1944特設水上爆撃隊3
第1航空艦隊司令部の固有のものとしては、軽巡洋艦大淀は三番目の旗艦だった。
単に遣欧艦隊と呼称されていた当初から艦隊旗艦とされていたのは、航空母艦である天城だった。ただし、天城が旗艦に選択されたのは積極的な理由があってのことだとは思えなかった。
元々、遣欧艦隊が編成されたのは、今次大戦勃発後に欧州全土で発生したユダヤ人難民問題に対処するためだった。
ユダヤ人の排斥を訴えるドイツによって席巻された欧州各国から、半ば追放される形でユダヤ人達がヴィシー・フランス領であるマダガスカル島に移送される事になり、これを国際連盟の難民問題機関からの要請という形で当時は中立という立場だった日本帝国が護衛戦力を派遣することとなっていたのだ。
そのような事情で編成された遣欧艦隊は、空母部隊である第2艦隊から抽出された航空戦隊を中核としていた。当時の事情はよくわからないが、交戦国のドイツをさほど強く刺激せず、かと言って侮られない程度の戦力であり、なおかつあらゆる事態に柔軟に対処可能な戦力と判断されたのではないか。
護衛戦力には巡洋艦部隊としてすでに再編成されていた第3艦隊の他に、主力である戦艦部隊とされる第1艦隊からも配属された部隊があったが、それも当初は旧式化した金剛型で編制された戦隊ばかりだった。
そのような急造の部隊だったから、初期の遣欧艦隊の旗艦として主力である航空戦隊の旗艦でもあった天城が選択されたのだろう。
だが、旗艦としての天城は早々に能力不足を顕にしていたはずだった。
ユダヤ人移送の護衛を建前としてた遣欧艦隊だったが、旗艦天城を始めとする艦隊主力は、最終目的地であるマダガスカル島までユダヤ人達を載せた船団に同行してはいなかった。
紅海まで船団を送り届けた艦隊は、少数の護衛隊に後を任せて地中海に取って返していたのだ。それどころか、新たに編成された国際連盟軍への派遣という形で正式に参戦した日本帝国は、実働部隊となる遣欧艦隊に大規模な増援を送り込んでいたのだ。
地中海戦線に投入された遣欧艦隊は、対地攻撃などに従事すると共にマルタ島を巡る幾度かの攻防戦に投入された。しかし、その終盤に行われた夜戦において遣欧艦隊の指揮能力は飽和することになってしまっていた。
あとから考えれば、その夜戦は地中海戦線の趨勢を左右する決戦となっていたと言っても過言ではなかった。タラントに集結していた独伊仏の枢軸連合艦隊と、日本海軍遣欧艦隊を中核として英国海軍の増援を受けた国際連盟軍艦隊が正面から衝突していたからだ。
この戦闘では結果的にマルタ島を最後まで保持し得た国際連盟軍側が勝利したといってよかったが、その過程において犯した齟齬によって日本海軍が被った損害は少なくなかった。
原因はいくつもあった。水雷襲撃が不調に終わったことや、堅甲なシチリア島の航空基地に無理攻めを行ったことなどだ。
しかし、この時の日本海軍にとって最も重要な戦訓となったのは、大規模戦闘における柔軟な指揮系統の確立だった。それまでの第1航空艦隊の艦隊司令長官に全ての部隊の指揮権限が過度に集中する態勢から、中間結節点となる分艦隊司令部を設けたのはこの戦訓を受けてのことだった。
指揮系統の強化は分艦隊司令部の創設だけでは終わらなかった。前線部隊の指揮権を移譲したとしても、指揮下部隊の数が減るわけではないのだから、参謀や事務に当たる下士官兵などの司令部要員の増員は必要不可欠だったのだ。
だが、それまで旗艦を務めていた天城には増員された司令部要員を追加で乗艦させる余裕はなかった。
日本海軍に限らず、航空母艦の多くは飛行甲板の面積を増大させて発着艦の効率を高めるために、島型の艦橋は甲板の隅で縮こまるように小型化されていた。
そのような艦橋に数多くの司令部要員を収容するのは難しかったのだ。
天城型空母は、軍縮条約で保有を制限された巡洋戦艦を転用した巨艦だったから、艦内に分散すれば司令部要員全員を収容するのは難しくなかったのかもしれない。
しかし集中して配員されなければ単一の司令部として十分な機能を発揮することは出来ないし、無理にそんな空間を既存の艦に捻出すれば今度は戦闘力を低下させることにつながるはずだった。
それに、司令部要員の人数とは関わりなく、この頃は空母という艦種に対して旗艦としての能力を問う声が多かった。小さな島型艦橋しか備えない空母では、急速に発展する各種電探を装備する空間を捻出できなかったのだ。
通常の無線用の空中線でさえも制限が多かったから、通信を取りこぼすことも少なくなかったのだ。
結局、増員された第1航空艦隊司令部は、それまで旗艦を務めていた天城を新設された航空分艦隊に譲り渡すこととなった。
天城が配属されていた第1航空戦隊は、僚艦である赤城をドイツ空軍の急降下爆撃機に撃沈されていたから、これ以上旗艦としての機能を集中させて戦隊の戦力を低下させるわけには行かなかったのだろう。
天城に代わって第1航空艦隊の旗艦とされたのは、重巡洋艦鳥海だった。
高雄型重巡洋艦の三番艦として就役した鳥海には、元々旗艦用の設備が充実していた。同級が巡洋艦群及び複数の水雷戦隊からなる大規模な夜襲部隊の指揮を取ることを狙っていたからだ。
軍縮条約によって仮想敵である米国海軍に劣勢を強いられる事になった日本海軍は、主力艦同士の決戦の前段階に陸上、艦上機部隊による空襲、潜水艦隊による組織的な襲撃などを組み合わせて敵艦隊の戦力を削ぐという漸減邀撃作戦を立案していた。
その中でも強力な魚雷攻撃を実施する水上雷撃部隊には大きな期待がかけられていた。水雷戦隊の主力である駆逐艦は千トンを超える程度の排水量しかないのだが、雷撃が命中さえすればその数十倍の排水量の戦艦をも撃沈できるかもしれなかったからだ。
不利な戦力比を覆そうとする日本海軍にとって雷撃とは非常に魅力的な選択肢だったのだ。
その水雷襲撃を実施するにあたって、日本海軍は斉射本数の増大や敵艦隊指揮の混乱などを狙って多方向からの同時襲撃を行う予定だった。
水雷戦隊と共に夜襲戦力に組み込まれた重巡洋艦、大型軽巡洋艦の役割は、自らの雷撃によって敵艦隊を狙うことだけではなく、火力でもって護衛艦艇の警戒網をこじ開けて水雷戦隊を敵主力まで送り出す役割も担っていた。
しかし、既存の重巡洋艦を旗艦としてそのように複雑な襲撃機動を統制するのは難しかった。戦闘能力を最優先として設計された高雄型以前の重巡洋艦は、被弾率の低下などを狙って艦橋が小型化された結果、旗艦として用いるには十分な容積が無かったからだ。
高雄型重巡洋艦が巨大な艦橋を備えて就役したのには、夜襲部隊の大規模化によって生じた統制能力向上の要求があったからだったのだ。
高雄型重巡洋艦の旗艦能力は、水雷戦隊を指揮下に治めた巡洋艦部隊を統制するには十分なものだったが、巨大化した第1航空艦隊を統率するにはまだ不十分なものだった。
そこで、鳥海はマルタ島攻防戦で被った損害復旧工事を行う際に、魚雷発射管の撤去など打撃力低下と引き換えに上部構造物追加による収容人数の追加や通信能力を向上させるための通信指揮所の増強などが行われており、さらなる旗艦能力の獲得を行っていた。
実は、この時第1航空艦隊の旗艦には旧旗艦である天城を別にしてもいくつかの選択肢があった。
その中では、収容能力は十分なものが確保できるものの、新たに配属された常陸型を始めとする戦艦を旗艦とする案は、早々に流れていた。
地中海戦線の実情から戦艦群には上陸支援などのために対地砲撃の機会が多くなるが、そのような任務についている場合は海岸線に固定されているようなものだから航空戦隊を含む多様な部隊の統率を一手に担うのは難しかったのだ。
旗艦候補の中には指揮統率能力に特化したものもあった。特設巡洋艦興国丸だった。優良船の建造に当たって資金援助が行われる優秀船舶建造助成を受けて大阪商船が発注した報国丸型貨客船は、開戦にともなって海軍に徴用されていた。
他の同型船が若干の砲兵装や水上機を搭載したのみの特設巡洋艦としてもっぱら長距離護衛艦艇として運用されたのに対して、徴用された時点でまだ船台上にあった興国丸は初期計画時に含まれていなかった新たな概念の指揮所を設けられていた。
近年になって急速に発達していた各種電探などから得られた情報を集約すると共に、指揮官に図示して提供することで客観的な視線が得られるようになっていたのだ。
この指揮所の概念は海上戦闘ではなく、電探で得られた情報をもとに効率よく指揮を執ることで、数少ない友軍機を最大限有効に運用してしのいだという英国本土防空戦で得られた戦訓をもとにしたものだった。
英国空軍の防空指揮所には、電探基地や目視、聴音など手段を問わない監視網や自軍航空基地からの情報をもとに、数々のランプや模型で戦域が再現されていた。そのように高度に情報が集約されて客観的に示されていたからこそ、指揮官は冷静に部隊の指揮をとることが出来たのだ。
勿論、防空指揮所の機能を保つには柔軟性を持った高度な通信網の確保が必要不可欠だった。どんなに指揮所の機能が優れていたとしても、入力される情報が誤っていればそれを生かせないからだ。
だが、元々広大な英国本土南部を防衛するために陸上に設けられた指揮施設を艦上に再現するのは無理があった。
ある程度の簡略化があったとはいえ、興国丸に指揮所が設けられたのは、原型が長距離貨客船であるために上部構造物内に本来客室や各種公室として使用されるはずだった十分な面積の空間を確保出来たからだ。
しかし、特設巡洋艦である興国丸はともかく、正規の戦闘艦としては最大級の艦艇である戦艦や空母でもこのような大規模な指揮所を艦内に設けるのは難しいはずだった。
仮に設置したところで戦闘能力、居住性などへのしわ寄せが問題となるのではないか。
それに、興国丸の船団護衛部隊への編入などで得られた戦訓によって、艦上では陸上の防空指揮所ほどの施設は必須というわけではないこともわかっていた。精密な模型で海上の戦域を再現したとしても、高速で行き交う情報による更新が追いつかなかったのだ。
第1航空艦隊の二代目旗艦となった鳥海には、マルタ島沖での戦闘で被った損害を受けた損害復旧工事を利用して、興国丸の戦訓を反映して戦闘艦に収容できるほど洗練された設計の指揮所が設けられていた。
それが鳥海が旗艦に選ばれた理由だったのだが、実際にはもう少しばかり複雑な事情があったらしい。
単純な指揮能力という点では、各種通信機材や電探を搭載するために専用の発電機まで設けた興国丸の方が高いと言えた。
しかし、興国丸は徴用された商船を原型とする特設巡洋艦でしかなかった。菊の御紋が取り付けられた狭義の軍艦どころか、正規の戦闘艦ですらなかったのだ。
それがいくら指揮能力に特化しているからと言って、特設艦艇が軍艦を顎で使うように指揮を執るのは難しいのではないか。
そのような法制度や面子の問題を無視したとしても、興国丸の原型は軍艦規格ではない商船でしか無いから、被弾時の応急や艦体の防御力には期待できそうもなかった。
それではいくらなんでも多くの艦艇の指揮を執る第1航空艦隊の旗艦としては脆弱に過ぎるのではないか、それに場合によっては敵艦を追い求めて高速で機動する戦艦や空母部隊に旗艦が同行することもありえるのだから、実際には興国丸を艦隊旗艦とするのは不可能だったのだろう。
結局、指揮能力と艦艇としての機動性や防護力を天秤にかけた結果、鳥海が旗艦に選ばれたということらしい。
おそらく、シチリア島への上陸作戦で損害を受けて前線を離れた鳥海に代わって、三代目の旗艦として大淀が選ばれたのも同じような理由だったのだろう。
本来潜水艦隊に情報を提供するための高速偵察機が収められるはずだった巨大な格納庫には、大規模な司令部施設が設けられていたからだ。
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