1944特設水上爆撃隊4
第6艦隊として実質的に潜水艦隊として所属部隊を纏められていた日本海軍の潜水艦は、練習艦や小型艦を除くと大きく2系統に分かれて整備されていた。
敵艦隊根拠地や泊地への長距離偵察や通商破壊作戦を実施する巡洋潜水艦、巡潜と、艦隊主力に随伴して敵艦隊への雷撃を行う艦隊型潜水艦である海軍大型潜水艦の二種類だった。
この二種類の潜水艦は、投入される作戦から要求される要目も異なっていた。
大雑把に言えば巡潜型は速力よりも敵地周辺まで進出するのに必要な航続距離や居住性などを重要視されており、海大型では逆に航続距離よりも敵主力艦の追尾、襲撃を行うのに必要不可欠な速力、特に水上速力向上が求められていた。
従来、日本海軍が潜水艦整備の主力としていたのは、潜水可能な駆逐艦か魚雷艇とも言える海大型だった。対米戦の基本計画を漸減邀撃作戦とする限り、敵主力艦への襲撃が可能な艦隊型駆逐艦は必要不可欠だからだ。
それに、特異な小型水上偵察機といった搭載機の開発などが進められていたものの、以前は海大型と比べて巡潜型は整備が難しい艦艇でもあった。構造や搭載機材といった技術的な問題ではなく、それ以前に巡潜型の使用目的の設定が曖昧だったのだ。
より具体的に言えば、一体巡潜型をどこに投入すればいいのか、それ自体が不明瞭だった。
この時期、太平洋側に展開する米海軍の拠点は限られていた。米本土の西海岸や大陸の東西を繋ぐ一大海路網の結節点であるパナマを除けば、フィリピンにしか存在しないといってもよかったのではないか。
近年になって整備が進んでいると言われるグアムやミッドウェーといった太平洋に点在する島嶼もあったが、陸地の規模からしても米本土とフィリピンを結ぶ中間結節点としての機能しか無いと判断されていた。
それに、グアムの場合は日本海軍も駐留するトラック諸島が近海にあったし、より小規模なミッドウェーは同じくハワイ王国との距離が近かった。
近代化の進むハワイ王国は、日米双方に与しない中立の立場を保っていたが、王家には19世紀末に日本帝国から皇族が嫁いでおり、以前に米国からの移民による政変未遂なども起きていたことから概ね日本帝国には好意的な立場にあった。
太平洋の中央部という手頃な距離もあってか、日本海軍もしばしば演習艦隊の寄港などでハワイ王国を訪れることも多かった。
そのような状態にあるものだから、少なくとも平時においてはミッドウェーやグアムといった小規模な根拠地を監視する必要性は薄かった。
フィリピンに至っては、最短距離では日本領の台湾とは目と鼻の先なのだから、わざわざ航続距離に優れた巡潜型を派遣するまでもなかった。
そうなると巡潜型が目指すべき敵根拠地は一気に離れて米本土西海岸ということになるのだが、これは格段に難しかった。米本土近海は厳重な対潜網が敷かれていることが予想されているのに加えて、航続距離や莫大な量となる各種消耗品の搭載といった機材面の問題も少なくなかった。
このような問題があった巡潜型に対して、敵主力を襲撃することが求められていた海大型は戦術的に見てもわかりやすい艦艇だったのだ。
潜水艦を集約させた第6艦隊の旗艦として計画されていた大淀型軽巡洋艦が支援するはずだったのもこの海大型だった。高速水上偵察機を多数搭載することで広大な偵察範囲を確保して敵主力艦隊を捕捉、この情報を指揮下の海大型に提供して襲撃を行わせるのだ。
このような想定にあったものだから、大淀型軽巡洋艦の艦自体の打撃力には全く期待されていなかった。対空火器も主砲もあくまでも自衛用のものであり、むしろ偵察の要である本艦が戦闘に巻き込まれるのはできれば避けたい事態だった。
噂では、大淀型軽巡洋艦の初期計画の中には蒼龍型空母を小型化したような飛行甲板を持つものもあったらしい。それくらいならば空母を増産したほうがましに思えるが、それだけ艦固有の戦力よりも搭載機である偵察機の方が重要視されていたということなのだろう。
しかし、その大淀型軽巡洋艦は砲兵装こそほとんど変化がなかったものの、巨大な格納庫を改装後の鳥海に準じた指揮所や各種電探、司令部要員居住区などに充当させた旗艦用の艦艇として就役していた。
本来は翼面荷重の小さな高速水上偵察機を連続して射出するために長大な射出機を搭載するはずだった空間には、申し訳なさそうに縮こまるようにして従来型の射出機に搭載された零式水上偵察機が鎮座していた。
ただ1機の搭載機となった零式水上偵察機は、本来の偵察機として配備されたわけではなかった。単に三座の使い勝手の良い連絡機として搭載されただけだ。
青江二飛曹は何度か大淀の周辺を飛行したことがあったが、格納庫を追い出された零式水上偵察機が、天蓋すらない吹きさらしの空間に侘びしく佇んでいるように見えて、何やら虚しくなったのを覚えていた。
大淀型軽巡洋艦に搭載されて、第6艦隊の目となるはずだった高速水上偵察機に至っては艦隊に就役すらしなかった。少なくとも、大淀が就役してから1年以上が経っても姿を拝むことはなかった。
おそらく表向きは搭載予定だった艦がなくなったことから開発そのものが中止されたのだろう。実験機などとしてはともかく、この状況で実用機として就役するとは思えなかった。
この様子では、青江二飛曹が乗り込む瑞雲が日本海軍最後の水上偵察機となるのではないか。
大淀型軽巡洋艦が今のような姿で就役したのにはいくつかの理由があった。この時期に改装後の鳥海のような卓越した指揮能力と機動性を併せ持つ艦隊指揮用の艦艇が求められていたのは事実だが、それが主因とは思えなかった。
単に旗艦用艦艇がほしいのであれば、鳥海を継続して使用すればいい話だった。
ところが、鳥海はシチリア島上陸作戦で損傷を負った後は、イタリア半島ヘの上陸作戦においては強襲分艦隊、今度のニースへの上陸においては巡洋艦分艦隊と、いずれも第1航空艦隊全体ではなく、その指揮下の分艦隊旗艦へと転用されていた。
一見するとこれは旗艦としての鳥海が格下げされたように思えるが、実際には改装後も雷装こそ喪失したものの、鳥海が無視できない火力を保持し続けていることをシチリア上陸作戦で証明したからという声もあった。
イタリア本土上陸の際に編成された強襲分艦隊は、名前こそ厳しいものの、実際には支作戦であるタラント軍港の奪取を行うために急遽編成された日英混成の特設部隊だったらしい。
その性質上分艦隊は上陸部隊の乗艦と上陸後の火力支援の両立が求められていたから、旗艦設備を持つために相応の艦内容積と上陸時の管制が容易な鳥海は分艦隊旗艦としてうってつけだったのではないか。
その後の巡洋艦分艦隊への配備も、空母の護衛から艦砲射撃まで縦横無尽に活躍する分艦隊を管制するのに旗艦能力の高さが評価されると共に、場合によって分艦隊の先頭に立って戦闘に投入する事もできたからなのだろう。
逆に言えば、大淀が第1航空艦隊の旗艦に選択されたのは、指揮能力の高さもあるのだろうが、指揮下の分艦隊から一方後ろに下がる艦隊司令部の性格を示しているのではないのか。
過剰な火力を持たず、かといって指揮下の分艦隊とともに行動が可能、その微妙な要求を満たしていたのが大淀だったのだろう。
もちろんだが、状況からして大淀が元々第1航空艦隊の旗艦として計画されたとは思えなかった。就役時期からしても、初期計画から艦隊指揮艦に変更された時期と鳥海が旗艦を離れた時期とは釣り合わないのだ。
実は、元々大淀はより上位の連合艦隊の旗艦として運用される予定だったらしい。
これまで連合艦隊の旗艦は、伝統的に第1艦隊の旗艦を兼ねて最新鋭の戦艦が指定されていた。
現在のように巨大化する以前の連合艦隊は、第1艦隊が戦艦を集成した部隊となる一方で、第2艦隊はこれを高速力を持って援護する装甲巡洋艦、巡洋戦艦といった高速艦艇の部隊だった。
日露戦争の頃であれば、外線部隊のすべてがそれで事足りていた。戦策も単純なものだった。有力な第1艦隊が敵艦隊を抑えている間に、機動力にまさる第2艦隊が迂回挟撃を行うというのだ。
そのような状況であれば、総指揮官である連合艦隊司令長官がすべての状況を把握できる第1艦隊旗艦に座乗するのも当然のことだったのだろう。
だが、伝統となっていたそのような配置は現状では不条理なものとなっていた。かつてのように連合艦隊が単なる戦闘部隊ではなくなっていたからだ。
今次大戦が開戦する直前の段階でも、連合艦隊には第1、第2、第3というそれぞれ戦艦、空母、巡洋艦と水雷戦隊を集成した主力部隊の他に、南洋を担当する第4艦隊、北方を担当する第5艦隊という警備艦隊、さらには潜水艦を集成した第6艦隊が編入されていた。
編入されたのは水上艦隊だけではなかった。第4、第5艦隊にも小規模な航空隊が付属していたのだが、それ以外にも主に本土に駐留する陸上攻撃機やこれを援護する戦闘機、索敵用の飛行艇などを集中させた第11航空艦隊という巨大な航空戦力まで連合艦隊に含まれていたのだ。
このように性質が異なり、しかも平時から広大な地域に展開する戦力すべてをただ一隻の戦艦の司令室から管制するのは困難だった。通信1つとってもより設備の整った陸上施設の支援がなければ難しいのではないか。
それに、現在の日本海軍では戦時ともなれば第1航空艦隊のように地球の反対側まで部隊が出動することも稀ではないのだ。
このような状況から、以前より連合艦隊司令部の移設は計画されていたらしい。だが、これまでの伝統から言っても安易に陸上に移動するのも難しかった。それで司令部施設がより整った大淀に連合艦隊旗艦を変更するという案が挙がったのではないか。
結局、連合艦隊司令部が大淀を旗艦とすることはなかった。それまで旗艦に指定されていた戦艦長門から降りた司令部は、現在は横須賀鎮守府の一角に置かれているらしい。
東京の海軍省や陸軍参謀本部などにもほど近く、また鎮守府用に整えられていた各種通信施設などが併用出来るかららしいが、それが永続的なものになるのかどうかは、青江二飛曹にはわからなかった。
現在は日本海軍は第1航空艦隊を始めとする前線部隊だけではなく、インド洋から大西洋に至る広大な海域で行動する船団護衛部隊や同地域に展開する陸戦師団を含めた部隊の指揮権までも海陸軍共同の遣欧統合総軍に委ねていたとしても、連合艦隊司令部の事務量は莫大なものになっているはずだった。
その一方で当座連合艦隊が戦闘の指揮をとることはありえないから、専用の旗艦を充当する必要性は薄いと考えられたのではないか。
おそらく、その時に丁度損害復旧工事のために戦線を離脱した鳥海の代艦となる第1航空艦隊の旗艦が必要となっていたのだろう。それで就役したばかりの大淀が欧州まで回航されてきたとすれば辻褄が合った。
だが、連合艦隊司令部ではなく第1航空艦隊の旗艦となるにしても、この時点で大淀には潜水艦隊旗艦として就役する計画がなくなっていたということになるはずだった。
本来の、高速水上偵察機を縦横無尽に駆使して広域捜索を行う潜水艦隊の目としての大淀の初期計画はどの段階で放棄されたのか。それが青江二飛曹には気にかかっていた。
噂にあった高速水上偵察機の開発失敗がその理由だったのか、それとも逆に大淀の計画変更が水上偵察機の開発を中止させることとなっていたのか、そのどちらかだったのかが知りたかったのだ。
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