1944コルシカ島沖海戦31
新鋭戦艦といえども艦橋内はひどく狭苦しかった。着弾観測を実施する観測機や同時に射撃を行う僚艦との緻密な連携が欠かせない対地砲撃を目前に控えているともなれば人の動きも激しく、栗田中将は武蔵乗員の邪魔にならないように艦橋脇に引っ込んでいた。
ただし、乗員の動きにはどこか無闇に慌ただしい雰囲気もあった。単に多忙だというだけではない、練度の低さを伺わせるような焦りの色を見せて下士官から叱責される兵も少なくなかったのだ。
武蔵を旗艦とする分艦隊司令官である栗田中将は、その様子を苦笑いを浮かべながら見つめていた。
対地支援を継続する空母部隊を中核とした部隊や、英国海軍のK部隊と共にフランス艦隊の殲滅を図る巡洋艦分艦隊とも離れて、戦艦分艦隊を中核として抽出された戦力からなる艦砲射撃部隊は、地中海側に残留するフランス艦隊の根拠地であるツーロンの撃滅を目的として出動していた。
ヴィシー・フランス海軍の最後の主力艦隊はすでに無く、残されたツーロンの守備隊も限定的な戦力しか持たないと判断されていたが、敵地に踏み込む形になるから乗員たちの緊張は高かった。
やはり英国海軍地中海艦隊の分遣隊であるK部隊への増援に旧式ながらも乗員の練度の高い金剛型2隻を充てた代わりに、敵根拠地であるツーロンへの対地砲撃に就役したばかりの新鋭戦艦を投入したのは正しい判断だったようだ。
ただし、上級司令部である第一航空艦隊の司令長官である高橋中将からそのような命令が下りた当初は、本艦乗員や新鋭の大和型戦艦2隻で構成される第2戦隊司令部などから上がる反発の声は大きかった。
同型2番艦であるために司令部機能が充実していた武蔵には、栗田中将以下の戦艦分艦隊司令部も置かれていたから、中将に直談判に来る幹部も一人や二人ではなかったのだ。
しかし、本艦幹部や戦隊司令部要員の意気込みとは裏腹に、2隻の大和型戦艦を操る乗員達の練度は複雑な機動を行うかもしれない艦隊戦に十分なものとは言えなかった。
それも無理はなかった。大和型戦艦が揃って就役したのは年が改まってすぐの頃だったから、まだ乗員たちが配属されてから半年程度しか経っていなかったのだ。
先の欧州大戦後も軍拡の一途をたどっていた列強間で締結されていた軍縮条約が、国力の増強が著しい日本帝国海軍の保有枠増大を図る形で改定されたのは今から十年ほど前のことだった。
軍縮条約の改定は、シベリア―ロシア帝国と分割されていたソ連における海軍力整備の影響や、ソ連と友好国である米国との関係など複雑な列強間における政治的な妥協やせめぎあいの結果だった。
何れにせよ、日本海軍はこの条約改定によって他国海軍同様の旧式艦の代替えと保有枠増大を受けて新たに六隻もの戦艦を建造することになっていた。
保有枠の増大が許されたのは戦艦だけではなかったから、当時まだ大佐だった栗田中将の目から見ても、艦政本部や大手造船会社などの海軍内外の建艦部門は相当に慌ただしい状況だったようだ。
もっとも、この新造艦の建造は道半ばで修正を余儀なくされていた。軍縮条約自体がイタリアの脱退や今次大戦の勃発などの原因で失効していたからだ。
結局、戦艦に関しても計画通りに進んでいたのは、保有枠拡大分として早期に建造されていた磐城型戦艦の1番艦から3番艦までの3隻だけだった。
本来の計画では、金剛型戦艦のうち3隻分を代替するためにさらに3隻の磐城型戦艦を建造する予定となっていたらしい。
磐城型では3番艦までは長門型と同じ連装41センチ砲塔を搭載していたが、4番艦以降は金剛型の代替であるために36センチ砲を搭載する予定となっていたらしいが、その当時でも条約の改定に関しては各国間で細かなところで協議が行われていたから、詳細は未定のままだったという噂も聞いていた。
もっとも、磐城型戦艦4番艦以降は建造前に軍縮条約の失効を受けて計画は中止となっていたが、一部の機材や装甲板などの部材は製造が開始されて納入が開始されている状態だった。
もともと磐城型戦艦は短期間での連続建造が予定されていたから、量産性を高めるために、高価であったり製造に時間のかかる資機材は事前にまとめて発注されていたからだ。
結局、磐城型に続いて建造された常陸型戦艦は、軍縮条約失効による排水量制限がなくなったことなどを受けて主砲塔の増載など磐城型よりも拡大されてはいたものの、資機材は大部分が流用されることとなっていた。
それに、磐城型戦艦自体が妥協の産物だとも当初から言われていた。軍縮条約の戦艦に関する制限である基準排水量三万五千トン以内に排水量を収めつつ十分な装甲厚を確保するために、主砲が連装砲塔3基の6門に抑えられていたからだ。
磐城型戦艦に搭載されたのは、30年近くも前に建造された長門型戦艦に搭載されているものと基本的には同型の41センチ連装砲塔だった。
もともと同砲塔は長門型だけではなく、軍縮条約締結前に八八艦隊構想として建造が開始されていた加賀型戦艦や天城型巡洋戦艦にも搭載が予定されていたものだった。
言ってみれば金剛型から搭載されていた従来の36センチ砲に変わる日本海軍戦艦における標準砲として計画されていたものだったのだが、結果的にこれを装備して就役したのは長門型2隻のみだったのだ。
だが、搭載こそされなかったものの、常陸型戦艦建造時の事情と同じように事前に製造されていた砲塔も少なくなかった。
天城型巡洋戦艦は軍縮条約の規定によって空母に改装されていたが、巡洋戦艦としても順調に艦体部の工事が進んでいたことから、艤装工程で搭載される予定だった砲塔も製造が進められていたのだ。
建造費用の削減のために、磐城型戦艦や常陸型戦艦の一部では保管されていたその砲塔を再整備の上で搭載されていたのだ。
裏を返せば、見た目こそ新鋭戦艦らしい流麗な姿となっていたものの、磐城型戦艦や常陸型戦艦は長門型と同じ世代の旧式砲の搭載を余儀なくされていたのだ。
そのような視点にたてば、完全に軍縮条約が無効化された後に計画された大和型戦艦こそが日本海軍新鋭戦艦の第1世代であるとも言えた。
もっとも建造時期で見ればさほど差がなかったせいか、栗田中将が今いる昼戦艦橋などの配置は就役したばかりの大和型戦艦でも磐城型や常陸型とほとんど変化は無かった。
就役時から電探射撃を前提として、艦橋構造物頂部に設置されている主砲射撃用の測距儀に射撃管制用電探が設置されていることなど、各種艤装品は改良されているものの、基本的な構造には変わりはなかった。
それだけ磐城型の時点で日本海軍の戦艦艦橋の完成度は高かったともいえるが、栗田中将には全く異なる考えもあった。単に艦橋という機構そのものの重要性が低下したために、既存艦の構造を流用しただけではないかというものだった。
元来、敵主力艦との砲撃戦を主任務とする戦艦において、射撃指揮機能や索敵機能が集中した艦橋は重要な位置づけにあったが、各種電探の搭載と発展によってその重要性は低下しつつあった。
最近の電探は捜索どころか射撃管制まで行えるほどの精度があったが、肉眼による監視と同様に電探も高所に設置したほうが効率が良かった。地球が球体であるために、高所においたほうが見かけ上の水平線までの距離が伸びるからだ。
電探の搭載位置は次第に変化していた。計画時が電探の実用化前であったため、磐城型戦艦では就役後になってからマストに増設を図るなど最適とはいい難い配置となってしまっていたのだが、続く常陸型では建造当初から前部艦橋と煙突間の位置に、艦橋よりも高所に電探設置用の頑丈な櫓を設けていた。
大和型戦艦に至っては、通信用のマストの一部に加えて、煙突構造物や従来の後部マスト機能をも一体化した特異な構造物が電探の設置場所として新たに設けられていた。
ただし、大和型戦艦の特異な形状の煙突マストに関しては、単に電探の搭載だけが理由というわけではなかった。大和型戦艦には従来のボイラーと蒸気タービンの組み合わせに加えて、ディーゼルエンジンを搭載していたからだ。
栗田中将も詳しくは知らないが、機関部の配置やディーゼルエンジンとボイラーの排気温度などの違いから磐城型や常陸型のように単一の集合煙突とするのは難しく、煙突を機関種ごと別個に設けることになったらしい。
実績のある蒸気タービンと比べると、燃費に優れる一方で信頼性に乏しく大重量のディーゼルエンジンはこれまでは潜水艦など特異な艦艇や補助艦に搭載が限られていた。
だが、大和型から新たに搭載されたディーゼルエンジンは、大鯨型潜水母艦に搭載されていたものとほぼ同型という話だった。
その大鯨型への搭載が日本海軍におけるディーゼルエンジンの大型水上艦への初搭載例となっていた。大鯨型も1番艦の就役当初は機関部の不調が頻発していたらしいが、運用実績を積み重ねて逐次改良が施されて行った結果、現在では長期間の運用でも支障は出ていないらしい。
安全な戦線後方の泊地における大型潜水艦への支援を想定していた従来の特設潜水母艦などとは異なり、高速ではあるものの小型の艦隊型潜水艦である海中型などへの支援を行うために計画されていた大鯨型潜水母艦は、支援艦艇ではあるものの主力艦隊への随伴を前提としていた。
それ故に大鯨型は巡洋艦並の巨体に自衛戦闘が可能な程度の防空火力に加えて、高速性能も要求されていた。
そのような大鯨型に搭載されて実績を積み重ねたものをさらに改良したというのだから、大和型戦艦に搭載されたディーゼルエンジンも相当の信頼性を有していると考えてもよいのではないか。
大和型戦艦で導入された新基軸はディーゼルエンジンだけではなかった。長門型から磐城型、常陸型と搭載が続いた連装41センチ砲とは全く互換性のない三連装砲塔が主砲として搭載されていたのだ。
口径は従来と同じ16インチ、41センチ砲で、長砲身化と砲弾の改良によって大威力化を図ったというが、栗田中将は細かい諸元は知らされていなかった。
日本帝国の正式参戦より以前の今次大戦勃発直後から軍内でも防諜体制の強化が図られていたためだろう。栗田中将も何度か高級指揮官向けの防諜教育を受けていた。
もっとも、新兵器の投入は必ずしも戦力強化に直結するとは限らなかった。大和型に搭載された新基軸も就役から半年では十分な実績を得られているとは言えなかったし、これを操作する乗員の練度も不安が残るものだった。
新造戦艦の乗員の練度に関しては、欧州域に派遣されている全海軍部隊の上級司令部となる遣欧艦隊司令部が新たに設けられた二年ほど前から疑問視されていた。
当時は遣欧艦隊参謀長であった栗田中将もその当時の議論はよく覚えていた。
当時の新造戦艦とは、建造中であった大和型ではなく新たに遣欧艦隊に配属が予定されていた2隻の常陸型戦艦のことだった。
だが、日本海軍は詐欺的な手法でこの問題を解決しようとしていた。米海軍を警戒するために、今次大戦においても出動せずに日本本土やトラック島などで待機していた戦艦群から多くの将兵を引き抜いていたのだ。
特に長門型に関しては主砲塔に関しては常陸型に搭載されたものとほぼ同型であったから、指揮官である砲台長や熟練下士官まで異動していた。
おかげで第1艦隊主力であるはずの第1戦隊は張子の虎も同然となっていたほどだったが、その甲斐もあって常陸型戦艦は就役直後から最低限の練度は確保できていたようだった。
だが、大和型戦艦に関しては同様の手法は取れなかった。本土に残された第1艦隊はすでに多くの乗員を抽出されており、配属されるのは新兵ばかりで実質的に練習艦隊となっていたし、そもそも搭載機材の規格が異なっているのだから他艦から機器の操作に熟練した下士官を引き抜く事はできなかったからだ。
損傷修理などで日本本土やインド帝国などに後退する艦艇からの異動者などもあって乗員の定数は概ね確保していたが、練度は低いと見るべきだった。
高橋中将が新鋭戦艦である大和型戦艦をツーロンへの艦砲射撃任務に充てる一方で、旧式ながら熟練乗員の多い金剛型を敵艦隊追撃に向けたのも、栗田中将の目から見てもうなずける判断だったのだ。
栗田中将は、ふと気配を感じて振り返っていた。いつの間にか慌ただしかった艦橋内部は静まり返っていた。艦長が乗員を代表するように砲撃準備が整ったことをいった。
艦長だけではなかった。多くの本艦乗員が決意のこもった目で中将の命令を待っていた。
―――焦ることはない、こうして実績さえ積み重ねていけば、いずれ大和や武蔵も血の通った歴戦の艦となってくだろう……
そう考えながらも、栗田中将は落ち着いた声で射撃開始を命じていた。
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