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1942マルタ島沖海戦5

 思っていたよりもコクピットに伝わってきた着水の衝撃は大きかった。

 その衝撃で、石井一飛曹は思わず操縦席からずり落ちそうになって、ベルトに引きづられて、疲労した体が悲鳴を上げるのを聞いたような気がした。

 訓練の時のように、母艦である日進が回頭して作り上げてくれた静海面に着水したはずだったが、いつの間にかそこから抜けだした場所に着水してしまったのだろうか。

 それならば、母艦への回収に時間がかかるだろうから億劫だな、そう思いながら、石井一飛曹は面倒くさそうに姿勢を直して、コクピットから身を乗り出して海面を見たが、真っ青な地中海は全く波の見えない鏡のような水面をしていた。

 意外に思って前に向き直ったが、やはり思ったよりも近く、回収されるにはほとんど理想的な位置で日進は微速で前進を続けていた。

 既に長機である大沢少尉の二式水戦の回収が始まっていた。

 石井一飛曹は、回収されつつある大沢少尉の機体を見てようやく、思ったよりも疲労していることに気がついていた。


 古参の飛行科下士官である石井一飛曹が、ここまで疲労を覚えるのには理由があった。

 日進航空隊は、石井一飛曹と大沢少尉の編隊にかぎらず、今日は全力を上げて艦隊外周部の戦闘哨戒任務に就いていたからだ。

 本来の予定であれば、日進航空隊の今日の飛行予定はもっと余裕が持たされていたはずだった。

 二式水戦部隊が哨戒任務につく予定は確かにあったが、全力出撃という程の予定ではなかった。

 対潜哨戒と万が一の時の対空戦闘に従事する予定ではあったが、対空哨戒には、専任の艦攻が来援するはずだった。

 それに、付近の海域にはシチリア島に対して先行する形で航行する空母部隊があったから、その直衛の戦闘機部隊で大部分の敵部隊は吸収されるはずだった。



 しかし、当初の予定とは異なり、外装式の対空電探を装備した警戒機仕様の九七式艦上攻撃機が来援することはなかった。

 新型の艦上攻撃機天山の配備に伴い、旧式化していた九七式艦攻に魚雷型の外装式電探を装備した警戒機仕様は、電探を艦艇のマストに設置されたそれよりも遠距離の索敵が可能となる高度におけることや、艦載の電探よりも容易に前方に進出できることから、長距離の哨戒を可能としていた。

 二年前の英国本土防空戦の戦訓を受けて、日本海軍は空母を中核とした防空戦闘法を模索していた。

 電探搭載機による長距離哨戒もその一つであった。

 航空機に搭載された電探で得られた情報を元に、戦闘機部隊を誘導することで、これまでの艦隊直上で待機していた直衛隊を艦隊の遥か彼方に展開させようとしていたのだ。

 これによって戦闘機部隊は、敵攻撃機部隊を余裕を持って迎撃することが可能だった。

 さらに、戦闘機部隊の展開する空域を限定し、さらに電探で味方機の位置情報を取得することが出来れば、従来のように誤射を気にせずに全力で対空砲火を発揮させることも可能だった。


 艦隊の長距離索敵手段として開発された九七式艦攻の警戒機仕様だったが、艦隊の防空システムから切り離して運用することも可能だった。

 日進を含む輸送艦隊では、航空指揮能力が専任の航空参謀を含む多人数の司令部を収容できる大型空母や戦艦を含む主力艦隊よりも格段に低くなってしまうが、対空戦闘の主力となる戦闘機隊指揮中枢をある程度警戒機の機上に移行させることは難しくなかった。

 機上からの指揮では、作業の容易性などの面から艦上での指揮よりも劣る面があるのは否めないが、それでも艦隊による電探捜索よりもは格段に長距離で迎撃できる意義は大きかった。


 それに、長距離捜索を専門に行う九七式艦攻がいれば、二式水戦を含む水上機部隊は、本来の任務である対潜哨戒任務に従事するため低空を飛行する事ができるはずだった。

 九七式艦攻が長距離で敵機を発見した場合でも、二式水戦の零式艦戦四三型譲りの強力なエンジン出力を持ってすれば余裕をもって迎撃高度まで上昇することも可能なはずだった。

 だが、現実にはこのような任務分担は不可能となっていた。


 日進航空隊に与えられた情報は少なかったが、どうやら空母部隊は予想以上に激しい航空攻撃を受けているらしかった。

 本来の予定では輸送艦隊に来援する予定だった分の警戒機も、艦隊前方での対空迎撃戦に投入されたらしかった。

 それに、予想外の方角から飛来する独空軍の爆撃機や哨戒機も少なくないようだった。

 輸送艦隊上空にも、そのうちの何機かが飛来していたからだ。


 結局、輸送艦隊直上の哨戒は、土壇場になって二式水戦が担当することになってしまっていた。

 二式水戦にも、九七式艦攻が搭載する外装式電探ほどの性能は持たないが、一応は主翼に空中線を配置した電探を搭載していたからだ。

 輸送艦隊を指揮する原少将と参謀達はそう考えたようだった。

 哨戒機として二式水戦を、高度を上げて索敵と対空迎撃にあてる代わりに、低空での対潜警戒は他艦が搭載する水偵を投入して補う作戦だった。


 しかし、この決定は二式水戦と搭乗員を激しく疲労させることになった。

 予想外の高高度飛行に消耗が激しかったということもあるが、それ以上に徒労感が激しかった。

 実のところ、二式水戦では昼間の電探捜索は殆ど意味がなかったからだ。


 九七式艦攻が搭載する外装式電探は、元々悪天候や夜間などの視界不良の状況で長距離索敵を行うために開発されたものだった。

 大気の状態や、電探搭載機の高度にもよるが、航空機の編隊や大型艦であれば百キロ程度の探知距離があった。

 その代わり波長は比較的長いから、捜索精度はさほど高くはなかった。

 あくまでも長距離での捜索に特化した電探だったのだ。


 それに対して二式水戦が搭載していたのは、夜間などの視界不良状態で使用することを目的に開発されたという点では、97式艦攻が搭載する外装式の電探と同じだが、そもそも使用用途が全く異なる射撃管制用の電探だった。

 こちらは使用波長が短いため方向精度が高く、夜間でも正確な敵機位置を把握することが出来た。

 すでに夜間戦闘機月光に同型機が搭載されており、夜間迎撃において機銃の射撃可能範囲まで敵機を追尾することが可能という話だった。

 しかし、そのように高い精度も持つ反面で、最大探知距離は短かった。

 やはり状況にもよるが、単機で飛行する敵機を識別できるのは最大1000メートルほどでしか無かった。

 元々が夜間戦闘機の照準補佐用途だったから、それでも十分な距離だったのだ。

 もしもそれ以上の捜索範囲が必要であれば、大型機や陸上で運用する大重量の捜索用電探で得られた情報で、軽快な夜間戦闘機を誘導してやれば済む話だった。


 だから、二式水戦の機上電探では長距離での索敵など不可能だったのだ。

 余程の悪天候でもない限り、昼間であれば肉眼での監視のほうがよほど高精度だった。

 実際、高高度での長時間哨戒飛行を強いられた石井一飛曹達は、電探などに頼らずに目を皿のようにして見張りをするはめになっていた。

 しかし、輸送艦隊の司令部は、そのような捜索用と射撃管制用の違いがよくわかっていなかったようだった。

 同じ電探だから、多少精度や性能に違いはあっても、同じようなことができる。そう考えてしまっていたのではないのか。

 電探はまだ出現から間もない新しい兵器だった。

 その特性や性能の把握が進み、電探をより高度に使用した戦法が確立していくには、まだ時間が必要なのかも知れなかった。



 日進から降ろされたデリック先端のフックを、疲労した体で何とか愛機の二式水戦に括り付けた石井一飛曹は、そのようなことを考えたが、一度大きく頭を振った。

 この徒労感をもたらしたのは、必ずしも艦隊司令部の無理解だけが原因ではなかった。


 日進の甲板上に引き上げられた二機の二式水戦には、整備科の将兵が群がってきたが、石井一飛曹は、その中にいた一人の整備科下士官に黙って首を振ってみせた。

 その機銃整備担当の下士官は、残念そうな、あるいは不思議そうな顔でいった。

「また発砲無しなのか…他の機体も射撃無しか、撃ってもほとんど残ってるが、そんなに相手は逃げ腰なのか」

 石井一飛曹も首を傾げながら返した。

「どうもよく分からんな。距離があって機種もよく分からんが、丸っぽい形をしていて、鉛筆というほど細くはなかったから双発の方のユンカース爆撃機だと思う」

 他の作業者と違って、機銃担当下士官は仕事がなくなってしまって手持ち無沙汰になったせいか、二式水戦が整備位置に動かされる間も、石井一飛曹と話し込み始めてしまっていた。


「双発のユンカースというとJu88か…待てよ、あれなら二式水戦よりも速いんじゃないのか」

 石井一飛曹は苦笑しながら答えた。

「まぁあっちは爆撃機とはいっても、ウチの陸サンの一式や九七式重爆みたいな高速機なんだろう。それでこっちは下駄履き機だからな…そういえばやっぱり双発の戦闘機らしき奴も付いてたみたいだが」

 機銃担当下士官は眉をひそめた。

「そいつはきっと双発戦闘機のメッサーシュミットの百十とか言うやつだな。動きは鈍いらしいが、エンジンは水戦と同じマーリンみたいな奴を二つも積んでるから速度はかなり出るという噂だがな。そんな奴がいても此方を襲ってこないってことは」

「我が二式水戦を恐れたわけではないでしょうね」


 唐突に大沢少尉が後ろから声をかけて来た。

 いつもの様に涼しい声だったが、目は真剣だった。

 慌てて敬礼する機銃担当下士官を横目で見ながら、石井一飛曹はいった。

「どうも少尉の仰る通り、敵機は俺達を恐れて逃げ帰ったわけではなさそうですな。むしろ俺達は…いや、この艦隊そのものが相手にされていないような気がします」

 石井一飛曹の言うことを聞いてから、機銃担当下士官は怪訝そうな表情を浮かべた。

「そりゃこんな輸送艦隊よりも、主力艦隊を叩く方が奴さんだって仕事なんだろう」

「いや、2艦隊はあっちはあっちでもっと激しい攻撃を食らっているんだろう。いくら航法に失敗しても、こんな所まで迷い込んできたにしては敵機の数が中途半端に多すぎる。むしろあの動きは、何かを探して…索敵飛行をしているような感じだったな」

 機銃担当下士官は、更に首を傾けながら、不思議そうな顔で言った。

「主力の第二艦隊でもなければ我が臨時編制の輸送艦隊でもない。おい、奴さん達は一体何を探しているんだ」

「俺に聞くなよ。まぁ明日上がった時にでもドイツ人に聞いてみるさ…」

 既に夕日で茜色に染まりつつある空を見ながら、石井一飛曹は迷惑そうな顔で答えた。

 時間から言えばもう今日の飛行はないはずだった。これから発艦すれば、帰艦は夜中になってしまうだろう。

 水上機を夜間に着水させて艦隊が回収するのは難しかった。

 とりあえずはしばらくは休めるはずだった。


 そこへ、大沢少尉が強引にまとめるかのようにしていった。

「もしかすると独軍は我々の戦力を測り間違えてミスを犯しているのかも知れません。ですが、相手がミスを犯しているときは、こちらも気が付かずにミスを犯しているものです。我々はとにかく出来る限りのことを訓練の時と同じようにするしかありません…ところで、発砲の機会はありませんでしたが、長期間の高度飛行で機銃に異常が発生している可能性もあるかもしれません。特に今回の飛行では高々度から着水まで短時間で行いましたから、内部で結露しているかもしれません。整備は怠りなくおねがいします」

 丁寧な口調だったが、大沢少尉の目は笑っていなかった。

 それに気圧されるように、無駄話を続けていた機銃担当下士官は、慌てて敬礼すると格納を始めていた二機の二式水戦の方に向かっていった。

 その後姿を、石井一飛曹は、ぼんやりと眺めていたが、大沢少尉の鋭い声で我に返った。

「我々もこんな所でいつまでも油を売っている時間はありませんよ。早く飛行隊長に報告しましょう」

 大沢少尉は、そう言うと石井一飛曹の返答も待たずに早足で艦橋へと向かっていた。

 普段の大沢少尉からすれば、忙しい動作だった。

 石井一飛曹はしばらくそれを見送りかけてから、ようやく大沢少尉も疲れていることに気がついていた。

 飛行隊長に早く報告しようというのは、さっさと報告を終わらせて休もうと思っているのかも知れなかった。

 ぼんやりとそう考えてから、石井一飛曹は勢いよく頭を振った。

 疲労のせいだろう、あまり意味のないことばかりが思い浮かんでいた。

 気持ちを切り替えると、先に行く大沢少尉に追いつこうと小走りに上甲板を艦橋に向かっていた。


 しかし、二人の歩みは、艦橋にはいる前に途絶えていた。

 大沢少尉と石井一飛曹は思わず顔を見合わせていた。

 艦橋からは激高した男の声が聞こえていた。

 しばらくお互いの顔をぼんやりと見ていたが、二人は意を決して艦橋へと入った。



 大沢少尉が申告すると同時に、艦橋内から複数の視線が突き刺さった。

 だが、鋭い視線は少なかった。ほとんどのものは、激しい口論に辟易していたようで、突然の闖入者にほっとしたような視線を向けていた。

 どうやら激高しているのは飛行隊長の永少佐のようだった。

 永少佐は頬を紅潮させて、鋭い視線を艦橋入り口に向けたが、大沢少尉の申告を聞くと、戸惑ったような顔で視線を迷わせていた。


 その永少佐と口論していたのは飛行長のようだった。

 しかし、飛行長の方は、永少佐程興奮した様子はなかった。むしろどこか諦めたような顔をしていた。

 飛行長も戸惑ったような顔を二人に見せたが、しばらくしてから困惑したような顔のままで大沢少尉に向けていった。

「疲れておるところをすまんが、航空隊の諸君らにはもう一度飛んでもらわなくてはならなくなった。

 先ほど第二艦隊司令部から連絡があった。有力な敵水上艦隊がマルタ島付近で遊弋しているらしい。今晩にはその艦隊と衝突する可能性が極めて高い。そこで、かねてから用意されていた英軍の夜戦時における艦隊援護用の航空機が飛来することとなった。

 二式水戦隊は、この支援用航空機の護衛にあたってもらいたい」

 平坦な口調で淡々と言い終えた飛行長を、石井一飛曹は思わず睨みつけていた。

 一度は口論をとどめた永少佐も再び飛行長を鋭い目で睨みつけていた。


 交代しながらとは言え、早朝から二式水戦隊は連続して飛行を続けていた。

 浮舟内を増槽代わりの燃料タンクに使用できるために、二式水戦の航続距離が下手に長いものだから、長時間の哨戒飛行を余儀なくされていたのだ。

 それに哨戒高度は自然と高くなるから、長時間の連続飛行が搭乗員に与える疲労は大きかった。

 睨みつけられた飛行長は無言でそっと視線を二人から外したが、艦橋の窓から外を見てはっとして眉をしかめながら視線を落としていた。

 石井一飛曹が飛行長につられて窓の外を見ると、丁度、地中海の水平線に太陽が沈みゆくところだった。


 一人静かにしていた大沢少尉は、落ち着いた声でいった。

「今すぐに発艦したとしても着水は夜間となるでしょう。ですが単座の二式水戦では航法は大変に難しい。陸上から飛来するであろうその支援用機と接触できたとしても、帰艦までの航法は支援してくれないでしょうね。この場合、任務を終えても艦隊に帰投するのは難しいでしょう。艦隊が全く事前想定通りの航路をとり、なおかつ我々が航法を夜間に誤らないことが前提なのですから…」

 そんなことは不可能だった。石井一飛曹は苦虫を噛み潰したような顔になった。編隊飛行とはいえ、単座の戦闘機では航法を確実に行うのは難しかった。

 戦前の太平洋での訓練では、移動しない島嶼部を目標にしたものでさえ失敗することも少なくなかった。

 さらに輸送艦隊はかなりのスピードで移動しているし、夜間でも敵潜水艦を警戒して不随意に航路を変更することもあるだろう。


 二式水戦には、原型となった零式艦戦と同様に洋上での航法支援装置である無線帰投方位測定器が搭載されていたが、潜水艦を警戒するため艦隊は、特に夜間は電波管制態勢に入るから、基地局となる母艦の電波発振は期待できなかった。

 航空機が未帰還となっても戦死は搭乗員だけで済むが、母艦が沈めば千名近い訓練された将兵が失われることになる。

 その損害は比べようがなかった。


 だが、航法以前に、機動する艦隊の近くに夜間着水すること自体がそもそも難しかった。

 これまでの飛行で蓄積した搭乗員や機体の疲労を考えれば、艦隊まで無事にたどり着いても着水に失敗する可能性は低くないのではないのか。

 石井一飛曹は悲観的になって思わず首を振っていた。


 石井一飛曹は、飛行長から目をそらすと、直属の飛行隊長である永少佐に目を向けた。

 さっきまで飛行中だった石井一飛曹達よりも永少佐の方が事情を知っていそうだった。

「援護機と言いますが、機種はわかってるんですか、相手の速力によっては二式水戦では護衛をするのが難しいかも知れませんが

「いや…あまり良くわかっていないようだ。こちらは電波管制中だから聞きなおすわけにもいかんし。その援護機は敵情を察知したとほぼ同時に出撃したらしいのだが…航続距離からすると多発の大型機なのは間違いないから、二式水戦で護衛をするのに追いつかないということはないだろうが」

 どことなく自信なさそうに永少佐がいった。その様子では艦隊の他の誰も詳細はわかっていないようだった。

「その援護機の護衛ですが…英国軍機なら自前の護衛機を出せるんじゃないですか。あるいは我が陸軍機だって駐留しているでしょう」

「英国軍機といってもな…おまえスピットファイヤやハリケーンじゃこの距離じゃ片道飛行すらできんのじゃないのか。零式艦戦なら飛来はできるかもしれんが、滞空時間は殆ど無いだろうな。それに…陸軍さんは今朝から全く姿を見せてこない。本当なら今回の作戦に合わせて一式重爆で航空殲滅戦を行うという話だったが、どうも北アフリカの方で激戦が始まったらしいな」

「マルタ島の爆撃強化と同時にですか、そりゃどうみたって陽動に引っかかったんじゃないですか…」

 永少佐はつまらなそうな顔で答えた。

「どうかな、陸さんからみれば北アフリカが主攻でこっちが助攻と判断したのかもしれん。どっちみち陸軍の戦闘機でもここまで飛んでこれないんだ。結局俺達だけ貧乏くじだ」

「しかし…空母は、第二艦隊の航空戦隊はどうしたんです。あっちの大型空母だったら夜間だって照明を照らしてやれば着艦だって容易でしょう。天下の第二艦隊だったら夜間飛行できるだけの技量優秀者だって多いんじゃないですか」

 疲労のせいかいつもよりもぞんざいな口調になっていたが、長い付き合いの永少佐が気にした様子はなかった。

 もしかすると石井一飛曹と同じように理不尽な状況に苛立っているからかも知れなかった。

 当初の作戦で約束していたはずの援護機もよこさなかったくせに、困難な状況になってから逆に援護の機体を差し出せという第二艦隊司令部に憤りを感じているのだろう。

「夜間に空母を照らして敵潜の襲撃を招くような危険を虎の子の第二艦隊にはおかせんということだろう。本来なら我が輸送艦隊こそ最優先で防衛すべき対象ではないのか。本艦や他艦が輸送する物資がなければマルタ島は成り立たんところまで追い詰められているというのに…」

 さすがにそこまで言ったところで永少佐は、我に返って気まずそうな顔で視線を逸らした。

 思わず艦隊司令長官まで批判しそうになっていたが、本来飛行隊長のような戦闘幹部が口にしていい言葉ではなかった。

 二人だけで話していたつもりだったが、いつの間にか艦橋内に聞こえる程の声になっていたようで、広いとはいえない艦橋は静まり返っていた。


 それまで押し黙って艦進行方向を見つめていた艦長である伊藤大佐が口を開いた。

「搭乗員諸君らには申し訳ないが、戦艦部隊による水上砲戦の結果如何ではマルタ島救援そのものの意義が失われてしまうかもしれん。第二艦隊司令部とてその水上砲戦の重要性は認識しているはずだ。その英国の支援機というのはよくわからないが、夜間にエジプトから飛ばすくらいだから戦局に変化をもたらすだけのものなのだろう。

 その護衛なのだから第二艦隊司令部としても十分に考えたはずだ。我が艦隊に出撃命令が下ったのは、第二艦隊が戦力を温存したからではなく、むしろ彼らが出撃できない状況にあると考えるべきだ。第二艦隊の状況は詳細まではわかっていないが、援護機が飛来しなかったことを考えても相当の苦境に立たされていたはずだ。

 未確認だが、複数の空母が戦線を離脱したとの情報もある。第二艦隊の損害は少なくないようだ。だがこの夜戦を回避する訳にはいかない。有力な敵艦隊がマルタ島周辺を遊弋したままでは作戦は失敗する。

 済まないが搭乗員諸君の命をもらう」

 そう言うと、伊藤大佐は、真摯な態度で永少佐と石井一飛曹に向かって深々と頭を下げた。

 艦長から思いがけず頭を下げられた永少佐と石井一飛曹はあたふたとしながら慌てて敬礼した。

 伊藤大佐は、これまで小型の呂号潜や潜水母艦などの支援艦の艦長をこなしてきた経歴の持ち主だった。

 どちらかと言えば裏方の、しかも海軍軍人の経歴の殆どを洋上で過ごしてきた伊藤大佐は、部下思いで知られていた。

 その大佐からここまで言われては永少佐も石井一飛曹ももうなにも言うことは出来なかった。


 粛然となった日進の艦橋だったが、海図台の近くからのんびりとした場違いな声が聞こえてきた。

「我々の目的地ですが…いっそのことマルタ島に変更してはどうでしょうか」

 永少佐や石井一飛曹が慌てて振り返ると、大沢少尉が台上のマルタ島周辺を示した海図を見つめたまま続けていった。

「随時進路を変更する艦隊の現在位置を、遠距離から連絡なしで把握するのは不可能でしょう。推測値が大きくなって帰還時に邂逅できない可能性は低くない。しかし、移動しないマルタ島ならば、その時点での現在位置さえ確認していれば到達はさほど難しくないでしょう。その点は支援に飛来する大型機と離れるまでは正確な航法が期待できると考えましょう。

 それに、灯火管制はしているでしょうが、敵軍に位置を隠すことの出来ないマルタ島であれば航法支援用の電波発振や探照灯の照射を依頼することもできる。どのみち我が輸送艦隊も明日にはマルタ島に到着予定なのですから、島に先行すると考えればいいでしょう。

 これならば航法に失敗して人員機材を喪失する可能性を低減できるかと思いますが、いかがでしょうか」

 永少佐と飛行長は、相手の様子をうかがうように微妙な視線の探りあいをしていたが、しばらくしてから永少佐が伊藤大佐に向き直ると頷いてみせた。

 伊藤大佐も力強く頷くといった。

「では、飛行長と飛行隊長は飛行士の案で飛行計画を直ちに策定するように。整備長には、万全の態勢で送り出せるように二式水戦の整備を進めてくれと伝えてくれ」

 伝令が上甲板か格納庫にいるはずの整備長を呼び出し、飛行長と永少佐は一斉に敬礼すると、今までの険悪な雰囲気など忘れたかのように慌ただしく艦橋を飛び出していった。

 急に慌ただしくなった艦橋の雰囲気についていけずに石井一飛曹がぼんやりしていると、大沢少尉が肩をたたいた。

「我々の任務は決まりました。あとは個々にいてもしょうがありません。飛行計画は飛行隊長にお任せするとして、我々は発艦まで休むとしましょう」

 石井一飛曹は、慌てて頷くと大沢少尉に続いて艦橋を出ようとしたが、何となく海図台で視線が止まっていた。

 自分たちが護衛するという支援機とは何なのか、いまさらにそれが気になり始めていた。

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