1944コルシカ島沖海戦4
ローマに侵攻した国際連盟軍の橋頭堡が安定する前に迅速に包囲殲滅を図るというロンメル元帥の作戦案は、ドイツ軍によるイタリア前国王エマヌエーレ3世の暗殺を受けたイタリア人の広範な反発と抵抗運動の組織化によって瓦解しようとしていた。
それにも関わらず、ロンメル元帥は当初の攻勢案に固執する態度を崩さなかった。もっともその後の状況からすればあながち誤りとも言い切れなかった。
結局現在のイタリア戦線では、戦闘の主導権を奪われたドイツ軍が、火力で優位に立つ国際連盟軍に一方的に押し込まれるという状況が連続していたからだ。
指揮系統から言えば、これは厄介な問題だった。南方軍は地中海方面の指揮を取る上級司令部だったが、イタリア王国を占領する為に編成されていたB軍集団は、南方軍の指揮下に編入されたわけではなかったからだ。
部隊の規模からいえば南方軍の方が大きかったが、司令部の格で言えば同等であったし、B軍集団の指揮官であるロンメル元帥のほうがケッセルリンク元帥よりも後任でこそあったが、階級も同格だった。
それに、下手な判断をすれば「陸軍」元帥と「空軍」元帥の争いになりかねなかった。
イタリア半島全土を縦深とした遅滞作戦を立案していたケッセルリンク元帥の作戦は、大規模なローマへの国際連盟軍の進出によって修正を余儀なくされていたが、その後も基本的な計画に変更はなかった。
半島中央部を制圧された場合に発生するであろう南方軍主力の包囲を避けるために、ドイツ軍によるローマの逆占領が失敗した時点でケッセルリンク元帥は指揮下各隊に迅速な北上を命じていた。
満足な時間稼ぎも出来ずにローマ以南の長大な領域を国際連盟軍に明け渡してしまったのは痛かったが、まだドイツ本国に至るまでの縦深は十分に残されていた。
イタリア半島とドイツ本国を隔てるアルプス山脈の南部には遮るもののないポー平原が広がっていたが、平原に至ってアペニン山脈が尽きるまでの険しい地形を利用して陣地を構築できれば、相当の出血を国際連盟軍に強いることができる。それがケッセルリンク元帥の判断だったのだろう。
そのためにケッセルリンク元帥とすれば、B軍集団にはローマの橋頭堡に時間を取られるのではなく、貴重な時間を利用してアペニン山脈沿いの陣地構築作業や、組織的な抵抗運動による襲撃が頻発するイタリア王国北部領域の平定を望んでいたのだろう。
結局、両司令部の並立問題は、枢軸側に残されたイタリア王国領域の完全占領と、ロベルト・ファリナッチを首班とする傀儡政権であるイタリア社会共和国の成立によってその任を終えたとして、ヒトラー総統がB軍集団司令部を指揮官ごと他に転用すると命じたことで一応は解決していた。
だが、その間に失われた時間は大きかった。
現在の南方軍の戦闘行動は半ば固定化されたものになっていた。
陣地にこもって防戦を行うものの、圧倒的な火力の差があるが故に貧弱な野戦陣地では長時間の持久が出来ずに後退を余儀なくされていたのだ。
しかし、その間に後方で陣地を構築するのに稼げた時間が僅かなものだったから、結局は損耗した部隊が収容される新たな陣地も、構築時間の短さから貧弱なものでしかないという悪循環に陥っていた。
勿論、陣地の秘匿や偽装には力が掛けられていたが、集中射撃を受けて交戦前に位置が暴露されていたのではないかと考えられる場合が少なくなかった。
陣地を工兵部隊が密かに構築したとしても、初めてその地を訪れるであろう国際連盟軍の兵士たちはともかく、反独的な現地民が道案内をする場合も多く、彼らの目から完全に逃れるのは難しかった。
そのような状況だから、工兵部隊だけでは手が足りないからといって大規模な陣地構築に際して現地の民間人を徴用するのも難しかった。隙を見れば逃亡して接近する国際連盟軍と接触を図ろうとする住民が多く、監視に多くの戦力を要求されてしまうからだった。
勿論、徴用が難しいのは陣地構築の人手だけではなかった。
現在の南方軍の戦力は、移動したB軍集団から転属した部隊や、新たに配属された師団が加わったことで数の上では充実しているように見えていた。
ただし、その内実は戦闘序列から与える印象を裏切るものでしか無かった。
B軍集団から転属した部隊はともかく、北アフリカ戦線から戦い続けてきた部隊の多くは損害に対して人員、装備両面での補充が追いついていなかったし、新たに配属された師団は、師団番号の桁数が大きい新編制の部隊ばかりだった。
師団番号が三桁になるそれらの部隊の多くは、開戦後に編成された歴史の浅い部隊であり、戦時編制とも言われる貧弱な規格だった。
ただでさえ最近のドイツ軍の師団編成は、部隊の数を水増しさせるためか基幹部隊の定数や支援部隊が減らされていたから、師団数が多くとも実戦力とは比例しないようになっていたのだ。
現在の南方軍は、第10、14軍とリグリア軍集団に分かれていたが、その中で実働戦力と考えられているのは、前線に展開する2個軍のみだった。
この第10、14軍は以前より南方軍に所属していた部隊だった。新たに配属された師団も少なくないが、今次大戦の開戦前から編制されていた古豪の部隊も少なくなかった。
この実働の2個軍に対してリグリア軍集団はある意味で特殊な部隊だった。元々イタリア半島北部に成立したイタリア社会共和国の国軍をドイツ軍の戦列に加えるためのものだったからだ。
リグリア軍集団は、軍集団という呼称ながらも、所属する師団は5個と他の2個軍と同程度の戦力しか無かった。しかも戦闘序列の上では軍集団の指揮下に軍や軍団といった中間結節点も持たなかった。
だから、この軍集団という呼称は将来的な拡張に備えたものなのだろう、フランス軍情報部は当初はそのように推測していた。
しかし、このリグリア軍集団は本来の役割である北部イタリア軍の集成部隊としては全く機能していなかった。
リグリア軍集団の指揮下には、RSI第1、2師団のイタリア人で編成された2個師団とこれを補強するドイツ軍の部隊があった。
だが、イタリア半島南部では国際連盟軍と連携して続々と前線にイタリア軍師団が再展開しているのに半比例するように、北部で新編されたRSI師団の充足率は低かった。
エマヌエーレ3世の暗殺が明らかとなったあとで志願しようとするイタリア人が極端に減少していたからだ。RSI第1師団は強制的な徴兵でなんとか部隊を編成したものの、安易に前線に出すのは危険だった。
下手をすれば火器を携行したままで大半の将兵が前線を越えて南部に亡命をはかるのではないか。そう考えられていたからだ。
RSI第2師団に至っては、ほとんど一部の司令部要員だけが配属された書類上の部隊と言っても過言ではないほどだった。
結局、リグリア軍集団に配属された部隊で前線での戦闘に耐えうると判断されるのは、配属されたドイツ軍の3個師団のみだった。つまり、リグリア軍集団は実質上は軍団規模の南方軍予備兵力としか機能していなかったのだ。
そのように劣勢な状況が続くイタリア戦線で特筆すべき変化が起こったのは今から数ヶ月前の事だった。
正確にはいつ頃から変化が起こったのか、それを明らかにするのは難しかった。統計学的な分析の結果から変化を読み取っていたに過ぎなかったからだ。
前線に展開するドイツ軍各隊は、敵陣から撃ち込まれる砲弾の数や種類を計測して上級司令部に報告していた。これ自体はどうということはない日常的な業務だった。
発射時、あるいは着弾時の音響を数えれば良い発射数に対して、一見すると撃ち込まれた砲の種類を特定するのは難しいように思えるが、実際には前線部隊で行うのは、着弾時に発生するクレーターの形状と寸法の確認だけだった。
精密に飛行時間を計算した上で時限信管によって着弾前に空中で砲弾を炸裂させる曳火砲撃ならばともかく、瞬発信管などで着弾時に起爆する榴弾であれば、形成されるクレーターの深さや穴径を計測することが可能だった。
地中に一瞬のめり込んだ直後に砲弾は炸裂するはずだから、炸薬量によって土砂が吹き飛ばされて出来るクレーターの深さは決まってくる。
それに砲弾は発射された砲が存在する方向から斜めに落着するから、クレーターは真円を描かずに着弾方向に歪んだ涙滴型に近い楕円形状となるのが通常だった。
この楕円形状も砲弾の存速と落角によって変化があった。近距離から大落下で撃ち込まれる迫撃砲弾は真円に近くなるし、逆に高初速で遠距離から低伸する弾道で撃ち込まれるカノン砲であれば楕円の長径と短径に大きな差が生じるはずだった。
つまり、着弾した砲弾の存速や炸薬量によってクレーターの深さ、長径、短径が変化するから、これを測定することで砲の性能をおおよそ推測する事が可能だったのだ。
勿論、打ち込まれた砲弾によって形成されたクレーターの形状がいつでも一定になるわけではなかった。
仮に同じ砲から同時期に同一の工場で生産された砲弾を使用して射撃を行ったとしても、その時の湿度や温度といった自然環境によっても射程や弾道の特性は変化するからだ。
それ以前に落着した地面が粘土質なのか、あるいはがれ場なのか、そういった特性も無視できなかった。一度着弾した箇所に再度命中する可能性は低いというが、連続した着弾によってクレーターが崩されてしまう可能性も無視はできなかった。
ただし、そうした特異例は前線部隊から情報を集積して後方の司令部で分析する段階で除外されるのが通常のやり方だった。十分な計測数さえあれば、分布からかけ離れた特異な数値など無視しても構わなかったのだ。
必要なのは、正確な数値ではなく、敵軍砲兵部隊の活動状況を見積もることで、今後の作戦立案の際に参考とすることだったからだ。
だが、ある時期のイタリア戦線ではこうして得られた国際連盟軍のいわば砲撃の実績と言うべき数値に変化が発生していた。正確には、分析された砲撃の特性には殆ど変化はなかった。
枢軸軍の陣地に対して攻勢をかけている箇所で、膨大な火力の集中が行われているのが数値からも読み取れたが、それは以前からも同様の傾向があった。
そうした集中箇所はあったものの、戦線全体で見れば徐々に砲兵部隊が増強されていくのは確認されていたが特に枢軸軍に向かって撃ち込まれる砲弾の数が急減増する様子は伺えなかった。
砲撃数からすれば、砲身や機関部の故障や部品の消耗が数多く発生してもおかしくはないが、展開する国際連盟軍の数は多いから、ある程度砲撃を行う部隊と整備中の部隊で輪番を組んで、時期によって砲撃に強弱を作らずに済ませることは不可能ではないのだろう。
しかし、これを自軍が被った損害と比較すると興味深い事実が浮かび上がってきていた。急降下爆撃機等による航空攻撃や艦砲射撃などを含めても、国際連盟軍から撃ち込まれた砲弾、爆弾の総数には大きな変化がなかったにも関わらず、損害が減少していた時期があったのだ。
そのような傾向が見られたのは年が変わる頃の一時期のみだった。
しばらく損害が減少し、イタリア戦線では前線陣地を支え続けられるのではないのかという希望的な観測もあったようだが、結局は国際連盟軍の火力に撃ち負けて前線は北上を続けていた。
それに、現在では砲弾の総数と損害の関係は、大筋で見れば元に戻っているという分析結果も得られていた。
そのままでは原因不明とされるところだったが、情報部では別の情報からある推測を立てていた。時期はやや異なるが、前線から日本軍の多くが引き上げられていたのだ。
装備が日本製に統一されていた上に、ドイツ人には顔つきなどが日本人と区別が付かない満州共和国や自由フランス指揮下の旧インドシナ植民地部隊と交代していた為に、正確な時期はやはり不明だった。
だが、ある時期に揚陸戦用の部隊に引き続いて正規の機甲師団までもが前線から姿を消していたのは間違いなかった。
それらの情報を重ね合わせると、国際連盟軍は新たな戦線の構築を決断したのではないのか、そう考えられるようになっていたのだ。