1944コルシカ島沖海戦20
K部隊旗艦であるキング・ジョージ5世級戦艦アンソンの艦橋には、重苦しい雰囲気が漂っていた。
穏やかな地中海であるにも関わらず、アンソンの鋭く突き出された艦首によって巻き上げられた波浪が勢いよく主砲塔に降り注いでいるのが、僅かな月明かりの中で艦橋からも見えていた。
それは幻想的な様子だったが、その光景に心を奪われているものは居なかった。
日本海軍から連絡将校として派遣されている笠原大尉も焦燥感を隠せなかった。自然の滝のように美しく見える波浪の巻き上げも、大尉にはキング・ジョージ5世級戦艦の凌波性が不足していることを証明させているだけに過ぎないように思えていた。
波浪の勢いが示す通り、現在のアンソンは機関出力最大で航行を続けていた。もちろんアンソンだけではなく、残置した空母を除くK部隊主力が艦隊航行時の基準速度を越える速力を出していた。
それにもかかわらず、アンソン艦橋の要員に焦りがあったのは、すでに友軍が敵ヴィシーフランス海軍艦隊と交戦していたからだ。
アンソンが航行している位置からでも、先程から水平線を背景に銃砲弾の炸裂によって生じる明滅する激しい光が見えていた。その光の瞬きがK部隊の将兵たちをやきもきさせているようだった。
K部隊主力の先頭を行くアンソンの直後には同型艦であるハウが僚艦として付き従っており、さらにその後方には4隻の軽巡洋艦が続いていた。
巡洋艦群に駆逐艦も続いていたが、コルシカ島に残置した空母の直掩にもある程度の戦力を割かなければならないから、K部隊主力に同行している駆逐艦はわずか3隻に過ぎなかった。
しかも、笠原大尉の見た所ではK部隊の巡洋艦、駆逐艦はいずれも戦力価値がそう高いとは思えなかった。
アンソンに続くK部隊の巡洋艦はリアンダー級、アリシューザ級の2級それぞれ2隻づつの計4隻の軽巡洋艦だった。
エセクター級重巡洋艦を原型として建造されたリアンダー級軽巡洋艦は、充実した装甲に連装砲塔4基を備えた手堅い設計ながらも優美な艦型を備えていた。
ただし、リアンダー級軽巡洋艦に限らず、開戦以前に就役していた多くの英国海軍の巡洋艦は、単艦としての戦闘能力はそれほど高いとは言えなかった。
基準排水量は軍縮条約の制限である一万トンに遥かに及ばない7000トン級程度でしかないし、元々英国海軍の巡洋艦に対する整備方針は本国から遠く離れた航路帯や植民地などの警備に重点を置いたものだったから、戦闘能力を極めた日米などの大型巡洋艦との戦力差は大きかったのだ。
例えば、リアンダー級軽巡洋艦の主砲は連装砲塔4基、計8門の15.2センチ砲だったが、日米の条約型軽巡洋艦では大型の一万トン級の艦体に三連装砲塔5基、計15門をも備えた重兵装艦も珍しくなかった。
リアンダー級の次級として建造されたアリシューザ級に至っては、リアンダー級の小型版という傾向が強かったから、排水量5000トン級の艦体に備えられた主砲は僅か3基計6門でしか無かった。
これは、アリシューザ級が旧式化した小型軽巡洋艦の代替という位置づけであったためでもあった。日本海軍で言えば5500トン級軽巡洋艦と俗称される球磨型以降の軽巡洋艦や、その代替である阿賀野型軽巡洋艦に近い性格なのだろう。
英国海軍でも戦闘能力を重視した大型の軽巡洋艦が無いわけではなかった。英海軍の仮想敵である米海軍のブルックリン級などに対抗すべく建造されたサウザンプトン級以降、防空巡洋艦であるダイドー級が建造されるまでの間は一万トン級の大型軽巡洋艦が連続して建造されていた。
サウザンプトン級軽巡洋艦は三連装の15.2センチ砲塔を4基備えていたから、日本海軍の最上型軽巡洋艦などにはやや劣るものの戦闘能力はそれまでの英海軍巡洋艦と比べて格段に大きかったはずだ。
笠原大尉だけではなく、K部隊司令部要員の多くがアンソンに続く軽巡洋艦が、サウザンプトン級などの大型巡洋艦であれば良かったと考えているはずだった。
対するフランス海軍の巡洋艦は強力だった。先遣の島風からの報告では重巡洋艦、軽巡洋艦らしきものいずれも3隻ずつらしいとされていた。
戦前に確認されていたフランス海軍艦艇とこれまでの戦闘による損害や、ツーロンでの復旧工事に関する情報を突き合わせると、予想されていた数よりは多いものの、フランス海軍に残された巡洋艦でもその数で出撃行動が全く不可能というほどではないはずだった。
地中海戦線における海戦で大きな損害を被った艦もあるし、そのすべての損傷を修復し得たとは現在のフランス本国の状況からして考え辛いが、少なくとも電探による観測では速力は十分に出ているようだった。
地中海における仮想敵であったイタリア海軍に対応するために、フランス海軍の巡洋艦は准主力艦とも言うべき有力な戦闘能力を有しているようだった。
整備方針の変更等によって装甲や火力には建造時期によって大きな差があるようだが、少なくともリアンダー級やアリシューザ級のような軽装備の軽巡洋艦で互角に渡り合えるとは思えなかった。
それに軍縮条約に限定的な参加にとどまっていた事もあって、フランス海軍の駆逐艦は日英海軍の同種艦よりも備砲の口径など単艦の戦力は大きかった。
仏伊の地中海の2大海軍の巡洋艦が准主力艦として整備されていたために、本来であれば巡洋艦が担うべきだった偵察艦としての機能まで要求されていたからだろう。
日英の駆逐艦は駆逐隊を構成して群れで正面から襲撃を行うのに対して、仏伊の駆逐艦は主力艦の援護機能に優れているということになるのだろうが、単艦行動を考慮して艦型は大型だったから、周到深く獲物を付け狙うことも可能だった。
最低限の自衛戦闘能力すら期待できない輸送船団にとっては、一隻の巡洋艦よりも大型駆逐艦の何隻かの方が数が多い分だけ損害は大きくなるかも知れなかった。
この場合、K部隊の背後に控える貴重な兵員を満載した鈍重な輸送船団の存在と、確認されたフランス艦隊がいずれも高速で大型の艦艇ばかりで構成されていたことがK部隊の作戦を難しくさせていた。
輸送船団直掩が僅かな護衛駆逐艦しか無いことを考慮すれば、一隻たりとも突破させるわけには行かなかった。仮に敵戦艦を阻止し得たとしても、K部隊の方が戦力が低い為に手当が付かずに、一部の駆逐艦や巡洋艦に突破されれば、無防備な船団を欲しいがままに蹂躙されてしまう可能性もあったからだ。
おそらく、K部隊司令官であるカナンシュ少将の判断にもそのような懸念が影響を及ぼしているのだろう。笠原大尉は先程艦橋内で起こったやり取りを思い出しながらそう考えていた。
アンソンを先頭に突撃を続けるK部隊に直進を命じるカナンシュ少将の声に、艦橋内には驚いたような声のつぶやきが聞こえていた。流石にあからさまに疑いの目で見るものは居なかったが、少将の判断に納得していないものは多かったようだ。
だが、カナンシュ少将は不機嫌そうながらも落ち着いた声で続けた。
「ここで回頭はしない。敵艦隊の頭を抑えることに意味はないからだ」
司令部要員達の何人かはそれでも不満そうな顔だったが、カナンシュ少将は気にした様子もなかった。
「あの先遣艦……島風の指揮官は誤解しているようだ。ここは対馬沖ではないし、彼らはバルト海艦隊でもない。主砲を前方に集中配置したフランス戦艦に対して丁字を描くことにさしたる意味はないということだ」
しかし、参謀長はそれでも首を傾げながら言った。
「ですが、このまま手をこまねいていれば、フランス艦隊はコルシカの船団まで突撃しますよ。少なくとも、ここで奴らを足止めしないといけないでしょう」
「誰が奴らを放っておくと言った。
参謀長、足止めというが、奴らが律儀に我々に付き合って足を止めて交戦してくれるとは思えん。安全な母港から上陸地点すら放って船団を襲撃しようというのだから、奴らの決意は相当のものではないかな。
自由フランス軍もずいぶんと嫌われたものだが、貴官の言う通り放っておくわけにはいかん。
しかし、丁字を描いて敵艦隊の頭を抑えたところで、フランス艦の速力は高いから我が艦隊の後方をすり抜けてしまうだろう。今言ったように、丁字を描いてもフランス戦艦の配置上前方に指向しうる火力は低下しないのだから我が艦隊が主砲戦で制圧しきるのは難しいだろうからな。
……それに、輸送船団には装甲もないのだから、1隻の戦艦、2隻の巡洋艦、10隻の駆逐艦、どれであっても脅威は同等だろう。丁字を描いて戦艦を制圧し得たとしても、軽快艦艇を見逃しては意味がないのだ」
そこで一度司令部要員の顔を見渡すと、カナンシュ少将は続けた。
「我々はここで回頭して丁字を描くことはしない。理由はフランス戦艦の配置だけではない。射撃可能な時間が短く、また敵艦隊の中で最も装甲が厚いだろう一番艦に射撃が集中する為に、結果的に多数の軽快艦艇を討ち漏らすことになるからだ。
艦隊はこのまましばらく直進、このあたりで転舵して敵艦隊と同航戦に入る」
そういいながら、カナンシュ少将は島風から送られてきた情報をもとに敵艦隊の推測位置が書き込まれた海図の一点を示していた。
「先遣艦からの情報が正しければ、我が艦隊は敵艦隊の斜め後方から接近できるはずだ。我が艦隊は電波管制を行っているから、日本軍の航空攻撃で混乱する敵艦隊に対して奇襲となる可能性も高いだろう。
同航戦であれば射撃可能な時間は長くなるから、敵艦隊に十分な量の射弾を送り込む事が出来る」
カナンシュ少将は不機嫌そうながらもどこか自信ありげに言ったが、何人かの司令部要員は不安そうな表情で顔を見合わせていた。K部隊から敵艦隊に対して射撃が行えるということは、その逆もまたしかりではないのか。
むしろ、K部隊の方が打撃力で劣っていると思われるから不利になる可能性も高い。それ以前にK部隊が高速艦ばかりで構成されているとはいえ、フランス艦隊も戦艦を含めて速力はほぼ同等と思われるから、一度回頭したK部隊が敵艦隊に速力を合わせるのも困難だった。
そのような司令部要員の雰囲気を察したのか、カナンシュ少将はじろりと周囲を見渡しながら続けた。
「日本軍が航空攻撃に成功すれば、敵艦隊の数は減らせないまでも足止めくらいは出来るだろう。この闇で敵艦に火災でも生じてくれれば、襲撃直前までレーダーを使用する必要もないはずだ」
そう言うとカナンシュ少将は厳しい視線を艦橋から見える艦首に向けて口を閉ざしていた。
笠原大尉はふと違和感を感じて艦橋から周囲を見渡していた。その正体に大尉が気がつく前に、戦闘によるものとも思われる光が消えたという見張員の声が聞こえていた。
慌てて笠原大尉は手にした双眼鏡を砲口炎らしき光が見えていた方向に向けたが、確かについ先程まで見えていた光が消えていた。距離があるせいか光量は微かなものだったが、絶え間なく生じていたものだから、それが途絶えたことで違和感を生じさせていたのだろう。
「敵艦に……火災は生じていないのか」
司令部要員の誰かの声が聞こえていた。カナンシュ少将ではなかった。参謀長か誰かが声を上げたようだが、水平線上から光が消え失せているのだから、答えは聞くまでもなかった。
しばらくしてから、確認できないという見張員の声が聞こえた。同時に司令部要員達から失望する声が上がっていた。
笠原大尉は縮こまる思いをしていた。他の司令部要員からの突き刺さるような視線を感じていたからだ。日本海軍がこの戦闘に消極的なのは明らかだった。
接触艦である島風以外の艦艇の動向は確認されていなかったし、明日以降の戦闘を考慮していたのか、航空攻撃の規模も明らかに僅少にすぎるものだったようだ。
先程まで見えていた砲口炎からして、敵艦隊の対空砲火はかなり熾烈なものだったようだ。投入された航空隊の詳細は不明だったが、二線級の部隊である可能性は高かった。搭乗員が臆したとは考えたくないが、結果的に戦果は挙げられなかったのではないか。
接触を継続していた島風も航空攻撃と同時に敵艦隊に突入したというが、こちらも圧倒的な戦力差に早々に撃沈されてしまったのかもしれなかった。
笠原大尉はカナンシュ少将に視線を向けた。このような不利な状況をどのように少将が判断するのか、それが気になったのだ。
だが、いつもの不機嫌そうな表情ながらも落ち着いた様子でカナンシュ少将はいった。
「艦長、変針用意だ。針路は計画通り、後続艦に旗艦に続き変針するよう発光信号を送れ」
ふと気がつくと、確かに計画どおりの変針点に近づいていた。どうやら、カナンシュ少将の決心に振れは生じていないようだった。笠原大尉はそのことに妙な安堵感を覚えていた。