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1944コルシカ島沖海戦35

 ピカール中佐から手渡された双眼鏡の視界には、ゆっくりと海岸を離れようとしている戦艦の姿が入っていた。

 ただし、ロート大尉には艦種の識別はつかなかった。情報部畑が長い大尉が各国艦艇に関して詳しくないのもあるが、それよりも距離があるせいで大気のゆらぎによって双眼鏡の視界がぼやけてしまっていて鮮明さに欠けていたからだ。

 この海岸線からの距離がもたらす大気のゆらぎが、ロート大尉には戦線の後退を象徴しているようで気が萎えそうになっていた。


 しかし、ロート大尉のすぐ脇で同じように伏せていたピカール中佐は、悲観的な態度を全く見せない表情でいった。

「あれはイギリス海軍のキング・ジョージ5世級だな。艦砲射撃による位置変更などではなさそうだ。イタリア半島かコルシカ島か……おそらく根拠地まで後退するのだろう」

「後退ですか……海岸地帯への圧迫が和らぐことになりますかね」

「それはないだろう、単に交代しただけだろうから。上陸してきた部隊は日本軍とド・ゴール派のようだから、イギリス海軍は単に支援を行っただけに過ぎないのではないかな。実際の艦砲射撃の主力も日本海軍なのだろう。

 それ以前に、ここまで我が軍が内陸部へ押し込まれると、彼らももう艦砲射撃ではなく支援火力の主力は陸軍部隊による野砲や重砲に切り替わっているんじゃないか」

 ロート大尉は思案顔で言ったが、ピカール中佐は一蹴した。



 しばらく海岸を観察してから、そろそろとピカール中佐とロート大尉、それにここまで案内してきた下士官は伏せたまま後退していた。

 三人が立ち上がったのは丘の稜線を越えてしばらくしてからだった。丘の上には前進観測所が設けられていたのだが、視界を優先して危険な稜線近くに観測所を設けざるを得なかったから偽装にはかなりの気を使っていた。

 観測所は地形を利用することで直線の目立つ人工の構造物は極力使用されていなかったし、偽装作業に使用する植物なども周囲の植生を十分に考慮していた。


 従来は、フランス軍ではここまで偽装に気を使うことはなかった。今次大戦開戦直後の対独戦では設置場所を隠すことも出来ない国境のマジノ線や同陣地帯を突破された後は機動戦に終止していたし、再戦後の砂漠の広がる北アフリカ戦線でも撤退の連続で、偽装に時間をかける余裕もなかったからだ。

 だが、完全に火力戦に移行したイタリア戦線では、観測所や有力な部隊が不用意に姿を晒すとたちまちのうちに観測射撃を経た砲弾の嵐が飛んでくるのが常識的になっていた。

 自然と前線部隊では敵部隊の観測対象から逃れるために偽装の腕に長けるようになっていたようだ。フランス軍も遅まきながら先の欧州大戦に逆戻りしたような火力戦に対応しようとしていたのだ。


 特に火力発揮の根幹となると言っても良い観測所は偽装が徹底していた。国際連盟軍の上陸作戦が開始された当初は、こらえきれずに反撃を行った火点からたちまちに集中砲火を浴びて沈黙していったらしい。

 交戦が開始されてからそれほど時間は経っていないが、僅かな間に前線を生き延びた兵たちは偽装術を習得していたようだった。


 そんな状況だから、観測所に赴く際も慎重な行動が求められていた。観測所自体がいくら完璧に偽装していたとしても、不用意に姿をさらに晒しながら接近するものがあれば、即座に発見されてしまうだろうからだ。

 観測所まで大した距離がないにもかかわらず、参謀本部による視察の名目で前線を訪れていた二人に案内の下士官がわざわざつけられたのも、単なる道案内ではなく、後方勤務の参謀の迂闊な行動で観測所を危険に晒すことを恐れたからではないか。


 国際連盟軍の迂闊さを期待することは出来なかった。これまでの戦闘から、彼らにはかなりの数の砲兵部隊が随伴していることが確認されていた。単に砲を運用するだけではない。相応の観測部隊も前線で行動していた。

 観測兵は、陸上部隊だけではなく多数の軽飛行機や回転翼機も運用していた。軽易な構造ながら生産、運用数の多い直協機はもちろん、最近になって運用数が増えている回転翼機も陸上部隊からすれば厄介だった。

 騒音が大きく、その割には速度が遅いから慣れた兵なら遠距離からでも察知できるというが、構造上定点にとどまって重点的に観察することも可能だから、対地方向だけではなく、自己確認の難しい対空偽装まで気を使わなくてはならなかった。



 勿論、偽装が行われていたのは観測所だけではなかった。


 観測所から離れた三人は、急傾斜を下って麓に到達していた。ニース近郊は、地中海航路の結節点の一つであると同時に、アルプス山脈の終着点でもあった。

 はるか東方のオーストリア、ウィーン周辺から欧州を南北に分割するようにスイスまで走るアルプス山脈は、フランス、スイス、イタリアの三カ国の国境が交わるあたりを屈折点として今度は地中海に向けて南下を開始するのだが、その最後の地がニースだった。

 そのせいか、港湾部などの市街地中心を離れれば大小様々な幾つもの渓谷が折り重なるように存在していた。地元の兵士たちならばすぐに部隊の隠し場所を探し当てることが出来るはずだった。

 案内の下士官を出してくれた部隊も、そんな少渓谷の1つを使って海岸の上陸地点から部隊の隠蔽を図っていた。


 歩哨が警戒する野営地外周で案内の下士官と別れた二人は、ここまで乗ってきた車のところまでゆっくりと歩いていた。ヴィシーからニース郊外の前線まで、峠道を縫うようにして来るのに使ったのは、再軍備にあたって再生産が開始されたシトロエン製の乗用車だった。

 シトロエン製の乗用車は停戦後に生産が中止されていたものの、生産済みの多くの車両はドイツ軍によってスタッフカーとして徴用されており、そのような経緯から再軍備後に今度はフランス軍用の軍用車両として生産されていた。

 もっとも、再生産された車両は設計を一新して無骨な軍用仕様とされていたのだが、どこから手を回したのかピカール中佐が長い間借り受けているのは再生産品とは言っても、倉庫で死蔵されていた旧製品用の部品を使ったために流麗な形状を保っている稀有な過渡期生産期の一両だった。


 そのシトロエンを止めていたのは、駐車場のように車両が固まって止められている場所だった。ただし、開けた地形ではない。単に木々の間が程よい場所が選ばれただけのようだ。

 戦車などの幾つもの重車両が停車して偽装された状態のままで整備点検を受けているものだから、その傍らに停車した視認性を下げるために野暮ったいつや消しの灰色の塗料で塗られたシトロエンは目立たない存在だった。


 車を止めてから観測所に行って帰るまで、それほど長い間ではなかったはずだが、シトロエンの周囲には物珍しそうに見つめる下士官兵が集まっていた。

 彼らは戦車隊の隊員なのだろう。戦車自体は厳重に偽装されているのだが、彼ら自体は手持ち無沙汰になっているようだった。



 渓谷で待機しているのは、戦車隊の配属を受けた歩兵大隊だった。概ね諸兵科連合の連隊規模をもつ大規模な部隊だったが、集結を終えて前線後背まで進出したところで待機命令を受けていた。

 長い待機の間に、すでに兵士たちの間には出動直後の慌ただしい雰囲気は消え失せてしまっているようだった。


 偽装を施されて待機している戦車も、シトロエンと同じように再軍備にあたって生産された新型戦車だった。幾重にも偽装網を被せられているにもかかわらず、小山のような車体や砲塔、それに75ミリ径という長大な主砲が偽装網から砲口を突き出していた。

 その異様に目を奪われながらも、ロート大尉はピカール中佐に尋ねていた。


「部隊の集結を終えているようですが、この隊も反撃に出るのでしょうか。有力な戦車隊を配属されているようですが」

 ピカール中佐は、珍しく不思議そうな顔になってから、ロート大尉の視線を追って偽装網を被った戦車に目を向けると冷笑的な表情を浮かべながらいった。


「まさか、ARL製だったか、あの戦車は張子の虎だぞ。停戦中でも密かに設計開発が進められていたというが、ドイツ軍の監視下で進められた開発計画など制限だらけでろくなものではなかったはずだ。

 それを再軍備に伴って旧式戦車では話にならんからと言って慌てて生産し始めたんだ。問題が出ないはずはないさ。あのシトロエンのように生産ラインを再開すればそれで済む話ではないぞ。

 戦車隊の奴らに聞いた話では、車体はルノーのB1のマイナーチェンジに過ぎないし、砲も野砲を流用したせいで威力はともかく使い勝手が今一だそうだ。それに重量の割にエンジンが非力すぎて高速で機動する戦車戦には対応できそうもないというから、実際には歩兵支援にしか使えないようだ。

 原計画では高出力のエンジンや新規開発の備砲を備えるつもりだったらしいが、車体に対して開発が間に合わなかったらしい。むしろ、装備品にたいして車体が旧態依然だから生産できたというべきか……

 第一、あの戦車、高価すぎて数を揃えられんから、やはり停戦直前に開発されていた中戦車も数合わせに慌てて再生産したらしいぞ」


 そう言うとピカール中佐は停車していた別の戦車を指さしていた。慌てて大尉が振り返ると、確かに小山のような大きさの重戦車は数が少なかった。

 他には偽装網の上からでもなめらかな曲面を持っていることがわかる明らかに別の戦車が待機していたのだ。


「まるでアヒルのような妙な形状の戦車ですな……しかし、本当に反撃には出ないのですか。つまりこの隊は集結を終えても待機し続けていると……」

 ロート大尉は、無為に時を過ごしているような部隊に目を向けて怪訝そうな顔になっていたが、ピカール中佐は韜晦するように首をすくめながら言った。

「この隊には北アフリカ戦線から撤退してきた古参兵も少なくないそうだ。ようやく我が軍も再整備が進みつつあるんだ。折角揃えた玩具をこんなところで負けるとわかっている戦闘に投入して消耗などさせたくはないだろう。例えそれが張りぼてだったとしてもだ。

 それに、海軍の連中がどうにかしてド・ゴール派の勢力を削ってくれたおかげで、ニースでは上陸したド・ゴール派部隊の士気が下がっていると言うじゃないか」


 ピカール中佐の言うとおりだった。現地に残留した情報員によれば、守備隊撤退後も未だに少なくない市民が残されていたニースの市街地から、自由フランス軍部隊の大半が退去しているようだった。

 どうやら自由フランス軍上層部や、国際連盟軍諸国軍の思惑が複雑に絡み合った結果らしい。


 上陸前にフランス海軍の潜水艦に集中して攻撃を受けた彼らだったが、上陸後も決して安穏と出来る状況ではなかった。密かに期待していたかもしれない市民からの歓待を受けるどころか、あからさまな害意を向けられたからだ。

 もっとも、実際に何が起こったのかは情報員にもわからないらしかった。市街の治安維持にあたる日本軍の憲兵隊などの手を逃れて出力や発振時間を絞った無線連絡では十分な情報は得られていなかったが、市街内部でも情報が錯綜しているようだ。



 残された市民の一部による暴動の鎮圧に対して、自由フランス軍が過剰とも言える措置をとったのは間違いないらしい。それが他の国際連盟軍からの不興を買うことに繋がったのだろう。

 もっとも、ロート大尉はその説明には若干の疑いを持っていた。情報員の任務は単純な情報収集だけではなかった。送ってきた情報の内容に嘘がなかったとしても、市民による暴動を情報員が誘発させた可能性は低くはなかった。

 別に難しいことではなかった。閉鎖された状況では、市民の多くは信じたい情報にすぐに飛びつくのではないか。


 自由フランス軍とはいっても、フランス本国に残された市民からすれば、自分たちをおいて逃亡した兵隊崩れという程度の認識しかないのだろう。彼らが嚇耀たる戦果を上げていれば解放軍として受け入れられたかもしれないが、実際にはフランス本国は植民地の独立などを受けてむしろ彼らを敵視していた。

 それに、自由フランス軍は植民地で徴募された将兵も多かった。上陸部隊は人種としては白人に近い将兵が多いようだったが、ニース市民からすれば異邦人に変わりはなかったのだろう。



 ロート大尉はため息を付きながらいった。

「これで世論は我が方を支持することになりますか……しかし、ここからさき国際連盟軍が勝利すれば棚ぼた的に自由フランスが勝利者となる可能性もあるのではないですかね」

「それはどうかな、自由フランスとはいっても所詮はド・ゴール派、政治家共はともかく、本国に残された官僚団がいなければ凱旋したところで何も出来んよ」

「あとは……ドイツ軍がどう動くかですか。ノルマンディに駐留するロンメル元帥なら即反撃を言い出しかねないんじゃないですかね。それに引きずられれば我々がその気でなくとも全面衝突もありえますよ」


 ピカール中佐もため息を付いていた。

「ロンメルか……対独戦といい北アフリカ戦からの逃亡といい……あの男は我が国に災厄をもたらすからな。だが、ドイツ軍の反応はそれほど気にする必要はないだろう」

 ロート大尉が不審に思ってピカール中佐の顔を見つめると、中佐は楽しげな笑みすら浮かべながら続けた。

「もうじき東からの風が吹くぞ。ドイツのジャガイモたちはそれにかかりきりになるさ……」

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