1944コルシカ島沖海戦34
笠原大尉をK部隊旗艦であるアンソンの司令官公室に招いたカナンシュ少将は、珍しいほどに寛いだ様子で大尉を迎えていた。
卓上には何枚かの書類と共に小さなグラスと酒瓶が載せられていた。
申告する笠原大尉に鷹揚にうなずきながら、カナンシュ少将がいった。
「君もどうかね、一杯」
僅かに酒気を感じて、笠原大尉は思わず身構えてしまっていた。これまでになくカナンシュ少将が友好的と行っても良い態度だったせいでもあるが、大部分は大尉には飲酒の習慣が薄かったせいだろう。
それに、未だに英国海軍では将兵に酒を支給する習慣が残っていたが、これはサトウキビを蒸留させて作り出されるラム酒が伝統的に対象となっており、宴会で出される日本酒やビールを付き合いで飲む程度でしかない笠原大尉には、砂糖を煮詰めたように甘いラム酒の匂いや味が苦手だったのだ。
だが笠原大尉は、ふと僅かに感じられる酒気が、ラム酒のどこか人工的な甘い香りとは違うことに気がついていた。
その代わりに、なぜか子供の頃に故郷で囲炉裏にあたっていた時のことが思い出されていた。笠原大尉は思わず首を傾げてから、室内がどことなく煙臭いことに気がついていた。
笠原大尉の怪訝そうな顔に気がついたのか、カナンシュ少将は面白そうな顔で酒瓶を持ち上げながら言った。
「安心したまえ、安いラム酒ではない。これはスコッチ、我が故郷たるスコットランドの一品だよ」
スコットランドで製造されるウィスキーは、ラム酒と同じ蒸留酒でも麦芽を原料とするものだった。笠原大尉は洋酒には詳しくなかったが、温暖なカリブ海で作られ始めたというラム酒と、英国本土でも北方のスコットランドでは、同じくくくりのウィスキーでも製造法自体が異なるのかもしれなかった。
もっともどちらにせよ笠原大尉は洋酒自体を好まなかった。できれば飲酒そのものを断りたかったのだが、険のないやり方は咄嗟には思い浮かばなかった。
それに、このように友好的な態度を取られると、逆にこれまで険しい表情しか見たことがない気がするカナンシュ少将にどうやって接すれば良いのか、それが自分でもわからずに困惑するばかりだったのだ。
そういえば、笠原大尉がK部隊に連絡将校として着任してからもう二年近くになるが、その間に艦隊司令官であるカナンシュ少将と個人的な会話をした覚えは殆どなかった。
カナンシュ少将がスコットランド出身ということも初めて聞いたかもしれなかった。
ここしばらく終始顔を突き合わせていたというのに、相手のそんな事も知らなかった。知らないということに違和感も抱かなかった事自体に笠原大尉は愕然としていた。
だが、笠原大尉の困惑は長くは続かなかった。実際にはあまり酒を進めるつもりもなかったのか、大して気にする様子もなくカナンシュ少将は酒瓶を引っ込めていたからだ。
その代りにカナンシュ少将は卓上にあった二枚の書類を指さしながら言った。
「笠原大尉、昇進おめでとう。貴官が我が艦隊を離任する際には佐官として遇さなければならないだろう」
慌てて笠原大尉は書類を掴んでいた。その書類は大尉個人に宛てられたものだった。ただし、閲覧に際してK部隊司令部要員に制限はかけられていなかった。
一枚目は笠原大尉の少佐昇進を伝えるもので、二枚目は更に大尉をK部隊司令部付き連絡将校の任から解くということを知らせる辞令だった。
笠原大尉が慌てて書類を読み込むのを面白そうに眺めながらカナンシュ少将がいった。
「日本海軍の辞令を私が渡すというのも奇妙なものだな」
しかし、笠原大尉はすぐに書類から抜け落ちている情報に気がついていた。
少佐への昇進を知らせる辞令にはそれほど違和感はなかった。確かに派遣先の英国海軍将官から辞令を渡されるのは異例だが、時期や席次からしても少佐昇進に不自然なところはなかったからだ。
問題を感じたのは二枚目の書類だった。これによれば、笠原大尉はK部隊連絡将校の任を解かれた後は、遣欧統合総軍司令部付きとされることが記載されていた。
遣欧統合総軍は新しい部隊だった。欧州方面に投入された日本軍に関して、海陸軍を問わずに一元的に各部隊を管理するために新たに共同で設立された司令部だったからだ。
その隷下には、海軍の主力部隊である第1航空艦隊、陸軍の遣欧方面軍という大規模な実働部隊に加えて、指定された海域を航行中の数多くの輸送船団やその護衛部隊、各種兵站部隊などが含まれる膨大な数のものだった。
指揮権の大部分は隷下各隊に委任されている形の管理部隊とはいえ、遣欧統合総軍の業務量は膨大なものだった。もちろん司令部要員は一般事務などに当たる軍属などを含めるとやはり膨大な数になっており、特定の艦隊旗艦や頻繁な移動を伴う陸軍の野戦司令部などに収容できるものではなかった。
ただし、設備の整ったアレクサンドリアに駐留する遣欧統合総軍そのものは一から編成されたわけではなかった。
それ以前に欧州方面に派遣されている海軍部隊の管理を行っていた遣欧艦隊司令部に陸軍の将校団を増強して、海軍に加えて陸軍部隊の管理をも行わせるようになったというのが実際のところのようだ。
元々遣欧艦隊は、狭い地中海戦域において艦砲射撃や空母航空部隊によって陸軍部隊の援護を行うことも多く、円滑な連携を行うために多くの陸軍将校を連絡将校として受け入れていた。
そのうえ業務内容の多さから、英国資本によって市街地が整備されていたアレクサンドリアの郊外にあるいくつかのホテルを接収して司令部としていた。
ホテル群には十分な容積があったから、規模が拡大した遣欧統合総軍司令部を収容するのも容易だったのだろう。
だが、笠原大尉に遣欧統合総軍付きが命じられたとしても、アレクサンドリアで司令部要員として業務を行うことになるとは限らなかった。
その可能性も残されていたが、欧州全域に展開する陸海軍の管理部隊としての同司令部の性格を考慮すれば、隷下各隊への配属の方が可能性は高かった。配属先の決定や着任までの短い間だけ司令部付きとなるのではないか、つまりこれは実質上の待命措置なのだろう。
分かるのはそこまでだった。実際に着任する部隊を推測するのは難しかった。第1航空艦隊のどこかの司令部要員ということも考えられるし、最近では大尉の駆逐艦長すらいるのだから、少佐に昇進したばかりでも護衛任務に当たる松型駆逐艦や海防艦であれば艦長職という可能性も否定できなかった。
だが、この書類には笠原大尉の新任地を知らせる一方で、後任者のことが何一つ知らされていなかった。防諜が理由で記載されていないということは考えづらかった。
これでは後任者への引き継ぎ用意すら困難だった。
そんな笠原大尉の困惑を察したのか、あるいは単に世間話のつもりだったのか、カナンシュ少将が口を開いていた。
「我がK部隊は、コルシカ島に帰還後解散となる。所属艦は基本的にイタリア半島に展開する地中海艦隊本隊のH部隊に編入されることになる。本艦含め損傷艦は損害復旧工事を受けるために英本土に帰還するが、駆逐艦何隻かはアレクサンドリアで修理を受けることになっている。
アレクサンドリアには日本海軍の浮きドックや工作艦がいるからそれを借りる形になるんだろう。貴官もアレクサンドリアに向かうならば、その艦に便乗するといいだろう。
もちろん、コルシカ島でアレクサンドリアに向かう航空便を捕まえてもいいが、便乗するなら参謀長にでも言えば便を図ってもらえるだろう」
「解散……そういうことですか……」
カナンシュ少将はわずかに首をすくめて見せていた。
「K部隊は元々鈍足のH部隊の側面援護を行うために設けられた部隊だからな。その必要性がなくなったと判断されたのだろう。警戒すべきだったイタリア海軍はすでに友軍であるし、カエル食いはすでに海底行きだからな。
もう地中海で海軍が果たすべき役割は陸軍支援の艦砲射撃しかないが、それなら部隊を分ける必要もないからな」
笠原大尉は首を傾げていた。それでもいくつかの疑問があったからだ。
「対潜作戦はどうするのです。自由フランス軍を沈めた連中は我々の手で何隻かは撃沈確実と思いますが、相当数が投入されていたようだから、逃げ延びたフランス海軍の潜水艦も少なくないでしょう」
「そんなものは君ら日本人に任せるよ。君らは艦載の対潜哨戒機まで持っているのだろう。それに、設備の整ったツーロンを破壊された上に、地中海の栓であるジブラルタルを我々に抑えられて閉じ込められたカエル食いの潜水艦隊がそれほど長続きするとは思えんね」
即座にカナンシュ少将は言い切った。笠原大尉は、うなずきながらも続けた。
「そうなると……少将は次の任地はどちらになるのですか」
だが、笠原大尉はすぐに後悔していた。カナンシュ少将の普段にない柔和な雰囲気にのまれて余計なことを言ってしまったのかもしれないと思っていた。
カナンシュ少将はそれほど鋭い目になっていたからだ。
しかし、すぐにカナンシュ少将は自嘲気味な笑みを浮かべた。
「本国帰還後は、アンザック艦隊の指揮をとることになりそうだ」
「アンザック艦隊……ですか」
聞き慣れない言葉に笠原大尉は首をまたかしげる羽目になっていた。
「これまで英国海軍各隊に編入されていた、この方面に派遣されているオーストラリア海軍とニュージーランド海軍からなる新編成の艦隊だ」
言葉の意味はわかったものの、笠原大尉の疑問は全ては解消されていなかった。
オーストラリア海軍の規模は小さかった。巡洋艦と駆逐艦が何隻か、合計で20隻にも満たない数だった。
国力からすると、ニュージーランド海軍はさらに規模が小さいはずだった。米国などを警戒して本国に残された艦もあるだろうから、両国海軍を集成したとしても戦艦2隻を主力とするK部隊からすると戦力は相当に見劣りするのではないか。
笠原大尉の妙な視線に気がついたのか、自嘲的な表情のままカナンシュ少将がいった。
「戦略的な判断を誤ったことは自由フランス軍のせいにすれば、これから先奴らの勝手な言い分を行く必要はなくなる。だが、それにはこちらにも犠牲が出ていないとな……貴官の考えている通り、実質上の左遷だよこれは」
「そんな……自由フランス軍に損害が出ているからと言って、少将の責任ではないではありませんか」
憤慨しながら笠原大尉はいったが、カナンシュ少将は意外そうな顔でいっただけだった。
「何だ、貴官は俺のことを嫌っていたと思ったのだがな」
笠原大尉は呆気に取られて言葉を失っていた。
「誰かが責任を取らなければならんのだ。誰も責任を取らないよりもはずっとましだろう……それよりも、アンザック艦隊が強引に編成された理由のほうが貴官には重要なはずだぞ」
笠原大尉は訳がわからずに立ち尽くしていた。それを面白そうな顔でみながらカナンシュ少将は続けた。
「もしかすると、とどめとなったのは貴官の行動かもしれんのだぞ。間接的にとは言え、オーストラリア海軍の艦艇が日本海軍の指揮下で戦うはめになったんだからな。オーストラリアの植民地人の中には日本をライバル視しているものが少なくないからな」
意外な展開に笠原大尉は口を挟めずにいた。
「どうも君らはそういった点に無頓着すぎる。いいかね、オーストラリア人から見れば、自分たちは夫や子や孫を戦地に送り出して英国本国に貢献しているというのに、我が英政府は日本のことばかり褒めたたえるではないかというわけだ。
よく考えてみたまえ、人口比で言えば、アンザック軍団を派遣した両国の負担は、日本陸軍よりもかなり大きいんだぞ」
だが、そう言われても笠原大尉は容易に納得はできなかった。
実際には人口比よりも国力差の方が大きいのではないか。それに、日本の場合、前線に兵力を繰り出すことよりも、その工業生産力を生かして兵器、消耗品の提供量を増大させることで総合的な国際連盟軍の戦力増強に寄与しているという自負もあった。
しかし、カナンシュ少将は笠原大尉のそのような考えを一蹴していた。
「そのあたりが無頓着だというのだ。いいかね、彼らがそこまでの考えに至っているとでも思うのかね。人間は所詮感情で動く生き物なのだよ。それに、君たちはすでに、列強の一角、王者なのだよ」
唖然として笠原大尉はカナンシュ少将の独演を聞いていた。
「そう、君たちはすでに王者であって挑戦者ではないのだ。その自覚を持ち給え。ここから先、君たちは王者の地位を守るためにいくつもの戦いに生き残らなければならないのだからね」
どこまでが本気なのか、相変わらず自嘲的な笑みを浮かべるカナンシュ少将の真意は、笠原大尉にはわかりそうもなかった。