1944コルシカ島沖海戦30
アンソン艦橋見張員による敵戦艦主砲弾の着弾を知らせる報告に、思わず笠原大尉は首をすくめていたが、密かに予想したような激しい衝撃は来なかった。やはりアンソンに対する直撃弾は発生しなかったようだ。
思わず安堵のため息を付きながら笠原大尉は艦橋から外を見渡すと、確かに敵艦主砲弾によって発生した水柱は遥か彼方に見えていた。
次々と見張員やレーダー室からの報告が上がっていた。やはり敵戦艦からの主砲射撃は精度が低かったようだ。アンソンとハウから遥かに離れた海域で虚しく水柱が上がっているらしい。
「全く驚かせやがる」
司令部要員か、アンソン乗組員の誰かがそう言っているのが聞こえていた。
だが、大部分の将兵は敵艦からの初弾が命中しなかったことを安心しつつも、あまりの着弾点のずれに違和感も覚えているようだった。それに正確なところはわからないが、水柱のばらつきも大きく、着弾点が描く散布界もかなり過大なものであるようだった。
敵艦からすれば開頭直後の初弾となるが、照準の不正確さによる着弾点と目標とのずれはともかくとして、過大な散布界はそれで説明がつくようなものではないはずだった。
艦橋の暗がりの中でも、司令部要員が首を傾げているのに気が付いたのか、カナンシュ少将がつまらなそうな口調でいった。
「まあ無理も無いことだな……」
司令部要員の多くは怪訝そうな顔でカナンシュ少将に無言のまま先を求めていた。先程、少将は感情を押し殺したような表情になりながらも冷や汗をかいていたようだったが、その事に気がついていたのは笠原大尉だけのようだった。
笠原大尉は、他の司令部要員とはまた違った意味で怪訝そうな顔になっていたのだが、そんな大尉の表情には気が付かなかったのか、カナンシュ少将は自信ありそうな様子でいった。
「よく考えてみろ、今のフランス海軍に実弾射撃、特に戦艦主砲のような大口径砲の射撃機会などがどれほどあると思うかね。フランス本国を含む欧州本土は我が軍によって今次大戦の早くから封鎖されている。今度は我々英国によって大陸封鎖が行われたわけだな。
しかも、サルディーニャ島やコルシカ島の陥落によって大陸沿岸付近でさえ我が潜水艦隊や長距離哨戒用の飛行艇の手によって常時監視の目が光っている状態だ」
実際には、フランス沿岸まで接近してフランス海軍の根拠地であるツーロンなどの監視を行っているのは、英国海軍ではなく日本海軍の部隊が殆どだった。
元々、日本海軍は広大な太平洋における対米戦を想定して軍備計画を行っていたから、航続距離などに優れる大型の巡洋潜水艦を多数保有していた。
なかには偵察能力を高めるために小型軽量の水上偵察機を搭載していたものもあったが、最近では対戦技術の発展によって静粛性を強く求められた潜水艦が実戦において偵察機を搭載する例は少なくなっていた。
だが、潜水戦隊の行動は機密度が高く詳細は笠原大尉も聞いていなかったが、水偵用の格納庫は長期間の監視任務の際に必要な消耗剤の倉庫や、破壊工作などで密かに大陸沿岸部に上陸を繰り返しているらしい海軍特務陸戦隊の輸送などにも使用される例があるらしい。
潜水艦と同様の理由で、日本海軍には長距離索敵用の飛行艇も充実していた。捜索範囲でいえば、浮上していても視野の限られる潜水艦よりも飛行艇によるものの方がはるかに広大なはずだった。
サルディーニャ島を枢軸軍が把握していた時期には、鈍重な飛行艇では危険すぎて前線に出すのは難しかったのだが、同島の陥落後は根拠地を前進させて太平洋に比べれば狭苦しいとさえ言える地中海のほぼ全域を哨戒範囲に収めていた。
笠原大尉が口を挟まなかったからか、カナンシュ少将は滑らかな口調で僅かに口角を吊り上げながら続けた。
「先のシチリア島沖での戦闘でも、フランス艦隊には大きな損害が発生していたはずだ。艦艇などの機材だけではなく、乗組員にも被害は出ていただろう。
それに戦闘による損害修理を行う間に離艦したものもいたのではないかな。可動状態に無い長期修理中の戦艦に熟練した将兵を配置し続けられるほど彼らに余裕はなかったはずだからだ。
それに、新兵を補充しようにも自在に練習艦で外洋を航行することが出来ないのだから、将兵の練度は著しく低下している可能性も高い。おそらく練度を維持するための最低限の練習航海すら不可能だっただろう。
これに対して、我が方は地中海の大部分の制海権を確保しているために、戦闘行動中でなくともいつでも、どこでも訓練を行うことが可能だ。それに陸軍支援の対地砲撃で主砲射撃を行う機会も多いしな……」
そこで一旦カナンシュ少将は口を閉ざすと、司令部要員を見渡しながら続けた。
「艦長に伝えろ。命令に変更なし。敵戦艦の砲術科が勘を取り戻す暇を与えるな。練度ではこちらが遥かに勝っているのだ。速射でかたをつけるぞ」
慌ただしく司令部要員が動き出そうとしていたが、それよりも早く閃光が艦橋を射抜いていた。それと同時に濡れ雑巾で勢いよく叩かれたかのような衝撃が笠原大尉を襲っていた。
いつの間にか、アンソンの主砲も敵戦艦に向けて発砲していた。敵軽巡洋艦との間で長時間戦闘を継続して将兵の疲労も無視できないはずだし、やはり初弾から命中弾が出るとは思えないが、逆を言えば長時間の戦闘で乗員の多くは神経を研ぎ澄まされた状態にあるはずだ。
案外、今度は短時間で敵戦艦にも命中弾を与えることが出来るかもしれなかった。
それに不機嫌そうな態度に変わりはないものの、傲岸不遜を絵に描いたようなカナンシュ少将が言い放つと不思議に信憑性が出てくるような気がしていた。
あるいは、カナンシュ少将の迫力に司令部要員の多くが呑まれてしまっているのかもしれなかった。
だが、笠原大尉は艦橋の暗がりで周囲からよく見えないだろうことを良いことに、一人苦笑いを浮かべていた。
先程は、おそらく笠原大尉だけがカナンシュ少将がかいた冷や汗に気が付いていたはずだった。当たり前のように皆が抱く恐怖心などとは自分は無縁だと、少将が演技を行っていたからだ。
この激しい戦闘の中では、よほど注意深くカナンシュ少将の様子を確認し続けていない限りは、強い意志で恐怖を押し殺しながら、傲岸不遜な態度を崩そうとしない少将の自然な演技を見破ることなど出来ないだろう。
偶然ながらカナンシュ少将の演技に気が付いたからといって、もちろん笠原大尉はその事を声高に言いふらすつもりなど無かった。
ただ、周囲のあらゆる状況に惑わされることなく、逆に周囲の将兵を動揺させないためにも自らの恐怖を決して知られていはいけない、そんな指揮官たるものの孤独を強く感じただけだった。
おそらくこの秘密は笠原大尉が墓場まで持っていくことになるのだろう。
ただ、自分はそこまで自らの感情を押し殺して演技まですることはできそうもない。笠原大尉はそう自嘲していた。せいぜいこれから先は少しばかり冷静に周囲を見ることが出来るかもしれないというくらいだろう。
周囲の慌ただしさにもかかわらずそこのようなことを考えていたせいか、カナンシュ少将が自分を呼んでいることに笠原大尉は少しの間気が付かなかった。
砲撃戦の喧騒の只中にあったとはいえ、連絡将校である笠原大尉の行動としては迂闊に過ぎたが、カナンシュ少将の顔には叱責するような表情は浮かんでいなかった。
笠原大尉は怪訝そうな顔になっていたが、カナンシュ少将は気にする様子もなく言った。
「先程の……島風からの入電だが、内容が日本語だったのは間違いないのだな」
戸惑いながらも笠原大尉は頷きかけていた。
確かに、先程の島風からの通信は日本語を使用言語としたものだった。ただし、その内容はひどく散文的な数字の羅列に過ぎなかった。おそらく座標や方角などを知らせるものだったのだろうが、起点となる位置がわからないものだから笠原大尉が聞き取った部分だけでは情報として意味をなさなかった。
おそらくは、島風の現在位置か、あるいはコルシカ島やニースなどの既存の位置を起点として観測した敵速や方位などを連絡していたのではないか。そして、その起点の情報は、笠原大尉が聞き逃していた通信の前半部分に挿入されていたのだろう。
そこまで考えたところで、笠原大尉は敵戦艦の初弾が着弾する前のことを思い出していた。島風からの通信は本当に本艦、言い換えればK部隊で唯一の日本人である自分に向けたものだったのだろうか。
常識的に考えれば、通信前には受信者に向けた連絡があるはずだった。そうでなければ笠原大尉が通信前半を聞き逃した様に無線を取りこぼすかもしれないからだ。
ただし、無線の本文はともかく呼び出しは英語で行われるはずだった。K部隊の通信兵が日本語を完全に解するはずもないからだ。
しかし、アンソンの通信指揮所に詰める通信長以下の乗員が単純に受信しそこねていたとは思えなかった。当初から無線は日本語で行われていたのではないか。
傍受しているかもしれないフランス艦隊への欺瞞のためだけにそのようなことを行ったとは思えなかった。これまでの島風の通信は英語で行われていたし、それを今頃になって切り替えるとも思えない。
それに、地中海方面に投入された日本海軍部隊は共通言語として英語を用いるのが一般化していた。
だが、何事にも例外はあるはずだった。笠原大尉は英国軍の司令部に連絡将校として派遣されるのが長期化していたから詳細はわからないが、日本軍同士では細かなところまで英語のみで通信を行っているとは思えなかった。
ただでさえ用語の違いなどから錯綜しがちな海陸軍間の連絡などでは、逆にほとんどが日本語になっているのではないか。
他にも日本語を積極的に無線で使用する場合はあるはずだった。事態が切迫している場合だ。
無線通信の受信者と送信者は共に日本人である通信科員なのだから、どうしても母国語ではない英語を使用することで意思疎通には若干の遅れが生じるからだ。
その場合も無線冒頭で予め通告ぐらいはするだろうが、本文すべてを日本語とすることは十分に考えられた。
もちろんだが、そのどちらの場合であっても想定する受信者は笠原大尉、すなわちK部隊ではあり得なかった。受信者の合意なしに完全に共通言語から日本語に切り替えることは考えづらいからだ。
そこまで考えたところで、笠原大尉はカナンシュ少将の意味ありげな視線に気がついていた。
「島風からの通信相手が大尉……ひいては我が艦隊ではないとすれば、敵艦隊でも我々でもない第3の艦隊がこの海域に存在しているということではないのか。おそらくそれは日本海軍の……」
カナンシュ少将が言い終わるよりも前に、再び艦橋伝令の声が聞こえた。通信指揮所から連絡が入ったらしい。無線通信を捉えたようだが、相手は島風からではなかった。
どうやら相手はK部隊の軽巡洋艦エイジャックスのようだった。
アンソンとハウから分離したK部隊軽巡洋艦群の中で、エイジャックスには先任の艦長が座乗していた。リアンダー級軽巡洋艦の一隻であるエイジャックスは兵装、装甲共に大型軽巡洋艦と比べると貧弱な部分があることは否めないが、今次大戦開戦劈頭より幾多の戦闘に投入されている古強者だった。
そのエイジャックス率いる軽巡洋艦群は、カナンシュ少将によって交戦中の敵艦隊から温存された状態で離脱してコルシカ島に向かうと思われる重巡洋艦部隊の追跡を命じられていた。
しかし、今の所は有力なフランス海軍の大型駆逐艦による駆逐隊や敵戦艦副砲群による阻止砲撃等による妨害によって戦域からの離脱を果たせていないはずだった。
エイジャックスからの報告は、彼方に去ろうとしている敵重巡洋艦部隊に関するものだった。敵重巡洋艦の周辺に巨大な水柱が観測されているというのだ。
しかも、レーダー観測によれば水柱の寸法からして戦艦主砲級のものであるらしい。
司令部要員はざわめいていたが、カナンシュ少将は大きなため息を付いただけだった。
参謀の何人かは怪訝そうな顔で少将に振り返っていたが、カナンシュ少将はつまらなそうな声でいった。
「どうやら、また日本軍に美味しいところを持っていかれたようだな」
同時に艦橋伝令が続けた。
「入電です……敵重巡を砲撃中の艦からです。われ比叡、われ比叡、日本海軍です」