるからだ。
それに重装甲が施された砲塔の重量が旋回速度を低下させていたから、内懐に入られた高速の敵機に対応するのは難しかった。
日本海軍においても、通常対空戦闘に多用されるのは軽巡洋艦主砲程度までだった。
それ以上の戦艦や重巡洋艦の主砲にも対空戦闘用の砲弾は用意されていたが、通常の高角砲のように特定の敵機を指向するというよりも、大遠距離で敵編隊や大型機に向けて牽制で放つ程度のものだった。
遠距離からの主砲射撃で敵編隊を早期に分散させて効率を低下させるのが目的であって、積極的に敵機の撃墜を目指すものではなかったのだ。
それに、戦艦主砲では航空機に対して有用な照準を行うこと自体が難しかった。戦艦主砲の射撃指揮機能は、高射装置のように高速で機動する敵機を追尾するのではなく、大遠距離の水上目標を正確に捕捉することが目的だったからだ。
ダンケルク級戦艦の艦長や砲術長も主砲で青江二飛曹達を撃墜出来るとは考えていなかっただろう。
今回は、日本海軍が想定していたように対空砲の射程外において主砲射撃で牽制を行うこともできなかった。視界の効かない夜間に急速に接近していた青江二飛曹達に至近距離まで踏み込まれてしまっていたからだ。
だが、主砲の要員達は不用意な敵機に射撃を行う機会を辛抱強く待ち続けていたのだろう。使用された弾種は分からなかった。対空射撃に用いるのは常識的には時限信管付きの榴弾となるが、対艦戦闘、特に重装甲の戦艦に対しては榴弾は無力だった。
弾頭に充填される炸薬量にもよるが、高い存速で分厚い装甲に命中した場合、榴弾の薄い弾殻では強度を保てずに自壊して装甲を貫通させることもできなかった。勿論、防御区画外の居住区や高角砲などは榴弾の弾片でも十分な威力を発揮するが、戦艦の戦闘能力そのものには支障が出ないはずだった。
水上戦闘の場合は、実質的には徹甲榴弾となる徹甲弾が使用されていた。敵艦の重装甲を貫いた後に起爆して艦内の重要区画に損害を与えるためだ。
前後の状況からして、戦闘が始まる前にダンケルク級の主砲薬室に装填されていたのは、徹甲弾である可能性が高かった。それに、実際に青江二飛曹達の突撃が開始されてから時間は殆ど経っていないから、徹甲弾を抜弾して対空戦闘用の榴弾を再装填する間も無かった筈だった。
しかし、直撃弾など到底望めない状況にも関わらず、彼らは目的を達成していた。至近距離で発砲された戦艦主砲の衝撃によって青江二飛曹達やその僚機は飛行姿勢を大きく狂わされていた。
操縦桿の微妙な動作から操縦翼の感覚が戻ったのを確認した青江二飛曹は、飛行高度を読みとってから思わず眉をしかめていた。
至近距離からの戦艦主砲発砲の衝撃によって、意外なほど瑞雲の高度が下がっていた。しかも衝撃に揺さぶられていた一瞬の間に飛行姿勢も大きく崩されていた。
青江二飛曹は、素早く自機と敵艦との位置関係を確認していた。結果は微妙なものだった。理想的な降下角はすでに望めなかったが、照準の修正はここからでも不可能ではなかった。
すでに、後方のダンケルク級戦艦は脅威ではなかった。戦艦主砲の再装填には少なくとも30秒程度はかかるはずだし、先程のように予想進路上に砲口を向けて待ち構えているのならばともかく、高速の瑞雲に対して主砲用の方位盤を使用して照準を行うのは難しいだろう。
後続機も青江二飛曹達の瑞雲に向けてダンケルク級から放たれた主砲は確認しているはずだから、奇襲はもう成り立たないと考えて良いだろう。
リシュリュー級戦艦と思われる標的は、相変わらず盛んに高角砲を放っていた。距離が狭まったことで剣呑さは増しているような気がしていた。やはり発射速度は先程飛び越えたダンケルク級戦艦の両用砲よりも高いようだった。
しかし、すでに回避はできなかった。無理に回避行動を行えば、ただでさえ崩れかけている飛行姿勢が回復不可能にまでなってしまうだろう。
至近距離を次々と通過する砲弾や対空機銃の曳光弾の煌きに背筋を凍りつかせながらも、青江二飛曹は必死に敵艦を視界に維持しながら降下角を保とうとしていた。
後席の村上大尉が読み上げる高度を聞きながら、青江二飛曹は勢いよく爆弾を切り離していた。重量物が切り離された瑞雲は、二飛曹の操作で主翼をしならせながら引き起こしを始めていた。
ダンケルク級戦艦の主砲射撃を受ける前後から、急角度の降下によって前方視野のかなりの部分を締めていた海面が急速に下がって、それに代わって対空射撃の閃光でも打ち消せないほどの満天の星空が視界に入ってきていた。
だが、青江二飛曹が攻撃の失敗を悟ったのはその瞬間だった。明確な根拠があったわけではない。ただ、投弾した爆弾がリシュリュー級戦艦の後方に虚しく落着する光景が脳裏に浮かんだのだ。
投弾前と比べて、明らかに周囲の曳光弾の間隔は広がっていた。追い撃ちとなるから物理的に命中が期し難くなるのもあるが、すでに青江二飛曹達が投弾を終えていることのほうが理由としては大きいだろう。
おそらく、対空火力の主力はこれから投弾を行う後続機を阻止する方に向けられているはずだった。
また、単縦陣の先頭艦を追い越した状況からしても、ここから先に有力な対空艦が潜んでいるとは思えなかった。前方に前哨艦を配置している可能性は否定できないが、艦隊の規模からすると、いても駆逐艦が1隻か2隻といった所だろう。
すでに攻撃隊は投弾を終えているのだから、大洋に散らばる前衛の駆逐艦など無視してしまえばいいだけだった。
危険はなくなったと言える状況にもかかわらず、青江二飛曹は安堵よりも徒労感を覚えていた。夜間の編隊飛行という悪条件をおかしてまでここまで苦労してきたのに、実際には戦果と言えそうなものはまるで無かった。
後続機の戦果もさほど期待できそうになかった。ダンケルク級戦艦の主砲射撃に正確な照準を阻害されたことも無視できないが、実際にはリシュリュー級戦艦の速力を低く見積もっていたのが照準の誤りを招いた。そのことに気がついたからだ。
夜間の対空砲火に幻惑されたことと、陣形の乱れを考慮する必要のない単縦陣故に高速を発揮していた敵艦隊の速力を見誤ったのが原因だったが、後続の僚機がそれを補正できたとは思えなかった。
しかし、青江二飛曹はすぐに困惑を覚えていた。隊内無線につながった受話器から歓喜の声が聞こえてきていたのだ。無線は続航する僚機から送られてきたものだった。どうやら敵戦艦に命中弾があったらしい。
―――あの状況で照準を補正して命中弾を出したというのか……
青江二飛曹は首を傾げながらも、僚機の技量を過小評価していたのかと考え始めていた。
だが、受話器から流れる声は青江二飛曹の考えとは微妙に異なっていた。むしろ、相手を祝う様な調子があったのだ。どうやら僚機は青江二飛曹が命中弾を与えたと考えているらしい。
青江二飛曹は唖然としていた。自分たちが投弾した25番爆弾が敵艦に吸い込まれるように命中する姿がどうしても思い浮かばなかったのだ。
青江二飛曹は後方の敵戦艦を振り返りたい衝動を抑えていた。ようやくのことで引き起こしを終えた瑞雲は、海面上を低高度で高速飛行して退避していた。 視界の効かない夜間に飛ぶには低すぎる高度だったが、経験から低高度飛行が安全なのは分かっていた。目視にせよ電探にせよ、低高度であればそれだけ視認性が低下するからだ。
だが、この高度ではほんの僅かな操縦の誤りで海面に接触してしまうはずだった。今は操縦に専念する他なかった。
青江二飛曹に代わって状況を確認したのは後席の村上大尉だった。相変わらず落ち着いた様子の大尉は、冷徹にさえ聞こえる口調でいった。
「残念だが、本機の攻撃は命中していない。おそらく後続機も命中弾は得られていないだろう。投下された25番爆弾は、海面に落着した際に信管が作動して起爆したようだが、2番機はこれを命中弾と錯覚したのだろう」
―――単なる誤認だったのか……
村上大尉の声は淡々としたものだったが、それだけに信用が置けた。少なくとも青江二飛曹が先程浮かべた印象とも合致していた。
思わず嘆息したくなる状況だった。夜間で著しく視認性が低下する条件とはいえ、至近距離で命中弾を錯覚してしまったのだ。やはり自分を含めて特設飛行隊の練度はあまり高くなさそうだった。
この様子では、特設飛行隊全体で見ても命中弾が全く無くとも不思議ではないのではないか。敵艦隊との距離が取れてきたのを確認しながら、青江二飛曹は少しずつ瑞雲の高度を上げながらそう考えていた。
「瑞雲隊、全機投弾を終えた。続いて水平爆撃に入る」
村上大尉はそう言ったが、青江二飛曹はさしたる期待も抱けなかった。今もフランス艦隊による対空射撃は継続していたが、その程度の光源では満足な照準が出来なかったのは、先程二飛曹達が証明していたからだ。
村上大尉の言うとおり、しばらくして水平爆撃が開始された。だが、その様子は迫力に欠けるものだった。いきなり海面にいくつかの水柱が発生していたが、それを視認するのは実際には難しかった。
目標であるリシュリュー級戦艦から随分と離れた位置に水柱が発生していたものだから、敵艦対空砲の発砲炎で視認するのが困難だったのだ。
―――これで……終わりなのか……
青江二飛曹は虚無感を覚えながら水柱を見つめていた。だが、そのうちに違和感を覚えていた。投弾した機数よりも水柱の数が少ないような気がするのだ。
衝突を避けるために、編隊内の間隔を広げていたのか、水平爆撃で生じた水柱の散布界は間延びして広がっていた。違和感を覚えるのも当然だった。散布界の頂点に有るべき水柱が生じていなかったのだ。
命中弾があったのか、一瞬そう考えたのだが、すぐに自ら否定していた。どう見てもそのような光景には見えなかった。
しばらくして、村上大尉が言った。
「上空の……平沼少佐からだ……爆弾が外れないと言っている」
今度こそ、青江二飛曹はため息をついていた。特設飛行隊の隊長機がこのざまなのだから世話は無い。そう考えたのだ。
だが、青江二飛曹はすぐに仰天することになった。
「平沼少佐が妙なことを言っている……ニースまで帰還できない為に自爆を試みる、だと……」
確かに妙だった。軍機を保つ為に機体ごと破壊してしまう自爆が行われる例はこれまでもあった。
しかし、実際には制式化前後の新鋭機や機密書類を敵手に渡さないようにするという状況でもない限りは、自爆が多用されることは無かった。
最近は航空技術も進んでいたから、機体はともかく一々乗員を失っては教育に掛かった多大な費用が無駄になるからだ。
それに、地中海戦線ではこれまで以上に潜水艦部隊や飛行艇などで乗員救出を行うことも増えていた。陸上であればドイツ軍に対抗する現地抵抗運動に援助と引き換えの乗員救出を依頼することもあるらしい。
だから、平沼少佐が言っているという自爆という措置は早計に過ぎるのではないか。第一、この有様では水上機に自爆してでも守りたい機密など残されていないはずだった。
それに、この状況では捕虜になる可能性も低いだろう。
だが、そこまで考えたところで青江二飛曹は奇妙なことに気が付いていた。瑞雲よりも航続距離の長い零式水上偵察機であれば爆弾を抱えたままでもニースまで戻れるのではないか。
ニース沖に展開する艦隊近くであれば、爆装状態で着水が危険であったとしても、機外に脱出した乗員の救助は容易なはずだし、機密が漏洩する危険もなかった。
嫌な予感がして青江二飛曹は平沼少佐の零式水偵が飛行しているはずの空域を見上げようとしていた。
だが、状況は青江二飛曹の思惑を超えて大きく動いていた。最初は星々の動きだった。正確に言えば翼を翻した零式水偵によって覆い隠された星があったのだが、その数は思ったよりも多かったのだ。
―――こんなに高度を下げていたのか……
青江二飛曹は愕然として平沼少佐機の動きを見つめていた。急角度の変針を行った零式水偵は、敵艦隊の方に向けて勢い良く引き返していった。
しばらくの間、村上大尉の声が聞こえ続けていた。相手に翻意を促しているようだったが、最後は諦めたかのように無線機にこう言っていた。
「特設飛行隊全機に告げる。これより飛行隊指揮は足柄飛行長が引き継ぐ。全機欠けることなくニースに……各々の母艦に帰還せよ」
青江二飛曹は、背後の艦隊が飛行隊の離脱と共におさまっていた筈の対空砲火を再び上げ始めているのを感じていたが、もう振り返りはしなかった。
ただ、自爆の為に25番爆弾ごと零式水偵一機が体当たりしたところで、小山のような戦艦は小揺るぎもしないのではないか。そう考えていた。
青江二飛曹が自分の考えが間違っていたことを知ったのは、ずっと後になってからのことだった。