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1944コルシカ島沖海戦7

 ドイツに占領されたユーゴスラビア王国から英国に亡命したペータル2世率いる亡命政府は、当初は旧王国軍残党が中核となっていたチェトニックを支持していたのだが、その支援の手も次第に途絶えるようになっていた。

 単に英国に逃れた亡命政府の権限が弱まっていたこともあったが、それ以上に対独抵抗運動というよりも、構成員の大半であるセルビア人による民族主義的な組織に早いうちから変化してしまっていたからだ。


 旧ユーゴスラビア領を制圧したナチス・ドイツが行った分割統治政策によって、クロアチア独立国などの他民族の勢力拡大からセルビア人を擁護するという大義名分はあったものの、チェトニックの変質は即位以来多民族国家であったユーゴスラビア王国内の民族融和に務めていた若き国王ペータル2世の意にそったものではないはずだった。

 それどころか、王党派が中心となる対独抵抗運動として誕生したにも関わらず、チェトニックはクロアチア人極右組織のウスタシャなどとの抗争を有利に進めるためにドイツなど枢軸勢力との連携を図っていたほどだったのだ。



 これに対して、旧ユーゴスラビア王国領内で最も盛んに活動していた対独抵抗運動は、共産主義者のユーゴスラビア人民解放軍だった。

 主義主張だけを見れば、全民族の集結と融和をとなえる同軍を主導するチトーの方が、民族主義組織となってしまったチェトニックよりも、ペータル2世の思惑に近いものだったはずだ。

 しかしユーゴスラビア人民解放軍は、共産主義者以外のユーゴスラビア一般国民からも幾ばくかの支援は受けていたものの、国外勢力との連携は薄く、実質的に孤立無援で戦闘を継続せざるを得ない状況だった。


 国際連盟は全般的に反共主義の強い英日露などの立憲主義国家の意思が色濃かったし、同じ共産主義とはいってもソ連との間にはルーマニアやハンガリーといった枢軸国が物理的な障害として立ち塞がっていたからだ。

 ソ連が主導するコミンテルンによる連絡員の派遣や指導はあるだろうが、自らも米国によるものを除けば他国からの援助無しで対独戦を継続しているソ連からは、大々的な物的援助があるとは思えなかった。

 ユーゴスラビア領内で撃墜された国際連盟軍搭乗員の救出や、国際連盟軍機の爆撃などに乗じたユーゴスラビア人民解放軍による襲撃といった動きは合ったものの、これまで枢軸勢力に確認されていたのはあくまでも限定的な連携に限られているようだった。



 だが、最近になってこのような状況に変化が確認されていた。チトー率いるユーゴスラビア人民解放軍と国際連盟軍との間に大規模で組織的な連携が見られるようになっていたのだ。


 どうやら、きっかけとなったのはイタリア王国の変節にあるようだった。

 この時点でイタリア半島内に残されていた同国軍勢力は、南部に残されたものはそのまま新生イタリア王国軍として国際連盟軍の戦列に加わり、北部に取り残された将兵でドイツ軍に拘束されなかったものの多くは地下に潜って抵抗運動に加わっていた。

 また、外地に展開していた部隊も同じく投降を免れた将兵の多くは、どのような手段を使ったのかは分からないが現地の対独抵抗運動と合流した模様だった。

 バルカン半島にも治安維持の名目で少なくない数のイタリア軍将兵が駐留していた。そして、それがそのまま抵抗運動に加わってしまっていたのだ。


 当然のことながら、元イタリア軍将兵の多くが流入したのは、仮に王党派であったとしても枢軸軍とむしろ連携を図ろうとしていたチェトニックではあり得なかった。

 共産主義者が中核であったとしても、それまで激しく枢軸軍に敵対していたユーゴスラビア人民解放軍に多くのイタリア兵たちが新たに参加していたのだ。

 あるいは、単一の民族から構成された民族主義的な組織よりも、元々多民族の組織であったユーゴスラビア人民解放軍の方が、異民族のイタリア人でも参加しやすかったからかもしれなかった。



 もっとも、イタリア軍将兵の参入はユーゴスラビア人民解放軍の戦闘能力には劇的な変化を及ぼさないと考えられていた。

 支配地域が山岳地帯に限られるとは言え、彼らの構成員はすでに戦略単位である師団を複数個編成するに足りる数十万規模に達していると考えられていたからだ。

 それに、山岳地帯での遊撃戦を得意とするユーゴスラビア人民解放軍にとって、正規軍での戦闘訓練しか受けていないイタリア王国軍一般将兵のもつ知識や経験が役に立つ場面は限られていたはずだ。


 ただし、全構成員の割合からすれば極少数でしか無いはずの元イタリア王国軍将兵の流入は、ユーゴスラビア人民解放軍の戦略に無視できない影響を与えていると考えられていた。

 イタリア王国軍将兵の本国との連絡を通じて、これまでほとんど得られなかった国際連盟軍との連携が得られるようになっていたからだ。

 最近では、チェトニックを見限ったペータル2世率いる在英亡命政府もユーゴスラビア人民解放軍との連絡を密にしていると思われる傾向があるようだった。



 そのようなバルカン半島の状況の中で、国際連盟軍の協力を得たペータル2世が密かに帰国を果たしたという噂が流れたのはつい最近のことだった。

 可能性は否定できなかった。イタリア軍の脱落もあって、最近ではバルカン半島に駐留する枢軸軍の戦力は弱体化していた。東部戦線が次第に半島に接近していることも無視できない変化だった。

 すでにバルカン半島どころか、ソ連軍の接近によってハンガリーやルーマニアの枢軸軍脱落すら考えられていたのだ。


 そのような状態だから、バルカン半島の制空権はあやふやな状況だった。しばしば国際連盟軍による激しい航空撃滅戦も受けていたから、損害は少なくなかった。

 地中海戦線で猛威を奮ったクレタ島駐留航空部隊も最近では消耗が激しく、実働状態の部隊は少なかった。クレタ島は北アフリカからも航空撃滅戦の目標となっていたし、ギリシャ本土からクレタ島に向かう航路は国際連盟軍潜水艦隊による通商破壊戦による損害を度々受けていた。

 クレタ島近海では、以前は監視と思われる潜水艦が何度か確認された程度だったのだが、国際連盟軍がシチリア島へ上陸した後は潜水艦隊の割当にも余裕が出来たのか、この方面でも国際連盟軍は積極的な攻勢に出ていたようだった。


 当然、バルカン半島上空の戦闘機部隊による哨戒もなおざりなものだったから、密かに現地の元イタリア軍将兵の援護を受けたペータル2世が潜入するのは難しく無かったはずだ。その手段はいくつか考えられた。

 国際連盟軍は何度か特殊戦を行う少数の空挺部隊を夜間に降下させたと思われていたし、大型潜水艦を投入すればペータル2世と護衛の将兵くらいであれば一気に海路でも輸送できたはずだ。



 どのような形であれ、ユーゴスラビア王国内に潜入したペータル2世の目的は明らかだった。自らが主導する形でユーゴスラビアをドイツ軍の手から解放しようというのだ。しかも、その同盟相手となったのは共産党のユーゴスラビア人民解放軍だった。

 俄には信じがたい情報だったが、ペータル2世はユーゴスラビア人民解放軍を率いるチトーを暫定的な首相に任命したという噂まであった。


 王政を否定していたはずのユーゴスラビア共産党がどうしてペータル2世と同盟関係を結んだのかは分からなかった。国王との連帯は、国際連盟軍による支援を受けられる一方で、コミンテルンの背後に控えるソ連との決別を招いてしまうのではないか。

 だが、ペータル2世がユーゴスラビア王国に潜入したと思われる日程からはいくらか日がたっていた。その間にペータル2世とチトーとの間に何らかの合意や譲歩が成立した可能性は否定できなかった。


 何れにせよ勢力を拡大していたユーゴスラビア人民解放軍が遊撃戦の段階から、全土での一斉蜂起などの正規軍に近い戦闘形態に移行しようとしているのは確かなようだった。

 現在の弱体化した現地駐留の枢軸軍が相手であれば、国際連盟軍による有形無形の支援を受けた今ではそれも可能だと判断したのだろう。


 それに、ペータル2世の帰国という噂はユーゴスラビア全土に流れていた。そのせいで各民族主義団体の中においても、穏健派、あるいは王党派の構成員は、枢軸軍に協力する自らの親組織を見限って離脱するものが増えているという未確認情報もあった。

 つまりペータル2世の帰還をきっかけとして、ユーゴスラビア人民解放軍を中核とする新生ユーゴスラビア王国軍とでも言うべき組織が誕生しようとしていたのだ。



 バルカン半島がそのような状況にあるなか、国際連盟軍の第2戦線がアドリア海沿岸に新たに成立することの意義は低くは無かった。仮にその上陸地点がユーゴスラビア王国領内では無かったとしても、ユーゴスラビア人民解放軍との連携を考慮していないとは言い切れなかった。

 むしろ、イタリア半島の付け根部ともいえる半島北東部への上陸は、ユーゴスラビア全土での蜂起に対処しようとする枢軸軍の行動を阻害する効果が大きいのではないか。


 イタリア半島から行われるであろう上陸作戦に備えた航空攻撃に関しては、両地域を区別せずに柔軟に対応する可能性すらあった。

 国際連盟軍の大型爆撃機の航続距離は大きかったから、目標がイタリア北東部でも、アドリア海を越えたユーゴスラビア王国領内でも、機体への負担には大きな差異は生じなかったからだ。



 日本軍の火力調整組織の不在が第2戦線構築の可能性を強く示唆していたとしても、枢軸軍が主導的な対応を取れなかったのには、このように上陸地点を絞り込むことの出来ない幾つもの理由があったからだった。

 公式には、ドイツ軍はどこに国際連盟軍による上陸があったとしても、これを断固として撃退すると同盟国などに通告していた。


 だが、フランス情報部の分析によれば、実際にはドイツ軍上層部の反応には温度差があるようだった。

 ヒトラー総統などナチス党幹部などは国際連盟軍に対する強硬姿勢を崩さなかったものの、一部の軍高官などはむしろバルカン半島に国際連盟軍が展開するのを期待しているふしがあったのだ。


 現在のところ枢軸軍が対峙する国際連盟軍とソ連は連携することなく別個に戦闘を続けていた。国際連盟加盟諸国には反共主義的な国家が少なくないから同盟関係にはなりえないのだろう。

 そして、東部戦線においてドイツ軍は不利な状況に陥っていた。本来であればすでに戦力価値の低下したバルカン諸国などから戦力を引き上げて、消耗の激しい東部戦線に転用したいと同戦線を指揮する陸軍総司令部などは考えていたのではないか。


 ドイツ軍が撤退しても、バルカン諸国に国際連盟軍が展開するのであれば、どのような形で訪れるかはまだわからない戦後においても、欧州へのソ連の影響は最小限にとどまるはずだった。

 それに、枢軸軍にとって運が良ければ、同地に進出した国際連盟軍とソ連軍との間で戦闘が起こって、両勢力によるドイツ軍への圧力が低下してくれるかもしれなかった。



 だが、国際連盟軍が実際に上陸を図ったのは、イタリア半島ではなかった。少なくともイタリア王国領土内ではなく、ヴィシー・フランス領内に位置するニースだった。


 ただし、元イタリア王国軍将兵との連携に関してはニースへの上陸も無視出来る要素ではなかった。

 ニース周辺はフランスが対独降伏した後にイタリア王国による占領地帯に定められた地域に含まれていた。ヴィシー・フランス政権の枢軸側での参戦を受けて、占領地帯は段階的な縮小を行っていたが、イタリア王国降伏時にもまだ少なくない将兵が駐留していた。

 イタリア王国本土と同時期にドイツ軍によって行われた制圧作戦によってニース駐留のイタリア軍は武装解除されていたが、密かに姿をくらましてそれまで取り締まっていたはずのフランス人の抵抗運動に加わったものもいたようだった。

 おそらく、国際連盟軍の上陸に対して、元イタリア軍将兵を含む抵抗運動も道案内などに加わっているのだろう。



 ――もしかすると、国際連盟軍はすでにバルカン半島には大軍を送り込むまでもないとでも考えているのかも知れんな……

 ロート大尉は、彼にしてみれば旧知の情報が流れる会議の内容を右から左へと聞き流しながらそう考えていた。

 ふと我に返ったのは次の瞬間だった。会議室の壁に沿って立っていたロート大尉の前に位置する席に座っていた情報部長のピカール中佐の名が呼ばれていたからだった。

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