1944特設水上爆撃隊5
日本海軍が大型潜水艦に関する整備方針を変更したのは最近のことではなかった。少なくとも1930年代半ばには航空関係者にも明らかな形で進んでいたらしい。
勿論、青江二飛曹が海軍に入隊するよりも前の話だから詳細はわからないが、おおよその事情は下士官同士の噂話などで察することが出来ていた。
その頃に実戦形式で行われていた演習などにおいて、艦隊型潜水艦の主任務と考えられていた敵艦隊の襲撃が実際には困難であるという認識が生まれていたらしい。
潜水艦部隊は、その行動に秘匿された部分は少なくないが、仮想敵となった水上艦隊側の認識もそのようなものだったようだ。
艦隊型潜水艦である海大型の索敵能力の低さはそれまでにも認識されていた。艦型の小さな潜水艦の艦橋は低く、艦橋の見張員が視認できる距離は極短いものでしか無かったからだ。
それに索敵線を形成したとしても潜水艦一隻が担当する範囲は広大なものとなるし、そもそも潜航中の潜水艦同士が密に連絡を取ることも難しいから、必然的に単艦行動が多くなり、水上艦隊のように効率よく捜索を分担するのも難しかった。
しかも仮に首尾よく敵艦を発見したとしても潜水艦が実際に襲撃をかけるのは難しかったようだ。演習では、潜水艦が金剛型戦艦からなる戦隊を発見した場合でも、その後の追尾に失敗した例もあったらしい。
演習に参加した潜水艦が具体的にどれだったのかは分からないが、水上速力を重視した海大型でもその速力は20ノットを超える程度でしか無かった。
それに対して金剛型は逐次装甲、速力の強化を行う近代化改装を受けているために要目の変化が激しかったが、どの状態でも最大速力が25ノットを切ることはなかったはずだ。
勿論、作戦行動中において常に最大速力を発揮していればあっと言う間に燃料切れとなってしまうだろうが、それでも最大速力で5ノットの差は無視できなかった。
日本海軍の想定では、敵艦を探知した潜水艦は高速が発揮できる水上航行を駆使して密かに追い抜かしながら理想的な射点で待ち伏せをかける事になっていた。だが、よほどの僥倖がない限り実際には高速で機動する敵艦を追尾するのは難しかったのだ。
仮想敵となる米海軍には金剛型よりも高速のレキシントン級巡洋戦艦が配備されていた。軍縮条約締結時に未だ建造中であったレキシントン級はレキシントン、サラトガの二隻のみが就役していたが、その砲力は長門型と同級の16インチ砲連装4基計8門と言う極めて有力なものだった。
その速力も駆逐艦並みに30ノットを超えるというから、日本海軍ではレキシントン級2隻が暴れまわった場合、金剛型4隻全てを投入出来たとしてもでも刺し違える覚悟が必要ではないかと想定していた。
米海軍の偵察艦隊は、主力となる大型巡洋艦にレキシントン級巡洋戦艦を加えたものと考えられていた。そのような高速艦隊の自由を許した場合、連合艦隊は敵主力艦に戦力を集中できずに各個撃破されてしまう可能性もあったが、艦隊型潜水艦ではこれを抑え込むのは難しかった。
米海軍のバラクーダ級潜水艦のように大型化と同時に大出力の蒸気タービンでも搭載すれば速力の向上も図れるかもしれないが、日本海軍では友邦英海軍での実績などからも潜水艦主機としては蒸気機関は不利点が多すぎると判断していた。
原理から全く異なるような画期的な機関でも発明されない限り、機関の点からは潜水艦の速力を抜本的に向上させるのは難しそうだった。
従来想定されていた艦隊型潜水艦戦策の困難さが確認される一方で、潜水艦自体の性能向上は著しかった。主機であるディーゼル機関は出力はともかく信頼性は向上していたし、艦体もより強固な構造材の採用で最大潜水深度なども強化されているらしい。
それに進化していたのは機構上のことだけではなかった。二酸化炭素吸収剤や空調設備といった居住性や潜航中の環境改善策が逐次強化されていったらしい。
青江二飛曹自身は潜水艦勤務となったことはないが、零式小型水上機の操縦員となった同期から聞いたことがあったのだ。
しかも、大型の伊号潜であれば軍医の乗艦も珍しくないらしい。だが、これは異例のことだった。
青江二飛曹達の母艦である足柄にも軍医は乗艦しているが、重巡洋艦である足柄は乗員も千名弱になる大艦であるのに対して、伊号潜は航空機搭載能力を付加された甲型に戦隊司令部が乗艦してもようやく百名を超える程度でしか無かった。
異例なのは艦の規模だけではなかった。巡洋艦は正規の軍艦であるために唯一隻でも所轄となるのに対して、潜水艦や駆逐艦は数隻が集まった潜水隊や駆逐隊単位になってようやく所轄となるから、格の上でも大きな差があることになる。
だから通常は駆逐艦などには看護兵か看護下士官が乗艦するだけで、隊司令が乗り込む艦にだけ軍医が同乗していた。
これは潜水艦が優遇されているというよりも、長距離航行が基本となる巡洋潜水艦では、他艦の支援が得られない過酷な単独行動が多くなるために、特例として軍医が乗艦していると考えるべきなのだろう。
逆に考えれば、日本海軍は軍医の乗艦が必要なほどに、巡潜は単独長距離航行が可能だと考えているということではないか。
その証拠として30年代半ば頃から巡潜型の整備が本格化する一方で、戦策の不備が疑われた海大型の建造は中断していた。艦隊型潜水艦の整備が完全に途絶えたわけではないが、主力はより小型の呂号潜である海中型に移行しているようだった。
ただし、この潜水艦の整備方針がどれだけ大淀の設計変更に寄与しているのかは明確ではなかった。建造計画が持ち上がった時期からすると、むしろ大淀の偵察能力増強は支援対象の潜水艦が海大型からより艦型の小さい海中型に変更されたことがきっかけなのかもしれなかった。
そのような推測が正しいとなると、大淀の指揮艦としての改装は高速水上偵察機の実用化に失敗したためとも考えられなくもないが、単に海中型の支援が目的であれば、瑞雲や零式水偵などの既存の水上偵察機を搭載するという手段もあったはずだった。
確かに噂されていた高速機ほどの能力は期待できないにしても、胡乱げな主浮舟の投棄などという新基軸などは搭載していないのだから実用性や整備性では上回っていたはずだ。
あるいは、高速水上偵察機の実用化までの間だけでも既存機の搭載に甘んじるという手もあったのではないか。
もっとも、日本海軍が高速水上偵察機の開発を継続するとはもはや思えなかった。というよりも、すでに日本海軍には高速偵察機が就役していたのだ。
ただし、それは噂されていた水上機ではなく、通常の陸上機と同じ形状の艦上機である43式艦上偵察機、彩雲だった。
43式艦上偵察機は昨年に正式採用された機種だったが、巡洋艦搭載機に乗り込む青江二飛曹が同機を目撃した回数は少なかった。
国際連盟軍によるローマ上陸作戦のあとに配備が行われていたために、今回のニースへの上陸が大規模な戦闘への投入としては初になるという事情もあったが、それ以上に各航空戦隊に配備された数が少ないようだ。
艦上機としては専用の偵察機というのは他に例がないかもしれなかった。陸上機まで含めても、その数はそれほど多くはないのではないか。通常は高速の戦闘機や爆撃機などを転用して兵装の代わりに写真機などの偵察機材を搭載した改造機とすることのほうが多かった。
しかし、日本陸軍では中距離偵察機である軍偵察機は襲撃機の派生型であったが、長距離偵察機である司令部偵察機は全く新規の偵察専用機として設計されていた。
陸軍のことは良くは分からないが、海軍が運用能力を奪うために初撃における急降下爆撃で低空母の飛行甲板を狙うのと同様に、陸軍航空隊も敵空軍航空基地を襲撃して敵機が在地の間に撃破する航空撃滅戦を重要視していた。
どうやら司令部偵察機は本来はその航空撃滅戦を行うための機材らしい。敵地に長駆侵攻して航空基地の状況を把握するのが司令部偵察機の任務だからだ。
だが、警戒の厳重な敵航空基地の偵察には危険が伴っていた。最近では敵味方ともに電探を使用するのが常識化していたから、長距離から存在を暴露されて迎撃を受けてしまうからだ。
そのために偵察機には敵迎撃機を振り切るために高速性能や高々度飛行能力が要求されるようになっていた。英国などが戦闘機を偵察機に転用しているのは、元々戦闘機が高速の航空機であったからだろう。
しかし、高速性能と高々度飛行能力を兼ね揃えるのは単発単座の軽快な戦闘機の転用では難しかった。それに乗員の少ない戦闘機転用機では、航法や写真機の操作にも専念出来ないではないか。
短距離の敵前線部隊を目標とした戦術偵察ならばともかく、後方の敵基地への偵察飛行を成功させるには、高速性能と高々度飛行能力、それに航続距離を高い次元で両立させた専用設計の機体が必要不可欠だったのだろう。
そうして開発された司令部偵察機は、陸軍航空隊、それも相当の上級司令部に直属する独立飛行中隊などに配備が進んでいたが、その一部は海軍航空隊でも運用されていた。
両軍の航空隊関係者の面子などを無視したとしても、戦闘機や各種攻撃機などの生産数が多い機種の場合は、製造業者の生産体制などから海陸軍の使用機種を統合するのは難しかった。
仮に強行したとしてもどの業者でも両軍を満足させるだけの数をまとまって製造するのは難しいだろう。かといって複数の業者に単一の機種の生産を発注するのも難しかった。どの会社も独自の治具や生産工程を有しているから、完全な互換性を維持することは出来ないからだ。
少数生産で同型艦でも多少の設計変更が常識的であるような艦艇ならともかく、航空機ではこの問題は無視できなかった。
それに、同じ戦闘機であっても海陸軍では要求する性能が異なっていた。単に能力が違うというわけではない。予想される戦域が異なるものだから、何を優先すべきか、そこからして両軍の思想は異なっていたのだ。
しかし、元々生産数の少ない長距離偵察機であれば、海陸軍の共用機としても問題が少なかったのだろう。あるいは、高速性と航続距離という長距離偵察機に関する性能面での要求に関しては海陸軍で一致していたということかもしれない。
こうして海陸軍共用機種となった司令部偵察機だったが、海軍としては問題が1つあった。当然のことながら司令部偵察機は陸上基地から運用する機種だったから、空母の甲板上で運用するのは不可能だったのだ。
機体の規模はそれほど大きな問題では無かった。従来の小型の空母ならばともかく、最近の日本海軍の正規空母は大型化していた。艦の寸法で言えば巡洋戦艦を原型とした天城型と変わりなくなっていたのだ。
実現はしなかったようだが、陸上攻撃機を空母搭載機とする計画もあったらしい。流石に大型の陸攻を着艦させるのは難しいが、発艦試験そのものは成功していたらしい。
おそらく、陸攻を搭載する際は発艦のみとして一度限りの攻撃に使用するつもりだったのではないか。通常の艦載機よりも格段に航続距離と打撃力の大きな陸攻の艦載運用は場合によっては敵艦隊の不意をついて遠距離からの先制攻撃をかけることで大きな戦果を上げることが出来るかもしれなかった。
結局は運用上の支障が問題となって計画案のみで終わったらしいが、それほど荒唐無稽な案ではなく、真剣に実験まで行われていたようだ。
それに、海軍では双発機である艦上哨戒機東海の運用がすでに行われていた。陸上機を原型として艦上機に改設計を行ったこの機体の規模は単発単座の戦闘機どころか、艦上攻撃機などと比べても大きかった。
この点だけを見れば、司令部偵察機でも艦上運用は不可能ではなさそうに思えるが、現実には同様の性能を持つ専用の艦上偵察機である43式艦上偵察機が別個に開発されていた。
レキシントン級巡洋戦艦の設定は下記アドレスで公開中です
http://rockwood.web.fc2.com/kasou/settei/ccrexington.html
バラクーダ級巡洋潜水艦の設定は下記アドレスで公開中です
http://rockwood.web.fc2.com/kasou/settei/sfbarracuda.html
哨戒機東海の設定は下記アドレスで公開中です
http://rockwood.web.fc2.com/kasou/settei/q1w.html