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1944コルシカ島沖海戦6

 イタリア戦線から引き上げられたのは、おそらく日本軍が展開していた火力調整組織だった。日本軍の各師団も次第に他のアジア系の部隊と交代しているという情報が入っていたからだ。


 ただし、部隊を後方に下がらせた理由が、前線に展開している間に受けた損害に対する補充と再編成であれば、各隊が引き上げられた時期はややずれているはずだった。前線で生じる戦闘によって損耗が生じる各師団に対して、火力調整組織は大規模な補充の必要性が薄いからだ。

 推測された火力調整組織は、司令官との連絡性を考慮して前線から距離が置かれた上級司令部に併設されて置かれていたはずだった。おそらく後退を続ける枢軸軍の陣地からでは、通常の火砲では届かない距離にあったのだろう。



 勿論、そのような上級司令部は航空攻撃の脅威にも備えて十分な偽装や対空火器による防護が図られているはずだった。火砲が届かないからと言って航空攻撃で司令部を殲滅するのも難しいのだろう。そもそも位置の特定すらむつかしかったのではないか。

 各砲兵隊や航空隊と頻繁な連絡をとりあうために大規模な通信隊が付属しているはずだが、傍受を避けるために頻繁な司令部の移動を行っているのか、あるいは有線電話を併用しているのか、顕著な無線の増大によって司令部の位置が特定されたことは少なかったようだ。


 もっとも、火力調整組織が再編成の必要がなく休養のみですんだとしても、前線に与えた影響は少なくなかった。詳細は不明だが、これまでのイタリア戦線は日本軍と英国軍が分担して対処していたはずだった。

 おそらくはアペニン山脈を戦域の境界線として、イタリア半島の東西に展開するそれぞれの司令部が分担していたのではないか。その司令部の指揮下に日英軍を主力として、増援のそれ以外の国際連盟加盟諸国軍を配属させていたのだろう。

 日本軍に代わって満州共和国軍や旧インドシナ植民地兵部隊が多く確認されていたのもその名残なのだろう。



 今では一時的な損害の減少が枢軸軍に生じた理由は、この司令部の分担範囲が拡大されたためではないかと考えられていた。

 つまり、日本軍が再編成の為に後退した後、各隊の火力をこれまでの倍の範囲で英国軍単体で調整しなければならなくなったために、戦域の拡大に処理能力が飽和して結果的に不必要な集中や拡散がおこったのではないかというのだ。


 ただし、ある程度は司令部要員の増員で機能の拡大を図ることは可能なはずだった。指揮中枢の業務内容に拡大することは有っても本質的な変化はなかったからだ。

 戦域特有の情報もいずれ集積されていくから、適切な処置さえ行えば能力が元の水準近くまで上昇してもおかしくなかった。


 それに、前線から引き上げられるのは火力調整の機能だけだった。

 日本軍の前線部隊が引き上げられたのはそれよりも以前のことだったし、前線に展開する友軍部隊から特段の報告が挙げられていなかったということは、巧妙に部隊の交代を偽装したということなのだろう。


 それは同時に日本軍と交代した部隊も同等の火力を保有しているということを証明しているのではないか。

 自由フランスのインドシナ植民地部隊は分からないが、以前より満州共和国軍の特に精鋭部隊では最新といってもよい日本製の兵器を保有していたようだから、間接砲撃を行う師団砲兵は日本軍の師団と同様の火力を有していても不自然ではなかった。


 それに師団砲兵隊や軍団配属と思われる独立重砲隊程度ならばともかく、戦艦主砲並の重量と寸法、更には運用に機関車や兵員を載せる客車まで一揃いの長大な編成が必要な列車砲をおいそれと移動させるとは思えなかった。

 時たま損害の報告が上がっていることからも列車砲に関しては鹵獲されたものを含めて一括してイタリア戦線で運用され続けていると判断すべきなのだろう。



 前線から姿を消した部隊は、ほぼこれまで確認されていた日本軍の全力に匹敵すると考えられていた。これに上級司令部直轄の火力調整組織や配属される他国軍を加えれば新たな戦線を構築するのに十分な戦力となるはずだった。

 それ以前に前線から引き上げられていた上陸戦闘に特化した部隊の存在を考慮すれば、国際連盟軍が日本軍を中核とした上陸作戦を実施しようとしているのは明白だった。


 だが、以上の経緯が判明した時点で、枢軸軍に残された時間は殆どなかった。上陸作戦に備えて損害を被った部隊の再編成と休養を行うことが部隊が交代した目的であれば、国際連盟軍の充実した補給、補充体制からするとすでに再編成が完了していてもおかしくなかったからだ。

 最も損害の大きかったはずの揚陸戦部隊は早々と姿を消していた。特殊な機材や訓練の必要な部隊だったから、補充と再訓練の為に長期間必要だったのだろう。

 しかし、揚陸戦部隊が姿を消してからすでに数ヶ月が過ぎていたから、再編成や補充兵員の訓練を考えてもすでに前線に復帰していても不自然ではなかった。

 というよりも、補充が最低限で済むはずの火力調整組織が交代した兆候を把握出来た時点で、新たな上陸作戦に十分に備えるには遅すぎたのだ。



 国際連盟軍による上陸作戦の気配が濃厚となってからも、肝心の上陸地点の特定は難しかった。

 状況は以前に日英両軍を中核とした国際連盟軍が大挙してシチリア島に上陸を敢行した時に類似していた。

 あの時も枢軸軍はシチリア島を含むイタリア王国領の他に、クレタ島や南仏などの予想上陸地点を絞り込めずに戦力を分散して、上陸直後の戦闘を不利な状況で開始せざるを得なかったのだ。


 シチリア島上陸作戦前に、国際連盟軍は組織的に誤情報を意図的に流布させていた様子があった。このような特殊作戦に手慣れた英国が主導していたのか、誤情報の流し方は巧妙で手慣れたものだった。

 詳細はヴィシー・フランス軍には知らされていなかったが、誤った内容の書類を携行した英国軍士官の遺体が発見されたことまであったらしい。

 勿論、遺体が発見されるかどうかわからない、そのような不確かな冒険小説のような手段だけで偽情報の伝聞が行われたとは思えない。無線通信の秘匿や、その逆の欺瞞通信の発振なども組織的に行われていたのだろう。


 だが、そのような偽情報が無かったとしても上陸地点を特定するのは難しかった。攻勢をかける国際連盟軍は、自由に最善と思える箇所に上陸をかければよいが、待ち構える枢軸軍は予想される全域を防衛しなければならないからだ。

 つまり以前ロンメル元帥が恐れたように、枢軸軍は戦略上の主導権を奪われた状態に陥っていたのだ。



 今度も国際連盟軍の予想上陸地点には幾つかの候補があった。そのうち、上陸作戦の気配が感じられてから最初に挙げられたのは、イタリア戦線の後背地となるイタリア北部への上陸だった。


 現在の枢軸軍は、最前線に構築された貧弱な陣地群で火力において勝る国際連盟軍の攻勢を受け止める一方で、不穏分子が蠢くイタリア北部の治安を維持しなければならないという困難な状況に陥っていた。

 だから、ジェノバやラ・スペツィアといったイタリア北部の主要都市に上陸された場合、阻止は困難なはずだった。

 それにコルシカ島が激戦の末に国際連盟軍占領下に落ちたために、ティレニア海を越えてイタリア北西部に面するリグリア海に国際連盟軍が進出するのは容易な状況となっていた。



 イタリア北部の予想地点は、リグニア海やティレニア海に面する北西部だけではなかった。バルカン半島とイタリア半島の間に伸びるアドリア海方面の可能性もあった。

 こちらの場合は、北西部よりも事情が複雑だった。そもそもイタリア北部への上陸は、現在のイタリア戦線に与える影響は少なくないものの、戦略的に見た場合は今次大戦全体の大勢に与える影響は少ない、そのように判断するものも少なくなかった。

 枢軸軍を北へと追い上げていくイタリア戦線の国際連盟軍の勢いは強く、最前線の現状を見る限りでは何れ北西部の予想上陸地点に挙げられた地域が国際連盟軍の手に落ちるのも時間の問題にすぎない、そう悲観的に考えられていたからだ。


 しかし、イタリア北東部の場合は事情が異なっていた。アドリア海の最深部であるベネチアやトリエステから西進ではなく東進すれば、容易にバルカン半島北部に進出が出来るからだった。



 ギリシャを南端とするバルカン半島は現在安定には程遠い環境にあった。同地にあったユーゴスラビア王国を占領したドイツが、英国などが植民地で行った分割統治を習ったのか、多民族国家であった同国の民族主義者を無責任に煽り立てていたからだ。

 分割統治とは、植民地などに君臨する新たな統治者が、その地に存在する宗教や民族、人種などで別れる各層の対立を助長させて、結果的に統治者に向かう不満を同胞へと向かわせる統治手段だった。

 おそらくドイツにしてみればこのような手段が容易に可能だった場所は他になかったはずだった。元々ユーゴスラビア王国内には民族対立の火種が燻り続けていたからだ。


 先の欧州大戦の後に分割されたオーストリア帝国の領土の一部からなるユーゴスラビア王国は、南スラブ人国家を目指したセルビア人が主導していた。

 しかし、多民族国家であったオーストリア帝国の一部を引き継いたユーゴスラビア王国も、また多数派のセルビア人以外の多くの民族を含む脆弱さを持ち合わせていた。

 一時期は中央集権化を推し進めていたユーゴスラビア王国だったが、激化する民族対立を受けて近年の中央政府は非セルビア人に対しても広範な自治権の付与を含む懐柔策をとるようになっていた。


 現国王ペータル2世は、10年前の即位の際には僅か11歳と年若く補佐役の摂政を設けざるを得なかったものの、父アレクサンダル1世が民族主義者による暗殺によって命を落としたためか積極的に民族の和解に努めていた。

 また、枢軸よりの政策を続けていた摂政に対する世論の反発を見て取ったペータル2世は、宮中関係者をまとめ上げて摂政を排除し、親英的な政策に転換を試みようとしていた。


 しかし、ペータル2世の政策変更は程なく挫折を迎えていた。ソ連侵攻を控えて足元であるバルカン半島の安定を図ったドイツがユーゴスラビア王国に侵攻していたからだ。

 ドイツ及びその同盟国軍によって、ユーゴスラビア王国は隣国ギリシャと共にごく短時間で降伏に追いやられ、ペータル2世も英国への亡命を余儀なくされていた。



 残されたユーゴスラビア王国領は、ドイツやイタリアなど周辺諸国によって領土を侵食されると共に、クロアチアやモンテネグロなどの分割を余儀なくされていた。

 ペータル2世が王国を去った後、比較的早い段階から同国内では対独抵抗運動が誕生していた。ただし、旧ユーゴスラビア王国領では幾つもの組織が乱立していた。多民族国家であったユーゴスラビア王国では全土にまたがる抵抗運動が成立するのは難しかったのだ。

 それどころか、ユーゴスラビア王国軍残党が中核となったチェトニクのように、かつての自国領土であったクロアチア独立国のファシスト組織ウスタシャといった他民族との闘争を対独戦よりも優先する組織も少なくなかった。


 結局は、現在旧ユーゴスラビア王国領内で繰り広げられているのは、制圧者であるドイツとの闘争ではなく、セルビア人主体のチェトニクと、クロアチア人右翼のウスタシャとの民族紛争に他ならなかったのだ。

 本来は対独抵抗運動であったはずのチェトニクだったが、現在ではウスタシャなどとの闘争を有利に進めるために、枢軸軍に擦り寄る始末だった。

 民族の垣根を越えた抵抗運動には、共産党が主導するユーゴスラビア人民解放軍があった。ユーゴスラビア共産党はすべての民族に支持と擁護を求めていたが、全土の民族主義者からの抵抗は強く、また英日露などの王政かつ反共の国家が主導する国際連盟軍の支援も得られていなかった。



 だが、最近になって気になる情報が入っていた。旧ユーゴスラビア王国領に、国際連盟軍の空挺部隊に護衛された王室関係者が密かに潜入しているというのだ。

 しかも、その王室関係者とは国王ペータル2世本人で、共産主義者であるはずのユーゴスラビア人民解放軍と接触を図っていたらしいという本来ならありえないはずの情報だった。

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