1944コルシカ島沖海戦13
キングジョージ5世級戦艦の4番艦として一昨年前に就役したアンソンの艦橋は高く、視界は広がっていた。アンソン艦橋から眺めていた笠原大尉の視界一杯に広がるアジャクシオ湾内には、数多くの輸送船が停泊していた。
コルシカ島西岸の中央部に位置するアジャクシオは、ナポレオン一世の治世の頃から重点的に開発が図られていたコルシカ島随一の都市だった。当然のことながら市街地に隣接するアジャクシオ港の規模も大きく、一万トン級の大型貨客船でも接舷可能な桟橋まで整備されていた。
だが、現在湾内に停泊している船団の規模は、整備された港湾の取扱能力を遥かに超えるほど大きく、アジャクシオ港の機能はとうに飽和していた。
ニースに向かう自由フランス軍主力部隊を一挙に輸送するために、船団の肥大化は避けられなかったのだ。
しかし、徴用された輸送船の型式は雑多なものだった。中には釜圧の上昇を伺わせる排煙を煙突から激しく上げているものもあったが、ほとんどの艦は出港準備が整っている気配はなかった。
勿論輸送船の中には、出港準備にあたって機関部作業の少ないディーゼルエンジンを主機とした船もあったはずだが、旧式船が大半だと聞いていたから、蒸気レシプロ機関を搭載した船の方が多いはずだ。
重量があり複雑な調整の必要なディーゼルエンジンや高価な蒸気タービンと比べると、蒸気レシプロ機関は構造が単純で保守も容易だったから、旧式船でも設備が限られる二線級の航路では使い勝手が良かったのだろう。
ただし、船団はこうした旧式船から、たまたま寄港していた新鋭船まで自由フランスの制圧圏から辺り構わずに徴用されたものだから、型式どころか航行速度や操舵性能は統一性を欠くものだった。
とてもではないが、戦時標準規格船ばかりで構築された日英間を結ぶ長距離護衛船団のように効率よく航行することはできないだろう。
このような雑多な船団が許容されたのは、コルシカ島から目的地であるニースまで200キロ程度しか距離がないことと、自由フランス軍の大部隊を一度にフランス本土まで送り込むためだった。
上陸第一波の主力である日本軍はともかく、自由フランス軍はニースに上陸すれば復路の心配はいらなかった。フランス本土に上陸さえできれば、後はその場に留まって本国を奪還するだけだったからだ。策源地となったコルシカ島やイタリア半島まで帰還する必要はないのだ。
だからこの輸送船団を構成する輸送船は多少性能に劣ったところで、ニースにたどり着ければそれで良いとされたのだ。逆にいれば、その程度まで条件を緩めて徴用対象を広げたことで、ようやく自由フランス軍主力を輸送するのに足りる数の輸送船を確保できたのだとも言えた。
輸送船団に配属されたのは、徴用船だけでは無かった。英国軍の優等輸送船も数十隻が貸与されていた。
現在、地中海に展開する国際連盟軍には、本格的な上陸戦に対応した輸送船団が2個存在していた。日本陸軍主力を積み込んで一足先にニースに向かった日本海軍輸送分艦隊と、ほぼ同程度の輸送能力を持つ英国海軍の揚陸艦隊だった。
当初に国際連盟軍が2個の輸送艦隊を整備したのは、地中海戦域で始めて本格的な上陸作戦が行われたシチリア島で、日英それぞれを主力とする2正面作戦が行われたからだった。
しかし、その後はローマやコルシカ島の制圧などに日本海軍輸送分艦隊が投入され続けたのに対して、英国海軍の輸送艦部隊は戦力の抽出が相次いでいた。
イタリア戦線を維持するための後方からの物資輸送に加えて、日英の重爆撃機部隊などが展開する英国本土を維持するために絶え間なく送り続けられる輸送船団にも多数の輸送船が必要だったからだ。
結果的に地中海に残された英国軍の優等輸送船は、その多くが海岸地帯で母船と上陸岸の部隊往復に使用される揚陸艇の運用機能を拡大した強襲輸送艦だった。
こうした強襲輸送艦は、前後甲板には多数の揚陸艇を搭載することが可能だったし、大重量の大型揚陸艇を迅速に泛水させるために重デリックが備えられていたが、基本的な形状は従来型の貨客船と変わらないものだった。
その反面で兵員輸送に特化した船内は、多数の人間を乗せるための折りたたみ式の簡易ベットなどの居住施設などが設けられていたから、純粋な輸送船として運用するのは難しかった。
それに、オーストラリアやカナダなどから英国本土に将兵を単に輸送するのであれば、上陸戦向けの強襲輸送艦ではなく、客船に類似した兵員輸送船や高速の本物の客船を転用していたから、前線から強襲輸送艦を引き抜いても使い道が無かったのだろう。
それで今回の作戦では自由フランス軍の輸送に貸与されていたのではないか。
英国海軍から貸与されたと言っても、その運用に関わる固有の乗員は英国人だったし、その指揮官は海軍予備員の士官だった。元々今次大戦初期における対独降伏時に英国に逃れていた将兵達で構成されていた自由フランス軍は海軍出身者が少なく、輸送船団の運用に長けた人材には欠けていたからだ。
だが、船団指揮官の座乗船を含めて、英国貸与船の多くは笠原大尉の視界には入っていなかった。おそらく、船団構築に長けた彼らは一足先に湾内を出て、すでに外洋で陣形を取りつつあるのだろう。
輸送能力には大差はないはずだが、日本海軍の輸送分艦隊と自由フランス軍を輸送するこの輸送船団にはその性格に大きな違いがあった。英国軍の強襲輸送艦に積み込まれた日本製の大発と同規格である搭載艇を除けば、この船団には海岸地帯への強襲揚陸能力はなかった。
それに対して、輸送分艦隊はその名称だけ見れば輸送能力を重視した補給船団や輸送船のようだったが、実際には敵海岸への強襲揚陸戦能力を持つ水陸両用部隊とでも言うべき部隊だった。
元々、日本海軍の輸送艦という艦種は物資や人員を載せるだけの艦ではなかった。単に港から港に輸送する通常の貨物船であれば運送艦と呼称しており、輸送艦は海岸地帯などへの強襲揚陸を前提とした戦闘的な艦種だった。
先の欧州大戦において、日本陸海軍は英国軍が主導するガリポリ上陸作戦に参加して大きな損害を受けていたが、各種の輸送艦はそのような戦訓を反映して建造されたものだった。
ただし、輸送分艦隊に配属された輸送艦の中には海軍だけではなく、陸軍に所属する特殊船なども含まれていた。揚陸戦用の艦艇の開発は陸海軍の協力の下で進められていたからだ。
その中には大発やこれを大型化したような特1号型輸送艦といった自ら海岸地帯に乗り上げて輸送してきた部隊などを揚陸させる座礁式のものの他に、座礁式の揚陸艇がその特殊な構造から航洋力に劣るのを補うために設計された大隅型輸送艦や陸軍の特殊船などの揚陸艇母艦も含まれていた。
また、松型駆逐艦の派生型でもある一等輸送艦などは輸送能力は歩兵1個中隊程度に限られるものの、自衛戦闘が可能な強力な砲兵装も有していた。
これに加えて揚陸艇母艦に搭載された駆逐艇や直衛の護衛駆逐艦群もあったから、輸送分艦隊は単独でも上陸部隊に対してかなりの火力支援を行うことも可能だった。
もっとも、こうした優れた上陸戦能力を有する輸送分艦隊配属の輸送艦群だったが、純粋な輸送能力でいえば通常形式の貨物船に対しては劣る部分が大きかった。
特に座礁方式の揚陸艦艇は、艦型に比して実運用時の搭載能力が限られていた。
艦首に艦内と上陸岸を結ぶ道板やその展開機構を設けなければならないためにどうしても造波抵抗が大きくなるし、上陸岸に座礁、離礁を繰り返すために艦体は重量の大きな補強材を組み込む必要があった。
それに、最大積載重量からかなり減載しなければ、喫水が深くなりすぎて海岸に乗り上げることすら難しかったのだ。
ニースに対する第2陣であるこの輸送船団が通常形式の貨物船ばかりで構成されたのはそのような理由もあった。船団の中には自由フランス軍の部隊ではなく弾薬や糧食など通常の補給物資を満載した補給船も少なくなかった。
今頃はニース市街地に隣接する港湾部も確保されているはずだった。というよりも上陸第一波である日本陸軍部隊の優先目標の一つが整備されたニースの港湾部だった。
短期間ならばともかく、長時間大軍を戦闘行動に従事させるためには膨大な物資が必要となるが、限られた能力しか持たない座礁式の揚陸艇だけで十分な量の物資を輸送させるのは不可能だった。
いち早く港湾部を復旧させて本格的な補給船団の航行を可能としなければ、強大な戦闘能力を持つ日本陸軍遣欧方面軍も補給が続かずに戦力をすり減らせるだけになってしまうだろう。
連絡将校として英国海軍K部隊司令部に派遣されている笠原大尉は思わずため息を付いていた。
アンソンと同型艦のハウからなる2隻の戦艦を主力とするK部隊は、これからこの雑多な船団を護衛してニースまで向かわなければならなかったのだ。航行距離は短くとも、気の抜けない任務になるのではないか。
日本海軍遣欧艦隊から笠原大尉が地中海艦隊主力から分派された機動部隊であるK部隊に派遣されたのは、シチリア上陸作戦の直前頃のことだったからすでに一年以上同隊で過ごしていることになる。
しかし、その間にもK部隊の編成は大きく変化していた。これは笠原大尉が赴任する前のことだが、元々K部隊は地中海戦線で英国海軍が劣勢となりアレキサンドリアに艦隊主力が後退を余儀なくされる状況の中にあって通商破壊作戦用としてマルタ島に残された部隊が原型だったらしい。
その後、戦況が好転して反攻作戦が行われる中で、鈍足のネルソン級戦艦やモニター艦を揃えて対地攻撃能力を高めた艦隊主力を援護するために、高速戦艦を中核とした当初から全く性格の異なる部隊に再編成されていたのだ。
K部隊の損耗は激しかった。友軍地上部隊の支援のために上陸岸から離れられない地中海艦隊主力に代わって、枢軸軍海軍との戦闘の矢面に立たされることとなったからだ。
高速艦が揃えられている上に、部隊の規模が艦隊主力と比べて手頃に抑えられているK部隊は、動かしやすい使い勝手の良い戦力と考えられていたのだろう。
シチリア島とローマという二度の上陸作戦に伴って生起した戦闘で、K部隊は大きな損害を被っていた。シチリア島への上陸作戦においては、上陸岸を襲撃すると思われたヴィシー・フランス海軍艦隊と交戦していた。
このとき遭遇した敵艦隊は、リシュリュー級戦艦2隻を主力とする有力な艦隊だった。これを補佐する巡洋艦以下の軽快艦艇もK部隊よりも質、量ともに凌駕していた。
結局、K部隊はこの戦闘で当時配属されていた旗艦キング・ジョージ5世が中破判定、プリンス・オブ・ウェールズ及び重巡洋艦カンバーランドが撃沈されるなど実質的に戦力をほとんど喪失するほどの損害を受けていたのだ。
続くローマへの上陸作戦では、大規模な補充を受けたK部隊は地中海艦隊主力から遠く離れた海域で行動していた。
英国軍は助攻であるイタリア半島の爪先にあたるカラブリア州への上陸を担当していたが、戦後の政治的な発言権などを考慮したのか、イタリア王国首都であるローマへの進攻作戦にK部隊を派遣していたのだ。
当時のK部隊はキング・ジョージ5世が後方に送られたものの、代わって配属されたのもキング・ジョージ5世級戦艦のアンソン、ハウ、それに旧式ながら速力の高いクイーン・エリザベス級ウォースパイトの3隻の戦艦を主力としていた。
ローマへの進攻作戦では、上陸部隊に先行して空挺部隊がローマ郊外に降下していた。彼らは後続部隊の為に飛行場などの要地を確保するのが任務だったが、輸送機からの降下や、滑空機では大重量、長射程の火器を持ち込むのは難しかった。
高速艦で構成されたK部隊に与えられた任務は、鈍足の輸送艦と共にローマを目指す日本海軍遣欧艦隊に先行してローマ沖に達して、脆弱な空挺部隊を海上から援護することだった。
しかし、ローマ沖でK部隊を待ち受けていたのは日英の空挺部隊だけではなかった。ドイツ空軍の重爆撃機部隊が高々度から襲撃をかけて来ていたのだ。
通常であれば重爆撃機による高々度からの水平爆撃は、高速で機動する艦隊には大した驚異となりえないはずだった。
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