1944コルシカ島沖海戦9
対水上電探に南方から反応が入った。艦橋から離れた艦体後部に設けられた指揮所から入ったそのような報告に、駆逐艦島風の艦橋に詰めた要員の多くは違和感を感じていた。
水雷長の駒形中尉も首を傾げていた一人だった。誤認ではないか、中尉の耳には艦橋内で誰かがそのように呟く声も聞こえていた。
無理もなかった。艦橋内に詰めていたものに限らず、島風乗員の多くが最初に反応があるとすれば、対空捜索電探によるものになるだろうと考えていたからだ。島風に搭載された対空捜索電探にはそれ程の性能があった。
ただし、島風の乗員すべてがそのことに喜んでいたわけではなかった。水雷科員や砲術科員の多くは、駒形中尉のように面白くない思いをしているのではないか。
この時、島風はフランス南東部に位置するニース南方の海域を哨戒のために遊弋していた。日本陸軍遣欧方面軍を中核として行われているニースへの上陸作戦を援護するためだった。
島風は、上陸地点やその近海で待機する輸送艦や航空母艦、上陸部隊を火力で支援する戦艦群などへの襲撃を警戒するために、現時点で航空哨戒の穴となっているニース南方に展開していたのだ。
哨戒任務につく島風に僚艦はおらず、単艦で行動していた。それどころか、展開海域は上陸地点であるニースと出撃根拠地となったコルシカ島とを結ぶ航路とも微妙にずれていたから、周辺の海域には友軍の気配すらなかった。
島風に僚艦がないのは哨戒任務についていたからだけではなかった。現在、島風はただ一隻が直属艦として航空分艦隊に配属されていたからだ。
通常であれば日本海軍の駆逐艦は4隻程度の数で1個駆逐隊を編成していた。単艦行動の機会が多くなる船団護衛部隊配属の艦でもこの原則に変わりはなかった。部隊としてまとまって行動することが無かったとしても、編成表の上では駆逐隊に所属していたのだ。
駆逐隊の編制そのものは、必ずしも4隻が定数と決まっていたわけではなかった。
対艦任務を与えられた一線級部隊である水雷戦隊では、損害がない限りは4隻編制の駆逐隊が4個に旗艦である軽巡洋艦を加えたものが概ね定数となっていたが、航空母艦部隊である航空戦隊指揮下の駆逐隊では2隻程度で構成されるのも珍しくはなかった。
遣欧艦隊が欧州に派遣された当初は、1個の航空戦隊に駆逐艦単艦で配属される例もあった。
その当時は駆逐艦による対空射撃能力はさほど要求されておらず、主な任務は離着艦に失敗した航空機搭乗員の救出任務であるいわゆる蜻蛉釣りや、着艦進入中の友軍機に母艦との位置関係を知らせるいわば自走式の航路標識といった補助的な任務しか期待されていなかったからだ。
だから航空戦隊配属の駆逐艦は、軍縮条約期以前に建造された旧式艦ばかりだったのだ。
しかし、そのような牧歌的とすら言える補助的な任務のみが航空戦隊配属の駆逐艦が与えられていた時期は、それほど長くはなかった。マルタ島を巡る地中海の戦闘でドイツ空軍による激しい航空攻撃を受けた第一航空艦隊は、赤城、龍驤の2隻の空母を立て続けに失っていたからだ。
航空戦隊配属の駆逐隊は、航空母艦自身が装備する対空火器と並んで航空戦隊を守る最後の砦として増強が強く求められていたのだ。
幸いなことに、この時期日本本国では今次大戦開戦に前後して計画されていた防空駆逐艦である秋月型駆逐艦が就役し始めていた。
また、量産性や建造時期の短縮を図って建造されていた松型駆逐艦は、充実した対潜、対空兵器や外洋で運用するのに足りる航続性能を持つことから、主に日本本土やアジア圏の植民地などから英国まで向かう長距離船団の護衛部隊に充足される一方で、雷装を廃して対空火器を増設した対空型とでも言うべき派生型の建造も行われていた。
高価な対空火器や高射装置に加えて基準排水量で三千トン近い大型駆逐艦である秋月型は建造費が高く、建造期間も長いが、すでに量産体制の整っている松型駆逐艦の建造計画に組み込める同艦派生の防空型は多少性能に劣ったとしても早期に数を揃えることが可能だった。
結局、秋月型駆逐艦に並んで防空型の松型駆逐艦などが、航空戦隊配属の駆逐隊に急速に配備が進められていた。すでに航空戦隊配属であっても駆逐隊の定数は4隻を維持するのが常識的となっていた。
これに航空戦隊直属ではないものの、実質的に空母部隊直掩となる軽巡洋艦などで編成された戦隊を加えれば、相当に防空戦闘能力は強化されていたはずだった。
単に高角砲を搭載した防空艦の数が増大しただけではなかった。航空分艦隊直属の巡洋艦部隊は、索敵用の水上偵察機を集中配備した利根型軽巡洋艦を除けば、防空火力を増強した防空巡洋艦で構成されていた。
特に新鋭の防空巡洋艦である米代型軽巡洋艦は、一万トン弱の余裕のある艦体に秋月型駆逐艦3隻分に相当する12基もの連装高角砲塔や長距離捜索、射撃指揮用の電探に加えて、艦隊の防空戦闘を指揮するための防空指揮所を備えていた。
以前特設巡洋艦で実験されていたというこの指揮所は、各種電探などから得られた情報を集約して、指揮官に目視では得られない範囲の戦況を図示することが可能だという話だった。
この防空指揮所によって、米代型軽巡洋艦は艦隊規模の防空戦闘をこれまでよりも遥かに効率よく進める事が可能だった。
例えば、これまでは直掩機は艦隊上空で目視に頼るしかなかったのだが、防空巡洋艦座乗の指揮官の判断で艦隊より敵編隊の予想飛来方向に前進して配置することが出来るから迎撃にも時間的な余裕が生まれるし、艦隊陣形を正確に図示出来れば、防空艦のすきを極限することも出来るはずだ。
航空分艦隊の指揮は、通常は旗艦に指定された航空母艦に座乗する分艦隊司令官によって当然行われるのだが、防空戦闘に限れば防空巡洋艦座上の戦隊司令官に委ねられていた。
一歩間違えば指揮権の混乱を招きかねない前例のない処置だったが、それだけ米代型軽巡洋艦に設けられた防空指揮所の能力には期待がかけられているということではないか。
防空火力の強化はこうした装備面での改良だけではなかった。防空能力だけに限らないのだが、遣欧艦隊ではマルタ島沖海戦時の指揮統率上の混乱や、これまで以上に状況の錯綜が予想される上陸作戦の実施を控えて、昨年度頃から分艦隊という新たな指揮系統の導入が図られていた。
それまでの遣欧艦隊は、第一航空艦隊の司令長官である南雲中将の指揮下に、本国から送られた増援部隊の戦隊が配属されて増強が図られていた。
だが、戦隊司令官と航空艦隊司令部の中間には指揮系統が存在しなかったから、続々と配属されるすべての戦隊を、単一の司令部が直率する事になっていた。
しかし、予め十分な時間をかけて策定された戦策に従っている間はともかく、変則的な事態が発生した場合はこのような司令長官に権限が集中している体制は脆弱極まり無かった。
駒形中尉はその当時は本土にいたから詳細は知らなかったが、マルタ島沖海戦で発生した夜戦においては、南雲中将が直率する戦艦群はともかく、別動の巡洋艦、水雷戦隊からなる水雷襲撃部隊や、後方に残置されていた航空部隊との間に指揮統率上の齟齬が発生していたらしいと聞いていた。
艦隊司令部と戦隊司令部の中間司令部となる分艦隊制度は、そのような指揮統率の問題に対応するために導入されたものだった。一人の艦隊司令長官に集中する権限を分散することで、刻々と変わる状況に柔軟に対応する事が可能となると思われたのだ。
現在、第一航空艦隊は参戦以来司令長官を務めていた南雲中将から高橋中将に指揮官が代わっていたが、これまでの方針に変わりは無かった。
今回のフランス本土への上陸作戦支援にあたって、第一航空艦隊は陸軍部隊などを乗せた輸送艦群とその直掩艦からなる輸送分艦隊を除くと、戦艦分艦隊、航空分艦隊、巡洋分艦隊という三個部隊に分かれていた。
各分艦隊の編成は、名で体を表すというのにふさわしかった。戦艦分艦隊は主力となる戦艦群に護衛となる巡洋艦戦隊を随伴させたもので、島風が配属されている航空分艦隊は、多数の大型正規空母からなる航空戦隊を中核に、直掩艦や支援の給油艦などを付属させたものだった。
このような艦種別に別れた編制そのものには前例があった。連合艦隊直下の第1、第2、第3艦隊の内実も同様のものだったのだ。
第1艦隊は主力である戦艦群に護衛を兼ねた巡洋艦、水雷戦隊と小規模な航空戦隊を配属させたものだったし、最近になって再編成されていた第2艦隊は空母部隊に他ならなかった。
つまり各分艦隊とは第一航空艦隊に配属された部隊を、本国の各艦隊と同じような構成に組み直したものだと考えればよいのではないか。
だが、第一航空艦隊の指揮下に置かれた各分艦隊は、本国の艦隊のように固定化されたものではなかった。状況に応じて柔軟に部隊の構成を変化させるものだった。
そのような対応が可能なのは、戦隊や上位の艦隊が永続性をもつ固定された組織であるのに対して、分艦隊は艦隊司令長官の権限で各戦隊などを一時的にまとめたものに過ぎないからだ。
例えば、大規模な水上戦闘が予期されている場合は、戦艦分艦隊を射撃隊として敵主力に当てると共に、巡洋分艦隊を別働隊として運用することになるはずだった。
両者の立場は並列して対等ということになるが、作戦の都合上で分艦隊司令官が別の分艦隊を併せて指揮する可能性はあったし、分艦隊を飛び越えて戦隊が配属される場合もあるはずだった。
水上戦闘であれば、空母分艦隊はおそらく巻き添えを避けて退避することになるが、同分艦隊の戦力が十分であれば、増援として軽巡洋艦の戦隊などを巡洋分艦隊の指揮下に預ける場合もあるだろう。
このような分艦隊の役割を今次大戦における海上戦闘に当てはめた場合、おそらく最も多忙になるのは巡洋分艦隊のはずだった。水上戦闘時には戦艦群と協同で雷撃戦を行うことになるはずだが、防空戦闘の場合は空母部隊の護衛にも回されるはずだったからだ。
その名に反して巡洋分艦隊は支援火力と艦隊指揮艦となる重巡洋艦で編成された戦隊以外にも多数の駆逐艦を含む水雷戦隊で編成されていた。
水雷戦隊にも巡洋艦が固有に配属されていたが、戦隊旗艦となる軽巡洋艦一隻だけだったし、配属される艦は最上型や利根型のような条約規定による大型軽巡洋艦ではなく、偵察巡洋艦から発展した本来の意味合いでの軽巡洋艦に限られていた。
巡洋分艦隊の主力は水雷戦隊に配属された駆逐艦に他ならなかった。極論すれば分艦隊に配属された巡洋艦戦隊や、水雷戦隊旗艦の軽巡洋艦は、強力な雷撃能力を持つ主力である駆逐艦を敵主力に突入させるための支援戦力に過ぎない。それが水雷士官の駒形中尉の考えだった。
ただし、日本海軍の駆逐艦は他国列強と比べても大型で有力な水雷兵装を備えるとは言え、単艦での戦闘能力は限られていた。駆逐隊を構成して集団で戦闘を行うのはそのためだった。
4隻単位の駆逐隊であれば、小口径の駆逐艦備砲でも数が揃うことで大型艦でも無視できなくなるし、射線も増えるから魚雷の命中率も上昇するからだ。
だが、駆逐隊を構成するのは基本的に同型艦か準同型艦に限られていた。
開戦前の日本海軍水雷戦隊は夜間における敵主力艦隊への水雷襲撃を重視していたが、視界の効かない夜間に統制雷撃に必要な緻密な艦隊行動を連続して行うには、長年の訓練によって培ってきた乗員の高い練度と共に、僚艦と類似した操艦特性が必要だった。
もしも著しく操舵性や速力などの特性が異なる艦で駆逐隊や戦隊を構築した場合は、急回頭や加減速の度に針路がぶれて最悪の場合は僚艦と衝突が相次ぐのではないか。
その場合、島風は今後もどこかの駆逐隊に編入されることは無さそうだった。管理の問題で性能の異なる僚艦と一纏めに扱われる可能性は否定できないが、揃って艦隊運動を行うことはないだろう。
駒形中尉は忌々しい思いをしながら振り返って、島風をこんな海域で単艦行動させることとなった原因である長距離捜索用の電探を見つめようとしていた。
島風型駆逐艦の設定は下記アドレスで公開中です
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米代型防空巡洋艦の設定は下記アドレスで公開中です
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