1944特設水上爆撃隊2
従来、日本海軍は艦載、陸上を問わずに水上機部隊の整備に熱心だった。太平洋に点在する島嶼部を根拠地とする長距離哨戒に従事する大型の飛行艇から、前線の進出から陸上に展開する航空隊の航空基地建設までの間の防空戦闘を行う特異な水上戦闘機まで大小様々な機種が開発されていた。
勿論、青江二飛曹が乗り込む瑞雲のような水上偵察機も重点的な開発対象となっていた。
日本海軍の艦載用水上偵察機は種類が多かった。主に戦艦に搭載されて弾着観測を行うが、短距離偵察にも使用される軽快な観測機、大型の巡洋潜水艦である甲型潜水艦に搭載して要地偵察を行う小型水上偵察機、それに主に巡洋艦に搭載される双座、三座の水上偵察機だった。
ただし、巡洋艦搭載の水上偵察機は、その名に反して偵察能力よりも打撃力を重要視した水上爆撃機とでも言うべき機体でもあった。
他国列強海軍と比べても、日本海軍の水上機開発への傾斜は深かった。巡洋艦搭載の水上偵察機だけではなかった。
例えば、観測機であっても軽快な補助戦闘機としても使用が可能なほど高い機動性能を有していたし、潜水艦に搭載可能とするために小型で容易に分解収納が可能である零式小型水上機の場合は、三桁もの単位で量産された潜水艦搭載機はそもそも世界に例がなかったはずだった。
だが、攻撃機として運用できる水上偵察機にかかる期待はそれ以上に強かった。25番爆弾を搭載して水平爆撃が可能な程度の性能を要求されていた三座水偵はともかく、双座水偵の場合は同じ25番爆弾の搭載でも急降下爆撃能力を要求されていたからだ。
これは端的に言って艦上爆撃機に要求されるものと概ね同一と言っても良かった。これを陸上機と同じ形態の艦上機ではなく、大きな足かせとなる浮舟を抱える水上機でこなさなければならないのだから最初から開発が難航するのはわかりきっていた。
実際、瑞雲が制式採用されるまで、日本海軍の双座水上偵察機は水上機開発に長けた製造業者でも仕様を満足させるものはできなかった。それだけに本命とも言える急降下爆撃能力を有する瑞雲にかかる期待は大きかったと言えるだろう。
日本海軍がこれだけ水上機の打撃力を重要視したのは、艦隊航空の主力である空母航空隊を補強するためだった。
軍縮条約の制限によって、日本海軍は仮想敵である米国海軍に対して劣勢にあった。勿論それは空母も例外ではなかった。
今次大戦開戦前、広大な太平洋で戦端が開かれた想定においては、主力艦隊同士の決戦以前に大型巡洋艦と航空母艦を組みわせた機動艦隊を両軍ともに前哨戦に投入されると考えられていた。
このような航空戦闘の場合は、先制攻撃をかけたほうが圧倒的に優位だった。初撃で狙う相手が強固な装甲板で包まれた戦艦などではなく、構造的に脆弱な飛行甲板を有する空母だったからだ。
先制攻撃で敵空母の飛行甲板さえ叩いてしまえば航空機運用能力を奪えるから、その後の制空権は握ったも同然だった。制空権を奪取できれば、後は一方的に空襲をかけられるし、主力艦同士の決戦が生起した場合でも長距離砲戦に必要不可欠な観測機の活動を阻害することも可能だった。
だが、これには敵艦隊に先んじて敵空母の所在を把握する必要があった。陸地が近ければ航続距離に優れる陸上機、飛行艇などによる支援を受けられる可能性が高いが、索敵の主力は空母に搭載された三座の攻撃機や巡洋艦搭載の三座水偵だった。
しかし、空母搭載機の偵察機への転用は、早期に敵空母を発見出来るかもしれないが、同時に初撃に投入可能な艦載機の戦力減少を招くはずだった。制空権を奪取する航空撃滅戦のための偵察能力の増強が、敵空母への打撃力減少を招くという矛盾が生じるのだ。
本来、これを補うのが軽快な双座水偵の役割だった。開戦前の連合艦隊編制では、第1艦隊は戦艦を中心としてこれに若干の航空戦力と水雷戦隊を配属した主力艦隊としており、第2艦隊を航空戦隊を集中した機動艦隊としていた。
一方、水雷戦隊などの旗艦に充当されることなく、概ね同型艦のみで戦隊を構成する大型巡洋艦は、練度の高い水雷戦隊と共に第3艦隊として纏められており、有事の際には艦隊ごと夜襲に参加したり、第1、第2艦隊に護衛隊などとして配属されることとなっていた。
その第3艦隊は、開戦時には重巡洋艦4隻からなる戦隊2個とそれに準ずる大型軽巡洋艦である最上型軽巡洋艦で構成された戦隊など、合計で20隻弱の水上偵察機を搭載した大型巡洋艦が所属していた。
改装工事などにもよるが、各艦の搭載機は概ね水上偵察機3機が定数だった。この3機すべてを水上爆撃機として運用できる双座水上偵察機とすることはできないが、艦隊全艦から出撃できれば故障機などを抜いても一個飛行隊程度の戦力にはなるはずだった。
偵察機を引き抜かれた空母部隊からすれば、柔軟な運用が難しく実質的に初撃にしか使用できないとはいえ、一個飛行隊の急降下爆撃機の追加は無視できない戦力増強だった。
しかし、実際に急降下爆撃機としての能力を持つとされる瑞雲に乗り込む青江二飛曹からすれば、日本海軍の水上機、わけても水上爆撃機への傾注は結果からすれば誤りだったのではないかとも思われた。
というよりも、今次大戦開戦前頃からの航空技術の急速な発展を読めなかったというべきかもしれなかった。
今次大戦では競うようにして各種航空機の高速化が進んでいた。高速化に寄与しているものにはエンジン出力の増大も無視できないが、機体設計技術の洗練も大きな効果を発揮しているようだった。
大雑把に言えば、これまでの機体設計は熟練した技術者が取得した長年の経験と感が導き出した線形に頼っていたと言えた。だが、そのような個人芸に頼る限り機体設計は試行錯誤の連続となっていた。
ところが、最近では現実を模した精度の高い各種計算式の考案や大型の高速風洞の整備などが進められた結果、機体設計技術そのものが洗練されて空気抵抗が大幅に削減されるようになっていた。
これまで経験や勘、あるいは実験や試作に頼っていたものが、設計段階からある程度模擬的な手段で数値が得られるようになっていたのだ。
また、設計技術が進んだのは機体設計そのものだけではなかった。これまでは航空機製造業者では試作時に軍から指定されたエンジンを受け入れるだけだったのだが、機体設計が精緻を極めるようになると、軍から伝えられる大雑把な数値や外寸だけでは機体構造との間に大きな齟齬を招くことが増えていた。
そのような手間を省くためもあって、これまで以上に機体設計時には機体構造とエンジンを一体化して取り扱うようになっていたのだ。
だが、青江二飛曹の見る限りでは水上機に関してはそのような設計技術の進化から取り残されているような気がしていた。
理由は明白だった。最近の機体設計は、流麗な形状を取ることで高速化の妨げとなる空気抵抗を極限まで削減するのが主流と思われるが、水上機の場合は空気抵抗の塊である浮舟が欠かせなかったからだ。
どのように巧みな機体構造の設計であっても、本質的に水上機が抱えるそのような矛盾を解消できないのではないか。
勿論、海軍空技廠や各製造業者がこのような矛盾の存在に無頓着だったわけではなかった。水上機であっても空気抵抗を削減するために各種の試行があったのだ。
飛行艇や、多くの水上機では浮力の大部分を胴体そのものや、その直下の主浮舟が担当するが、それだけでは安定性が望めないために両翼に補助浮舟を配置することが多かった。勿論、この補助浮舟は飛行中は単なる抵抗にしかならなかった。
そこで、この補助浮舟を90度まで引き上げて翼面と一体化する構造が提案されていたのだ。
もっとも、空気抵抗の割合で言えば補助浮舟は大したものではなかった。やはり浮力の大部分を相当する主浮舟の抵抗を削減できれば、陸上機並みの高速が発揮できるはずだった。
これには本末転倒とも言える案が挙げられたことがあったらしい。主浮舟を投棄して身軽になって高速を発揮するというのだ。
それでは二度と着水出来ないことになるが、実運用される際には浮舟の投棄は敵機の追撃を受けた際など緊急時に限られるということらしい。どのみち生還できなくなってしまうような事態であれば、不時着水による機体の投棄が前提となったとしても搭乗員の生還だけでも果たそうとしたのだろう。
だが、青江二飛曹でなくともそれは首を傾げざるを得ないような話だった。通常は、主浮舟は胴体と一体化していた。それに主浮舟は浮力の大部分を相当する上に、艦上では胴体を支える構造材でもあった。
格納状態ではよほどうまくやらない限り主浮舟の切り離し機構を整備することなど出来ないだろう。そんな装置がいざという緊急時にうまく働いてくれるものなのかどうか。
結局はいずれの空気抵抗低減策も実用的とは言いがたかった。実験機などを除けば、補助浮舟の引き上げ機構は一応は実用機で採用されていた。ただし、水上機とはいっても引き上げ機構の実績があるのは二式飛行艇でのことだった。
二式飛行艇は、陸軍の四発重爆撃機をも凌駕する巨大機だった。当然翼面も相応に大きかったから、補助浮舟の引き上げ機構を分厚い翼内に収めるのも容易だったのだろう。
それに、二式飛行艇では補助浮舟の引き上げによって翼端部と同一化する機構を有するものの、空気抵抗の削減はそれだけではなかった。旋回機銃座も引き込み式となっていたし、エンジン出力も初期型から強化されていた。
大型の飛行艇だから、そのような発展余裕が残されていたのだろうが、それを軽快な単発の水上機にそのまま応用するのは不可能だった。無理に搭載しても各種機器が翼内に収まらずに不格好な膨らみを突出させる羽目になるのではないか。
勿論、浮舟の切り離し機構はそれ以上に導入の障害は高かった。前線部隊では噂程度しか聞こえてこないが、この切り離し機構を導入した高速水上偵察機の試作開発そのものは行われていたらしい。
試作開始時期は瑞雲よりも早かったらしいが、未だにそのような機体が導入されたという話は聞かないから、結局開発そのものが中止されたのだろう。
これに関しては気になる話もあった。元々、この高速水上偵察機は大淀型軽巡洋艦の艦載機として計画されていたというのだ。
大淀型軽巡洋艦は、本来は潜水戦隊を集約させた第6艦隊に配属させるために建造されていた特異な巡洋艦だった。
開戦前に日本海軍が想定していた対米戦計画である漸減邀撃作戦において、潜水艦部隊は随時敵主力艦隊に襲撃を加えるという重要な役割を与えられていた。
ただし、艦橋位置が低く、頻繁に潜行するために潜水隊、戦隊単位での行動が難しい潜水艦の索敵能力は水上艦部隊に比べて著しく劣っていた。それにそれまでの訓練などの実績などや構造からも潜水艦に大規模な司令部を設けるのは不可能だった。
本来は潜水艦隊であるはずの第6艦隊に潜水母艦以外に軽巡洋艦が旗艦として配属されているのには、これらの問題を補うためだった。
つまり大人数の司令部を収容すると共に、その搭載機で広範囲な索敵を行い、それをもとに指揮下の潜水戦隊に襲撃を行わせようというのだ。
これまでは旧式化した球磨型や長良型などの小型軽巡を第6艦隊旗艦に充てていたのだが、艦型が小型に過ぎる上に、搭載機が1機限りでしかないから、旗艦としての能力が限定的なものに過ぎなかった。
だが、専用の高速水上偵察機を複数搭載するために偵察能力の高い大淀型軽巡洋艦が計画通りに就役していれば、第6艦隊の戦力は格段に向上するはずだった。
しかし実際には大淀型軽巡洋艦が第6艦隊の旗艦に就くことはなかった。というよりも同艦は初期の計画とはかけ離れた姿で就役していた。
初期計画にあったという巨大な水上偵察機用の格納庫や長大な射出機の代わりに設けられたのは、第1航空艦隊すべてを指揮統括する司令部機能を収容する大規模な指揮所だったのだ。
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