1944コルシカ島沖海戦33
笠原大尉が司令官公室に入ると、海岸線がゆっくりと離れていくのが窓から見えていた。そのことが戦場を離れつつあることを今更ながらに大尉に印象づけていた。
勿論、海岸線にはまだ多くの艦艇が残されていた。船団付きの油槽艦から補給を受けた後に、マルタ島の根拠地まで帰投するK部隊と交代する形で対地攻撃任務につく日本海軍の戦艦部隊や、物資を満載して占領下のニース港への入港順を待ち続けている貨物船なども見えていた。
それに、ニースに駐留していたフランス軍の射撃を受けたのか、少数ながら海岸で撃沈されて無残に艦首など艦体の一部だけを残して波に洗われている輸送艦の姿もあった。
特1号型輸送艦や特型大発動艇などの座礁式の揚陸艦艇は、大柄な艦体を持つ割に速度も遅く、上陸岸付近で狙いすました射撃を受けると一方的に撃破される例も少なくないらしい。
ただし、日本軍もそのような事実は理解しているから、上陸前には大口径の戦艦主砲から至近距離で緻密な射撃を行う駆逐艇までの大小様々な支援射撃が上陸直前まで海岸地帯に集中射撃を行って防衛側の火力発揮を妨害するのが常だった。
また、損害が集中する上陸第一波は少数の大型艦ではなく、通常型の大発などの小型の揚陸艇を多数沿岸に押し寄せるように投入して防衛火力を分散させる試みも行われていた。
概ね、今回のニースへの上陸作戦は、これまで国際連盟軍が地中海戦線で行ってきたシチリア島やローマなどへの揚陸と比べても、少なくとも上陸部隊主力の日本陸軍に限れば順調に進んでいるようだった。
笠原大尉は英海軍K部隊に派遣された連絡将校でしかないから、上陸部隊の動向を直接確認出来るわけではないのだが、陸上からの艦砲射撃の要請が次第に間遠になると共に、射撃目標もニースの市街地から遠ざかっていたのだ。
K部隊司令部に射撃要請を行っていたのは、日本陸軍遣欧方面軍の直轄部隊で、上陸部隊の火力を一括して管理統制する第1砲兵団だった。笠原大尉は陸軍部隊の編成については詳しくはないが、砲兵団は本来は複数の砲兵連隊を配備された師団級の部隊らしい。
もっとも、通常の師団が恒久的な編制を持つ常設部隊であるのに対して、大規模に砲兵部隊を集中させた砲兵団は遣欧方面軍と共に戦時編成された部隊だった。
やはり詳しくは知らないが、平時の陸軍では常設部隊とするには規模が大きすぎる上に専門性が高いのだろう。海軍でいえば平時の工作量を賄うには大きすぎる工作艦を集中配備するようなものではないか。
第1砲兵団に配属された部隊の主力は、師団砲兵に配属される火砲よりも格段に大威力の攻城砲などを備える重砲兵連隊らしいが、師団砲兵や場合によって歩兵部隊内の連隊砲や大隊砲などまでの大小様々な砲火力に関する管制を行う権限を与えられていた。
それどころか、最近になって盛んに行われている単発戦闘機や襲撃機による対地銃爆撃までもが砲兵団の管制下に置かれる形となっていたから、その権限は極めて強かった。
先のフランス海軍との海戦以後に本来の任務であった艦砲射撃任務についたK部隊から見れば、艦砲射撃は射撃要請を受けるという形になるのだが、砲兵団から見れば、有力な戦艦群も火力発揮手段の一つでしか無いのだろう。
ただし、第1砲兵団からの射撃要請が間遠になっていったのは、アンソン主砲の射程外に戦場が移動したということではなさそうだった。
アンソンの位置からでは目標地点は直接は観測できないが、艦砲射撃を行う場合は砲兵団麾下の砲兵情報連隊に配備された回転翼機の観測直協機の支援が得られていた。陸軍と海軍の方式の違いは無視できないが、手練の観測兵が乗り込んだ直協機による着弾観測は正確だった。
より大口径の16インチ級には劣るが、キング・ジョージ5世級戦艦の14インチ砲でも射程は30キロを有に超えるから、海岸付近から射撃を行えば郊外の戦区まで十分に射程に収めることは出来るはずだった。
笠原大尉の知る限りでは、アンソンへの射撃要請が減少していた理由は2つあった。1つは、戦闘自体が下火になっていたことだ。一時期はニース市街地を含む上陸地点全域で激しい戦闘が起こっていたというが、戦域は急速にニース郊外に移っていった。
上陸した日本陸軍の先遣部隊が有力であったことだけが理由とは思えなかった。ヴィシー・フランス政権の指揮下にある現地守備隊は上陸部隊と比べれば寡兵であったために、消耗を避けて戦力を温存する方針を取ったためではないか。
その場合、ニース周辺は迅速に奪取出来たとしても、その後は激しい戦闘となることが予想された。後退した現地の守備隊とフランス本土各地から集結した増援部隊に包囲されるからだ。
上陸地点を放置しておけば、イタリア戦線から抽出された兵力が続々とニースに上陸してくるのはわかりきっているのだから、ヴィシー・フランス軍としても早期にニースに攻め込もうとするはずだった。
これまでの上陸戦闘においても反撃部隊の初動の遅れが橋頭堡の確立という事態を招いていたからだ。
つまり、上陸部隊とフランス本土駐留部隊の増援到着のどちらが早いかという勝負になる。上陸第一陣部隊の主力である遣欧方面軍の司令部などでは、当初そのような推測が建てられていたらしい。
だが、実際には未だにニースを包囲するヴィシー・フランス軍に目立った動きは見られなかった。機械化装備の充足率が低いのか、当初想定よりも部隊の展開は遅いものの、包囲網の戦力は増強されつつあった。
それにも関わらず、ヴィシー・フランス軍とはニース郊外で幾度かの小競り合いこそあったものの、艦砲射撃の脅威を高く評価しているのか、戦力の温存を図る姿勢に変わりはないようだった。
もう1つの理由は、この現地フランス軍守備隊の消極的な姿勢によって上陸岸の安全が早期に確認されたことを受けて、第1砲兵団にとって自前の兵力とも言える重砲兵連隊が予定よりも早く陸揚げを開始していたからだ。
上陸第一波を受け持った海軍第2陸戦師団のような軽装備の部隊はともかく、陸軍の各師団は隷下に師団砲兵連隊が含まれていたが、独立編成の重砲兵連隊はそれよりも格段に重装備だった。
最近の日本陸軍は野砲と榴弾砲の組み合わせから、師団砲兵隊を一回り重装備の10センチ級と15センチ級の榴弾砲の組み合わせへと強化していたが、重砲兵連隊の装備はそれよりも重量級の15センチ加農砲や24センチ榴弾砲などが集中配備されていた。
本来は、この重量級の装備を陸揚げするには固定式桟橋を備えるニースの港湾施設の奪取や上陸岸に設ける仮設桟橋の補強工事などが必要なことから、重砲兵連隊の上陸開始はかなり後に予定されていたらしいが、フランス軍守備隊が早々に後退したことで急遽予定が繰り上げられていたらしい。
この自前の砲火力の充実とフランス軍の消極的な姿勢が合わさって、艦砲射撃の要請機会も減っていたようだった。
それに、この重砲兵連隊の陸揚げは、K部隊のあの戦闘とも無関係ではなかった。
上陸済み陸軍部隊の火力増大と翌朝からの空母部隊艦載機による空襲の強化という手段があったからこそ、沿岸に展開していた日本海軍は戦艦を含む有力な艦隊をK部隊の援護とフランス海軍の出撃拠点であるツーロンへの襲撃に振り分ける事ができていたからだ。
この戦闘によってヴィシー・フランスはその水上艦の殆どを喪失していた。K部隊や増援として派遣された日本海軍艦との戦闘で出撃した多くの艦艇が大きな損害を被って撃沈されるか拿捕されていた。
また、同時に行われたツーロンへの艦砲射撃によって、主力艦隊への随伴が難しかったのか出撃が不可能だったと思われる他の艦艇に加えて、同地の大規模な造修施設もその大半が灰燼に帰していたらしい。
その後も何度か空母分艦隊やコルシカ島などから偵察機が送り込まれていたが、写真撮影によっても大規模な修理作業が行われている様子は伺えないという話だった。
現地では損害復旧よりも人命救助作業のほうが優先されているのではないか、そのような見方が強いようだった。
おそらく、ヴィシー・フランス海軍、分けても水上艦隊が今次大戦において戦力を回復させることは無いだろう。
もっとも、大きな損害を被ったのは、ヴィシー・フランス海軍だけではなかった。先の戦闘の終盤において自由フランス軍主力が乗船していた船団が組織的な潜水艦群の待ち伏せを受けていたのだ。
敵潜水艦群の作戦行動は際立っていた。船団の航路上で幾度も襲撃をかけていたのだ。多方位からの同時攻撃を受けた船団はなすがままに大きな損害を受けてしまっていた。
損害が大きくなった理由は明確だった。対潜哨戒用の航空機の活動が低調となる夜間に、敵潜が蝟集する海域に無防備なまま突入してしまったからだ。
ヴィシー・フランス海軍の水上艦隊という脅威が迫っていたために、自由フランス軍上層部の圧力によって船団は出港を早めていた。
だが、それはあまりに近視眼的な対応だった。あるいは、目に見える脅威だけを受け取ってしまったためと言っても良かった。
勿論、自由フランス軍にも理由はあった。すでに上陸第一波である日本陸軍は着実にニースの橋頭堡を確保していた。
港湾部を占領したことで重装備の揚陸も進められていたから、大部隊ではあるものの先行した日本陸軍に配備された大発のような揚陸戦用の装備を豊富に装備していない自由フランス軍でも、揚陸作業を迅速に進められるはずだった。
むしろ、フランス本土の奪還に際して、初戦からフランス人からなる部隊の存在感を示せないことのほうが問題だったのではないか。
上陸第一波には、今次大戦における上陸戦の経験が豊富であるために主力となった日本陸軍に加えて、自由フランス軍部隊も加入していたのだが、実際には政治的な工作以外の何物でもない報道用の僅かな数の部隊でしかなかった。
だから、自由フランス軍主力をこれに続いて投入することで、フランス本土の奪還を強く内外に印象付けたいと自由フランス軍上層部は考えていたのだろう。
しかし、彼らの政治的な判断は裏目に出てしまっていた。これまで、自由フランス軍はなりふり構わぬ様子で戦力の増強を図っていた。これまでに解放されていた植民地から半ば強引に兵員を徴募していたのだ。
独立と引き換えに参戦を引き出した旧インドシナ植民地のように現地民だけではなく、現地に駐留していた植民地軍も強制的に編入していた。
傍から見ても、その戦力拡大は強引に過ぎるものだった。
将兵の徴募を目的とした旧インドシナ植民地の独立認可などへの反感から、国民感情に引き摺られる形でヴィシー・フランス政権が枢軸側での参戦を図ってしまったことが、自由フランス軍上層部を焦らせてしまったのかもしれない。
しかし、中にはフランス本国のヴィシー政権寄りでありながらも心ならず自由フランス軍傘下に加えられてしまった将兵も少なくなかったのではないか。
これは防諜体制からみればあまりに条件が悪かった。強引な徴募によって、ヴィシー・フランス側に内通することに対する忌避感は少なかったのではないか。あるいは、元々内通という感覚すらなかったのかもしれない。
内通者の存在はほとんど明らかだった。コルシカ島に駐留する部隊が、付近で不審な電波の発振を確認していたのだ。
この時点で、コルシカ島の行政はほとんど旧体制のままだった。
自由フランス軍は、降伏時にほとんど着の身着のままフランス本国から逃れてきた将兵を中核として成立したようなものだから、高度な行政業務に精通した要員が限られていたからだ。
また、現地では占領体制を嫌う自由フランス軍関係者によって他国憲兵隊の活動が制限されていたから、電波発信を追う捜索もままならなかったようだ。
そのような事情から、自由フランス軍主力の動向は実際にはヴィシー・フランス軍にかなりの精度で把握されているふしがあった。それがヴィシー・フランス海軍潜水艦群による待ち伏せという形で現れたのではないか。
結果的に見て、自由フランス軍は今次大戦におけるこれまでのそのように強引な行動のつけを一気に払わされたのだとも言えた。
―――なんのことはない。この戦闘だけを切り取ってみれば、我々はフランス人同士の主導権争いにつきあわされただけのことではないか。
この戦闘において、枢軸軍の盟主であるはずのドイツ軍の影は極端に薄かった。そのこともあってか、笠原大尉はそう考えてしまっていた。
しかし、その一方でこの戦闘で笠原大尉が派遣されたK部隊にも大きな損害が生じているのも事実だった。
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