1944コルシカ島沖海戦29
K部隊から見て、針路前方を塞ぐように機動する2隻のフランス戦艦と相対するアンソンの艦橋には、締め付けられるような緊張感が走っていた。
つい先程までラ・ガリソニエール級軽巡洋艦と同航戦を行っていたものだから、アンソンも後続する僚艦のハウも、全く敵戦艦との交戦に対する用意が整っていなかったのだ。
呆けている乗員達を叱咤するように、アンソン艦橋にカナンシュ少将の声が響いていた。
「射撃目標割当を変更する。アンソン敵戦艦1番艦、ハウ敵戦艦2番艦。後続巡洋艦及び駆逐隊は本隊より離れ、前方で離脱中の敵巡洋艦群を追跡、撃破せよ。
各隊指揮権はそれぞれエイジャックス、エレクトラ艦長に任せる」
だが、カナンシュ少将が言い終わるよりも早く、それに被せるような声がほぼ同時に見張所から聞こえた。
「左舷、敵駆逐隊接近する」
「右舷見張り、敵駆逐隊回頭中……我が方に向かっています」
アンソン艦橋の司令部要員にざわついた雰囲気が起こっていた。左右舷の見張員はそれぞれ別の駆逐隊を観測しているようだった。どうやら、フランス艦隊はこれまで温存していたと思われる大型駆逐艦で編成された2個の単縦陣を投入するつもりになったらしい。
それぞれ2,3隻程度で構成された小規模な駆逐隊とはいえ無視は出来なかった。フランス海軍の大型駆逐艦は他国列強の駆逐艦よりも大口径の主砲を有することなどから、概ね小型巡洋艦といってもよい戦力を有しているからだ。
キング・ジョージ5世級に備えられた副砲は比較的大口径の両用砲だったが、砲の口径だけで言えばフランス海軍の大型駆逐艦も同程度だったはずだ。
火力差は小さいから、敵戦艦と交戦しながらという不利な状況では、2個の駆逐隊を同時に副砲群のみで制圧するのは難しく、近距離まで踏み込まれれば雷撃を受ける可能性は高いのではないか。
―――依然として駆逐隊による雷撃は、敵戦艦に対して状況によれば有効な戦術なのではないか……
笠原大尉は、マルタ島沖海戦における友軍水雷戦隊による不調などを原因としたここ最近の日本海軍内部における水雷襲撃に対する否定の強さを思い出しながらもそう考えていた。
少なくとも、戦艦が単独でこれを制圧する火力を有しなければ、貴重な主砲火力を敵戦艦と交戦中に振り分けなければならないことに変わりはないからだ。
もちろん、その程度のことはカナンシュ少将も理解していた。眉をしかめながら少将は言った。
「先程の巡洋艦、駆逐隊に対する命令を変更、巡洋艦群は分離、エイジャックス、シドニーは敵巡洋艦群を追跡、オーロラ、ペネロープは本艦右舷、駆逐隊は本艦左舷の敵駆逐隊接近を阻止せよ。
アンソン、ハウの副砲群は友軍駆逐隊を支援せよ」
カナンシュ少将の判断は苦渋の策だった。本来防空巡洋艦として建造されていた2隻のアリシューザ級軽巡洋艦はともかく、旧式の小型艦ばかりが集められた友軍駆逐隊でフランス海軍の大型駆逐艦と渡り合うのは困難ではないか。
2隻のキング・ジョージ5世級戦艦の副砲群の支援もどこまで有効か、敵戦艦と交戦中ではそれもわからなかった。
それに、こちらの副砲群が駆逐隊を支援するということは、相手も同様なのではないか。
笠原大尉の予想はあたっていた。カナンシュ少将が命令を下した直後に敵戦艦の方向に閃光が見えていた。一瞬、もう主砲が発砲を開始したのかと思ったのだが、大口径主砲の発砲の割には迫力が小さい気がしていた。
それにフランス海軍新鋭戦艦は主砲を艦橋前方に集中配置していたが、閃光はいずれも艦体後部から発せられていた。主砲の代わりに艦橋後部の狭い空間に押し込められた副砲群が射撃を開始したのだろう。
副砲群とはいえその火力は無視できなかった。リシュリュー級戦艦であれば、先程までアンソンと交戦していたラ・ガニソエール級軽巡洋艦と同じ15.2センチ砲を装備していたし、ダンケルク級であっても高角砲にしては大口径の、大型駆逐艦に匹敵する副砲を備えていたはずだ。
その装備数もそれなりにあったから、敵戦艦2隻の副砲火力だけでも巡洋艦1、2隻程度はあるのではないか。戦艦というより安定した艦体に設置されていることを考慮すると巡洋艦主砲よりも命中精度は高いかもしれなかった。
敵戦艦の副砲群の発砲からしばらくして、伝令が言った。
「エイジャックスから入電、我砲撃を受ける」
司令部要員の誰かが唸るような声を上げた。
「蛙野郎共め、俺たち全艦を相手にするつもりか……」
フランス人を口汚く罵る声にあからさまに同調するものはいなかったが、確かにフランス艦隊はK部隊の戦力を制圧しつつも、残存する重巡洋艦と思われる艦隊を離脱させようとしているようだった。
巡洋艦群のみでコルシカ島に残留する輸送船団を襲撃させるためではないか。
船団直掩の護衛隊の戦力は、K部隊の空母直掩に残された駆逐隊を含めても貧弱なものでしか無かったから、巡洋艦群単体でこれを排除して輸送船団に大打撃を与えるのは不可能ではないだろう。
状況は緊迫していたが、笠原大尉は違和感を抱いていた。副砲群の連続射撃によって僅かに照らし出された敵艦の形状が妙な気がしていたのだ。
閃光が副砲群の配置を明らかとしていたから、今では艦種の識別も可能だった。どうやら敵1番艦はリシュリュー級戦艦、2番艦はそれよりも一回り小さなダンケルク級戦艦であるようだった。
この2隻の組み合わせというのも奇妙だった。これまでの戦闘では、リシュリュー級とダンケルク級はそれぞれ2隻づつで戦隊を構成してるようだったからだ。
これまでの戦闘で国際連盟軍に撃沈された艦もあったから、同型艦のみで戦隊を編成出来なかったとも考えられるが、シチリア島沖での戦闘では、リシュリュー級戦艦は2隻とも離脱していたはずだった。
だが、今目の前にいるリシュリュー級戦艦は、確かにたった一隻の僚艦としてダンケルク級を率いていた。それに、この戦局で予備兵力を本土に残しているとは思えなかった。
―――もう一隻のリシュリュー級戦艦は、修理が間に合わなかったということか……それともシチリア島での戦闘では思ったよりもフランス艦隊に深手を与えていたのだろうか。
当時K部隊の旗艦だったキング・ジョージ5世の艦橋から見たリシュリュー級戦艦の姿を思い出しながら笠原大尉はそう考えていた。
それに、これまでK部隊と交戦していなかったにもかかわらず、敵戦艦の形状にはどこか違和感を感じさせるものがあった。副砲群の発砲による一瞬の閃光に照らし出されているだけだから敵艦の詳細は判然としないのだが、それでも双眼鏡の視野で艦体の一部が黒ずんでいるように見える箇所があった。
それだけではなかった。盛んに連続発砲しているように見える敵戦艦の副砲群の中に発射間隔が明らかに他の砲塔よりも間延びしているものもあった。閃光の間隔が他と違うものだから、敵戦艦の姿は常に照らし出されているようだった。
もしかすると、敵戦艦にはすでに航空隊か島風による攻撃が加えられていたのかもしれない。
もちろん、それがアンソンとハウにとって安全に繋がるとは限らなかった。様子を見る限り主砲射撃に支障がありそうなほどの損傷はないようだったからだ。
敵戦艦は剣呑極まりない主砲をこちらに向け終えていた。アンソンもハウも敵軽巡洋艦を制圧し終えたばかりで、即座にこれに対応することは出来なかった。
ひどく緊張した雰囲気のアンソン艦橋に、どことなく間の抜けた声が聞こえたのはそんな時だった。戸惑ったような表情の艦橋伝令がいった。
「通信指揮所からです。島風よりの近距離周波数帯使用の通信を受けるとのこと」
「島風、だと……あの艦はまだ退避していなかったのか。もう主砲弾も残されていないのではないか……」
参謀の一人がそれを聞いて戸惑ったような声につぶやくように言ったのが妙に大きく聞こえていた。
だが、奇妙なのはそれだけではなかった。艦橋伝令は通信内容を続けなかったのだ。殺気立った様子の多くの司令部要員からの視線を受けた艦橋伝令は、戸惑ったような声で、通信指揮所に繋がる艦内電話を握りしめながらいった。
「通信内容の詳細は不明……通信長は多分日本語で喋っているのではないかと言っていますが……」
笠原大尉は唖然とした表情でそれを聞いていた。中国大陸やシベリア―ロシア帝国などへの派遣経験をもつ英国海軍士官の中には日本語を流暢に解するものも少なくないだろうが、K部隊に配属された日本人は連絡将校の自分だけだったからだ。
普通に考えれば緊急の要件を自分に向けていると思われるが、何も事前連絡せずに日本語でK部隊に向けて発信するのは非常識だった。
―――それとも、島風はそんな事を気にする余裕すらなくなっているのか。まさか自沈する前の決別の電信でもないだろうが……
今度は自分に向けられた艦橋内の険しい視線を感じながら、笠原大尉は艦橋伝令に代わって通信指揮所への艦内電話を受け取ろうとしていた。
だが、笠原大尉が艦内電話の受話器を受け取るのよりも早くアンソン艦橋の窓から激しい閃光が相次いで入り込んでいた。慌てて大尉が振り返ると、敵戦艦の主砲の砲口から赤黒い砲口炎が今まさに湧き上がっているのが見えていた。
流石にキング・ジョージ5世級戦艦の主砲塔が目の前で発砲していたときに比べればささやかなものだったが、それでも敵艦主砲の発砲による閃光は、副砲や軽巡洋艦の主砲などによるそれを圧倒する力強さがあった。
笠原大尉は遥か彼方の敵艦から周囲を圧する雷鳴のような轟音が聞こえたような気がしていた。もちろん閃光と同時にそんなものが聞こえるはずはないのだが、激しく立ち上る砲口炎にはそのような気配まで感じられたのだ。
この距離では、敵艦の主砲弾が弾着するまであと30秒程度もないはずだった。常識的には初弾から命中するとは思えないが、あと一分もしないうちに自分という存在が消滅する可能性がある、その事実に気圧されながら笠原大尉は艦内電話の受話器を受け取っていた。
日本海軍の艦艇に乗艦しているわけではないのは残念ではあるが、敵戦艦との華々しい砲撃戦による戦死であれば武人の誉れというべきものなのかもしれない。
そのような時代錯誤な思いを浮かべながらも、笠原大尉は最後の悔いがないようにとの思いだったのか、島風からの通信を直接受けようとしていたのだ。
相手が通信指揮所であることを確認するのももどかしげに、笠原大尉は島風からの通信を直接流してもらうように頼んでいた。
違和感に気がついたのはその時だった。艦橋伝令が報告するよりも早くから島風は近距離無線を発していたはずだった。だが、通信は今も続いているらしい。決別電だとするとこれはあまりに長いのではないか。
違和感に囚われたまま、笠原大尉は唐突につながった無線の内容を聞いていた。
さが、笠原大尉は戸惑ったような顔を崩すことが出来なかった。通信内容が笠原大尉の予想していたような決別電を思わせるようなものではなかったからだ。
抑揚や口調などから相手が日本人なのは間違いなかった。しかし、その内容は遺書といってもよい決別電となる詩的なものではまったくなかった。
笠原大尉は首を傾げていた。本当にこれが島風からの通信なのか、通信指揮所に聞き返そうかと思ったほどだった。
内容はしばらく聞かないと意味がわからなかった。数字や方角と思われる散文的なその内容は、座標を知らせるようなものであるらしい。
だが、通信の最初には日本語による説明があったのだろうが、明確に数値などを読み上げるだけの今現在の無線を聞いても、笠原大尉には俄には通信の全容が把握できなかった。
―――待てよ……本当にこの島風からの通信は本艦に宛てたものなのか……
それだけでは意味をなさない数字の羅列に戸惑いながらも、笠原大尉はそう考え始めていた。
だが、笠原大尉が正解に行き着くよりも早く敵艦から放たれた主砲弾が次々と着弾していた。
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