1944コルシカ島沖海戦8
国防高等会議が開かれている会議室の中で、陸軍省情報部長のピカール中佐は末席にいた。元々、国防高等会議は首相や陸相と言った閣僚と軍の最高幹部を加えて構成されたものだった。
本土への侵攻を許すという非常事態であったものだからオブザーバーばかりで会議が強行されるという変則的な内容となったのだが、情報部長でしか無いピカール中佐は席を与えられていたとは言え、本来は出席資格は無かったのだ。
しかし、並み居る将官に囲まれながらもピカール中佐に臆する様子は全く見えなかった。生え抜きの情報将校として大使館勤務などの海外経験が豊富であるためか、中佐の洗練された物腰は強面の軍人というよりも優男の外交官と言った雰囲気を醸し出していた。
だが、そのピカール中佐を名指ししたウェイガン元帥の顔に何処か忌々しそうなものが浮かんでいたのをロート大尉は見逃さなかった。
――やはり、ウェイガン元帥はピカール中佐に半世紀前の同名人物を重ねて見ているのか……それとも思い出しているのはドレフェス事件の方なのかな。
ロート大尉は思わず皮肉げにそう考えてしまっていた。
前世紀末に起こったドレフェス事件は、フランス陸軍参謀本部から当時対立関係にあったドイツに軍事情報が流出した事件だった。
だが、軍内部の情報漏洩事件に過ぎなかった本事件は、当時参謀本部に勤務していたユダヤ人のドレフェス大尉が容疑者として拘束されたことから、たちまちの内に人種問題へと拡大していってしまっていた。
そもそも、さしたる証拠もなしにドレフェス大尉が容疑者と断定された背景には、普仏戦争の敗北による混迷した情勢や、ユダヤ系資本家による独占状態などによる反ユダヤ主義の高まりがあったのだ。
だが、これとは逆に一部知識人によるユダヤ人擁護の動きもあって、この事件は軍事情報の漏洩問題からフランス世論を二分する大騒動になりかけていたのだ。
しかも事件に真っ先に対処すべきだったフランス軍情報部は、指揮官である部長が当時不在で代行によって職務が遂行されているという異常事態にあった。
結局、情報部は反ユダヤ世論に流されて、十分な証拠を収集することも出来ずにいた。
このように当事者能力を失っていた軍情報部に颯爽と現れたのが着任が遅れていた新任部長のピカール中佐だった。着任が遅れていたのは半世紀後の今となっては詳細は分からないが、どうやら以前の赴任先だった上海租界での任務が長引いていた為だったらしい。
当時は政権交代後に急成長を続けていた日本帝国と、老いたりとは言え大陸を治める大国であった清国との利害対立が本格的な衝突に至った時期だった。おそらくそのあたりの情報収集が理由だったのだろう。
ピカール中佐は着任早々ドレフェス事件を鮮やかに解決して見せていた。というよりも、事件をユダヤ人に関する人種問題から、軍事情報の漏洩問題という本質へと立ち返らせたというのが正しかったらしい。
当時の情報を整理すると、周到に真犯人につながる歴然とした証拠を確保しながらも、ピカール中佐は中々犯人を逮捕しなかったようだ。
その代わりにドレフェス大尉を裁くはずだった軍事裁判において次々と新たな証拠を提出し、実際に軍事情報をドイツに流して金銭を得ていた犯人を新たに逮捕させていた。
フランス軍の大半がドレフェス大尉こそが犯人と確信していたから、裁判はピカール中佐を主人公とした鮮やかな逆転劇にみえたのではないか。
裁判まで派手な動きを見せなかったのは、ピカール中佐は情報漏洩事件の背後に大規模な諜報網が存在すると考えていた可能性もあった。
結局、情報漏洩の犯人は金銭目的の単独犯に過ぎなかったのだが、それでドレフェス大尉が容疑者として上がって油断したところを一網打尽にするつもりだったのかもしれない。
ただし、この事件を解決したピカール中佐には、一部の文学者達が唱えたような博愛の精神や、ユダヤ人であるドレフェス大尉への同情の念などが有ったとは思えなかった。生え抜きの情報将校であった中佐は、人種問題と軍事情報漏洩問題を切り分けて判断していただけに過ぎなかった。
あるいは、単に判断基準が国益にあったと言うだけかもしれなかった。だからドレフェス大尉を容疑者としてそのまま処理させてしまえば、真犯人を逃してさらなる情報漏洩に繋がると考えたのではないか。
その証拠に、フランス領マダガスカル島をユダヤ人自治区として設定してフランス本国のユダヤ人の移民を働きかける工作に事件後のピカール中佐は関わっていた。
この政策は一部のシオニズム運動家からは歓迎されていたが、人口増に対応したまともなインフラ網などが整備される以前に移住を募っていたことからしても、当時のフランスの世論からすればこれは実質上の棄民だった。
結局当時のフランス当局は、ユダヤ人問題がこれ以上白熱するのを避けるために、臭いものに蓋をするように彼らユダヤ人達を自分たちから見えない場所へと追いやってしまったのだ。
ドレフェス事件のもうひとりの主人公と言っても良いドレフェス大尉もマダガスカル島駐留部隊に転属となり、その後同島に骨を埋めることになっていたらしい。
事件後のドレフェス大尉の詳細な足取りはフランス本国には殆ど伝わっていなかった。少なくとも先の欧州大戦時にもマダガスカル島の部隊に大規模な招集はかけられなかったからだ。
勿論、半世紀前の情報部長と、現在ロート大尉の前に座るピカール中佐は同姓の別人だった。ドレフェス事件が発生した頃にはロート大尉は勿論、まだ40代のピカール中佐も生まれてすら居なかったのだ。
ただし、同姓の二人は親戚筋ではあるらしく、全くの無関係というわけではなかった。
ロート大尉の上司が半世紀前のピカール中佐の直系の子孫というわけではなかった。
当時のピカール中佐もプレイボーイとして幾多の愛人と浮名を流す程の人物だったらしいが、生涯妻帯することはなく、当然認知された子孫も残されていなかった。
年齢差や半世紀前の人物の没年からしても、仮に親族としてこの二人に接点が合ったとしてもそれ程長い期間ではなかったはずだし、ロート大尉の上司はまだ子供の頃のはずだった。
だから二人のピカール中佐にはさほど深い繋がりはなかったはずだが、周囲の者でそう受け取るものは少なかった。フランス軍内でも高級将校の中には軍人一族の出身者も少なくないが、直系の子孫でもないのに情報将校で同職につくのは珍しいはずだ。
平時ならばともかく、今次大戦においてフランスは陣営を変えて二度も参戦するという特異な環境にあった。そのような動乱の時代に情報部長という要職についたピカール中佐に、半世紀前の同姓の人物の面影を重ねているものは少なくないようだった。
おそらくはウェイガン元帥もその一人のはずだった。80歳に近いウェイガン元帥は、半世紀前のドレフェス事件当時はすでにフランス軍に任官していた。だから何らかの形で当時の情報部長と面識があっても不思議ではなかった。
しかも、ウェイガン元帥はユダヤ人嫌いとして知られていた。ドレフェス事件を解決しながらも、その後は実質的にフランス本土からユダヤ人の多くを遠ざけたピカール中佐には複雑な思いを抱いていたのだろう。
しかし、今この時点では間違いなくウェイガン元帥はロート大尉の上司と共犯関係にあるはずだった。議長である元帥がピカール中佐を指名していたのがその証拠だった。
発言を求められたピカール中佐は、仰々しい様子で立ちながら言った。
「つい先ごろ、パリ在住の我が情報部の諜報員から連絡がありました。パリに駐留するドイツ軍関係者から貴重な情報が得られたというのです。
その内容はとても興味深いものでした……ドイツ国防軍内部、しかも複数の現役高級将官まで加わる大規模な総統暗殺計画が密かに企てられている、とのことです」
そこでピカール中佐はまるで周囲の反応を確認するかのように一旦言葉を切っていた。
会議室内には困惑と疑念が渦巻いていた。状況からして、発言者を指名したウェイガン元帥は事前にピカール中佐から報告を受けているはずだった。だから情報の確度はかなり高いはずだ。
少なくともウェイガン元帥は事実だと判断していたのではないか。
そのことを察したのか、多くの要員は、このタイミングでのピカール中佐の発言に対する困惑の方が強いようだった。
「パリ在住の諜報員というが、パリがドイツ占領下に置かれてから久しい。その諜報員は……その、信頼がおけるのだろうか。ドイツ側、あるいは国際連盟軍や自由フランスの二重スパイに仕立て上げられているという可能性はないのか」
「その可能性は低いでしょう。機密保持のために情報源の詳細はこの場でお話することは出来ませんが、情報を入手した諜報員は今次大戦開戦前よりパリに在住して主に諸外国の外交関係者に対する諜報活動に関わっており、情報部に登録されている中でも信頼の置ける古参の諜報員です。
それに、国際連盟軍はともかく、この時点でドイツ側には虚偽のものであったとしても自軍内の不協和音を我々に知らせる利点は極めて低いでしょう」
―――確かに嘘は言っていないな。単に開戦前まで落ち目のデザイナーだった女諜報員は、ドイツ情報機関高官と共有の愛人だとは知らせていないだけだ。
白々しい顔で高官に対応するピカール中佐の後ろで、ロート大尉は無表情を貫き通しながらも、内心では呆れていた。
この場でこのことを喋ったら、この会議に集まっていた将官達はどのような表情を見せるのだろうか、冷やかにそう考えていたのだ。
―――どうせこの会議はウェイガン元帥とピカール中佐によって演出された茶番だ。
ロート大尉は今回貧乏くじをひかされる予定の海軍総司令部長官にそっと目を向けていた。
現在、ヴィシー・フランス海軍は、残存する大型戦闘艦を第1艦隊に集成していた。
昨年度のシチリア上陸戦時には、それぞれ2隻づつの戦艦に多数の条約型巡洋艦を配属させた第1、第2の2個艦隊が編成されていた。これは開戦前の襲撃艦隊及び外洋艦隊というフランス海軍の2個機動部隊を再編成したものだった。
だが、チェニス沖で行われた日英艦隊との交戦では、出撃した2個艦隊に大きな損害が出ていた。そのせいもあって、すでにフランス海軍には主力艦隊を2個に分けるだけの余力もなくなっていたのだ。
現在も第2艦隊は存在はしているものの、残存する戦闘艦の多くを第1艦隊に配属させていたために、同艦隊に残されているのは損傷艦や弱兵装の植民地通報艦、航続距離の短い水雷艇などの雑多な二線級の艦艇ばかりだった。
しかし、すでにその第2艦隊を含めて、地中海側に残されたヴィシー・フランス海軍の全艦に出撃待機命令が下されていた。おそらく多くの艦の母港となっているトゥーロンでは消耗物資の積み込みや不要機材の陸揚げ、主缶の昇圧といった出撃前の慌ただしい作業が行われているはずだった。
ロート大尉が思ったとおり、事前に詳細をウェイガン元帥から聞かされていたアブリアル元帥は、苦虫を噛み潰したような顔をピカール中佐に向けていた。
その他の多くの出席者は、不安そうな顔を向けながら隣席のものと小声で話し合っていた。このタイミングで明かされたドイツ軍内部の内紛をどう解釈すればよいのか、判断に迷っているのだろう。
ドイツ国防軍によるクーデターが成功した場合、彼らは国際連盟軍との講和を望む可能性が高かった。彼らにとっての主戦線はソ連と対峙する東部戦線にほかならないという認識が広がっていたからだ。
今次大戦において枢軸側に立ったヴィシー・フランスから見れば、戦場という屋根に再び上がったところで梯子を外されたような気分になるのではないか。
「諸君、今は議論の時ではない。情報部の得た証言の真偽はいずれ明らかとなるだろう。今はそれよりもこれからの我々の行動を決断すべきではないかね」
ウェイガン元帥の重々しい発言に誰かが言った。
「では元帥はピカール中佐の情報を信用するのですか」
どこか揶揄するような声だったが、ウェイガン元帥は眉一つ動かすこともなかった。
「そのような情報が出回っている時点で、情報部が仮に誤情報を掴まされていたのだとしても、大勢に影響はないだろう。諸君、手をこまねいておれば我々はこの戦争において第2の敗戦を迎えることになりかねないのだ。
……しかし、ドイツに付き合って国際連盟と講話することとなったとして、果たして我が国民は自由フランスを勝利者として迎えるつもりがあると思うかね」
ロート大尉は思わず額に手を当てて天井を見上げていた。独白するように言ったウェイガン元帥の様子が、まるで地獄の伴を見つけた死神のように見えていたからだ。
それでもなお、立ったままのピカール中佐は控えめな笑みを浮かべて貴公子然としていた。