1944コルシカ島沖海戦10
島風型駆逐艦の計画が開始されたのは、イタリアの脱退や今次大戦の勃発で軍縮条約の無効化が明らかとなると共に、日本海軍が参戦に備えた軍備拡張を開始した頃だった。
実際には、このとき計画された駆逐艦は島風型だけではなかった。甲乙丙丁の四種類もの駆逐艦がほとんど一斉に計画されていたからだ。
これは異様なことだった。これまでにも日本海軍の駆逐艦整備計画が平行していたことはあった。大型の一等駆逐艦と排水量千トン未満の小型で安価な二等駆逐艦が並列して整備されていた時期があったのだ。
だが、そのような並列態勢は大正年間に限られていた。日露戦争後は米海軍を仮想敵とした日本海軍は、駆逐艦にも外洋航行能力を重要視しており、一等駆逐艦に類似しながらも艦型が過小で外洋での作戦に従事することが難しい二等駆逐艦は使い途が限られていたからだ。
その後は軍縮条約の制限を逃れるために、小型駆逐艦とも大型魚雷艇ともとれる水雷艇の整備が日本を含む各国で行われていた時期もあったが、やはりこれも短期間で実質的に終了していた。
軍縮条約の規定を逃れるためには、かつての二等駆逐艦をも下回る基準排水量600トン以下に抑えなければならなかったが、その程度の排水量ではどれだけ重装備を施したところで近海防衛用の補助戦力にしかならないからだ。
現在でも一等駆逐艦の呼称は残されているものの、駆逐艦の大型化に伴って結局の所は新造される駆逐艦は全て一等駆逐艦に類別されているのが実情だった。
しかし島風型と同時期に計画された甲乙丙丁の四種類の駆逐艦は、そのような価値の大小で分けられたものでは無かった。求められている任務そのものが違ってたからだ。
最初に上げられた甲型駆逐艦は、水雷戦隊などに配属する従来型の駆逐艦に他ならなかった。実際、甲型駆逐艦として建造された陽炎型駆逐艦はそれ以前の朝潮型駆逐艦の発展型とも言える艦だった。
これに対して乙型駆逐艦の構想はこれまでの日本海軍の駆逐艦とは大きく異なっていた。そもそも計画が開始された当時は駆逐艦となる予定すらなかったからだ。
最終的に秋月型駆逐艦として完成する乙型駆逐艦は、近年の航空技術の著しい発展を受けて戦艦や空母部隊の直掩防空艦として整備されたものだった。当初は雷装を廃して兵装を高角砲に絞る案もあったのだ。
条約規定上はともかくとして、仮に初期計画のまま建造されたとしても、雷装を有さないそのような艦を駆逐艦に類別することは出来なかっただろう。
結局は秋月型は空母部隊直掩時の対水上戦闘などを考慮してある程度の汎用性が求められた結果として雷装が施されたものの、魚雷発射管は四連装1基のみとなり、射線数が陽炎型の半数で速力も低いことから雷撃戦には不利だった。
ただし、駆逐艦としては多い4基が搭載された連装砲塔に備えられたのは高角砲とはいっても発射速度、初速共に高い長10センチ砲だったから、ろくな装甲のない駆逐艦などが相手であれば手数の多さを生かして有利に戦闘を行うことも可能だとされていた。
そしてこの中だと丁型駆逐艦案はある意味で異様なものだった。戦時における喪失を考慮して、性能よりも量産性を最優先して計画されていたからだ。実際にその建造計画は従来の駆逐艦というよりも艦政本部と逓信省管船局が立ち上げた戦時標準規格船に近いものだったらしい。
艦政のことは水雷科士官の駒形中尉にはよく分からなかったが、松型駆逐艦の定規で引いたような直線の目立つ構造や電気溶接の多用は、確かに今も日本本土で続々と就役しているという戦時標準規格船の印象に近かった。
丁型駆逐艦として就役した松型駆逐艦は、他の駆逐艦整備計画と比べると、主力である一等駆逐艦の補佐的な任務を行うという意味では、基準排水量は千トンを超過しているものの以前の二等駆逐艦に近い性格を持たされていた。
命名基準も、気象などから取られた他の一等駆逐艦とは異なり、かつての二等駆逐艦に準じた植物名だった。
ただし、松型駆逐艦は長距離の船団護衛に従事する例が多かったが、英国海軍で同様の位置づけにあるとされるハント級駆逐艦などとは異なり当初から雷装を有していたから、場合によっては代用の艦隊型駆逐艦として運用することも不可能ではなかった。
主砲も水平射撃用ではなく、旧式ながら実績のある12.7センチ高角砲を搭載していたから限定的な対空艦としての能力もあった。
このような松型駆逐艦ほどでは無いにせよある程度の量産が行われた他の駆逐艦類別とは異なり、丙型駆逐艦は実質的には実験艦として島風ただ1隻が建造されただけだった。
当初は場合によっては島風型かその改良型を水雷戦隊向けの駆逐艦として量産する可能性もあったそうだが、建造後に島風がたどった経緯からしても、同型、あるいは同様の性能を要求される駆逐艦が建造されることは今後もなさそうだった。
丙型駆逐艦は、元々水雷戦闘を重視して計画されたものだった。その点だけを見れば水雷戦隊に配属される甲型駆逐艦に類似しているようだったが、実際には同型とは性能要求上の差異が少なくなかった。
元々の計画では搭載された魚雷発射管は5連装3基、計15射線というこれまでにないほどの重雷装だったし、速力も39ノットという甲型駆逐艦よりも高い要求が出されていた。
ただし、同時発射雷数は大きかったものの、甲型駆逐艦とは異なり予備弾庫と装填装置を兼ねた次発装填装置の搭載要求は無かった。水雷戦に特化しているとは言え、その性格は従来型駆逐艦である甲型駆逐艦とは微妙に異なっていたのだ。
あるいは、本来要求されていた島風は、漸減邀撃作戦の中に組み込まれていたことで歪に進化していた日本海軍の駆逐艦を原点に立ち返らせようとしていたとも言えるかもしれなかった。
当初想定されていた島風の戦闘法は、高速の敵艦に対して夜間に肉薄して必中の雷撃を敢行することだった。昼間時の戦隊単位での水雷襲撃を兼ねるために次発装填装置を備えた甲型駆逐艦とはその点が異なっていたのだ。
甲型以上の要求性能が出された速力も、優位に雷撃戦を行うためだった。あるいは、軍令部などでは日本海軍の従来型駆逐艦に対して速力の不足に関して危惧されていたと言っても良かった。
速力要求は、軍縮条約明けに米海軍が計画しているという新鋭戦艦の速度性能に関する情報がもたらされたことから引き上げられた項目だった。
日本海軍が仮想敵とする米海軍の戦艦群はいずれも比較的鈍足の艦ばかりだった。装甲や砲力を重視した結果、機関出力がそれほど高くならなかったのだろう。
米海軍には4万トン級の巨体ながらも33ノットという駆逐艦並の高速性能を持つレキシントン級巡洋戦艦があったが、その数は少なかったからさほど大きな脅威とは思われなかったのだ。
だが、米海軍の新鋭戦艦は情報によれば最低でも27ノット程度という近代化改装後の日本海軍の戦艦と同等の高速性能を有するとされていた。レキシントン級巡洋戦艦の後継となる高速戦艦だとやはりその速力は30ノットを有に超えるという未確認情報もあった。
このような高速艦に対する雷撃は難しかった。雷撃時に理想的な射角を取るためには、目標艦よりも格段に高速で航行しなければ射点につくことすら難しいからだ。
従来の、重装備化によって速力が次第に低下していった水雷戦隊向け駆逐艦ではすでに速力が不足しているのではないかと考えられていたのだ。
そのような高速の戦艦に対抗するために丙型駆逐艦の速力は高いものが要求されていたのだ。ただし、それには革新的な設計が必要だった。
漫然と機関出力の増大を行うために主缶の増載などを行えば際限なく艦体が巨大化していくから、もはや大型駆逐艦どころか取得価格の高い小型巡洋艦の域に足を踏み入れてしまうだけだったろう。
結局、島風では従来よりも格段に蒸気質の改善が図られていた。高温、高圧の蒸気によってより効率的で軽量な機関区画が設計されていたのだ。
島風のそのような当初の計画案は、駒形中尉にとって理想的な駆逐艦の姿に思えていた。中尉が海軍を目指したのは、日露戦争を経験した退役軍人である近所の老人の昔話に憧れたからだった。
その老人は日本海海戦に駆逐艦の乗員として参加していた。老人の話はいつも取り留めの無い自慢話に過ぎなかったが、老人が乗り込んだ駆逐艦を含む駆逐隊が隊列を組んでロシア海軍の戦艦を襲撃したのは事実だったらしい。
まるで昨日の話のように、老人は少よく大を制すと言わんばかりに、巨大な敵戦艦にちっぽけな駆逐艦が緻密な隊列を組んで高速で肉薄する様子を幾度も村の子供達に繰り返していたのだ。
最後の方になると子供たちの多くは同じ話に飽きて老人の話に相槌もうたなくなっていたが、駒形中尉だけは目を輝かせて老人に話をせがんだものだった。
そのような憧れが駒形中尉を海軍軍人、それも水雷科の士官を志願させるきっかけとなっていたのだが、実際には中尉が任官する頃にはそのような典型的な夜間水雷襲撃に対して疑問が呈されるようになっていた。
敵艦を探知する手段が肉眼に限られる時代であれば、夜闇に紛れて雷撃のために肉薄することも不可能ではなかったのだろうが、実際には2年前のマルタ島沖海戦で明らかになったように、電探技術の発達によって夜間であっても遠距離から襲撃を行う敵艦の姿を探知する事が可能となってしまっていた。
マルタ島沖海戦では、友軍戦艦群の反対側から敵艦隊に回り込んでいた雷撃隊は、早々に発見されて有力な敵巡洋艦群によって迎撃を受けることとなった。
雷撃隊主力の水雷戦隊は、支援の友軍巡洋艦の尽力で敵護衛艦艇を突破したものの、不利な戦闘を続ける友軍巡洋艦部隊を早期に救援するに、早々に魚雷発射を行い反転していた。
また長大な射程を保つ酸素魚雷の特性から敵艦から見て反対舷側で戦闘を続けていた友軍戦艦群への誤射を恐れるあまりに、超長距離からの雷撃を余儀なくされていたのだ。
戦前の想定に比べると、投入された雷撃隊の戦力に対して戦果は小さく、同時期に陸上航空部隊の主力とされていた一式陸攻隊がプロエスティ油田地帯への爆撃作戦で大きな損害を出してしまったことと合わせて、雷撃という攻撃手段そのものに対する疑問が日本海軍の中で大きくなっていたのだ。
マルタ島沖海戦に投入された駆逐艦は従来型のものだったが、仮にそれらが全て夜間雷撃戦により特化した島風型と入れ替えられていたとしても、その結果に大きな違いが出ていたとは思えなかった。
島風の速力がいくら大きいとしても、迎撃に出てくる敵巡洋艦から放たれる主砲弾よりも早いわけではなかったからだ。
電探技術は夜間であっても長距離捜索、射撃管制を可能とすることで戦艦などの大口径砲の運用を容易にさせる一方で、雷撃に関しては大きな障害となって立ちふさがっていたのだ。
その頃になると、丙型駆逐艦、島風型の建造計画に関して疑問が呈されるようになっていた。水雷戦闘には大きな期待が掛けられていたが、その反動も大きかったようだ。
勿論、喫水線下に直接打撃を与えることの出来る魚雷という攻撃兵器そのものの威力が減少したわけではなかった。艦型から大口径砲を搭載できない以上は駆逐艦に搭載しうる最大威力の兵器であることも変わりない。
だが、日本海軍の中で航空雷撃を含む魚雷攻撃という手段に対する整備の優先度が低下するのは間違いなかった。おそらくこれから先の日本海軍の駆逐艦は対艦戦闘に特化したこれまでの様式を改めて、対空、対潜能力含めた汎用性を追求した艦艇となっていくのだろう。
実際、そのような傾向はすでに表れていた。これまでの甲乙といった駆逐艦整備計画の垣根が曖昧なものになっていたのだ。
例えば、量産型駆逐艦として整備されていたはずの松型駆逐艦だったが、マルタ島沖海戦などにおける駆逐隊の消耗に対応して、従来の計画とは異なり水雷戦隊に配属される艦も出てきていた。
当初は単なる甲型代用としてのものでしかなかったのだが、最近では松型駆逐艦の発展型として性能を向上させたものも出てきていた。
松型駆逐艦は基本計画の当初から派生型の設計を考慮されており、建造時のブロックを入れ替えるだけである程度の用途変更が可能とされていた。
基本型は汎用性の高い駆逐艦だったが、高角砲を増備した対空型や、機関部の削減による艦内余剰空間の捻出や後部甲板に特型運貨艇の搭載を行って高速輸送艦としたものもあった。
最近になって、松型駆逐艦の基本設計を活かしたまま能力を向上させたものが水雷戦隊に配属されているらしい。
駒形中尉も詳細は知らないが、従来型の駆逐艦と同じく複数の多連装の魚雷発射管を備えた上に、島風に搭載されたものの技術を適用した高温高圧の主缶を搭載することで工数を削減したまま甲型駆逐艦同様の能力を得ていたのだ。
しかも、その主砲は最近の日本海軍で標準の両用砲となった感のある連装の長10センチ砲だったから、従来の甲型駆逐艦よりも対空戦闘能力は優れていたほどだった。
こうなってくると、もはやその艦は丁型である松型駆逐艦の設計を流用した甲型駆逐艦と乙型駆逐艦を兼ねるものものになってきていると言えるのではないか。
島風の改設計が行われたのは、そのような情勢からだった。純粋な丙型駆逐艦の初期設計案として就役したところで、僚艦のない島風には当てはめるべき役割は実験艦としてのものでしかなかったからだ。
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