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1944コルシカ島沖海戦3

 ほぼ同時に発生したイタリア王国の離反と国際連盟軍のローマ上陸によって実質上開始されたイタリア戦線において、当初枢軸軍の指揮系統は大きく2つに分かれていた。

 従来より地中海方面の作戦指揮を行っていた南方軍総司令部と、イタリア王国の変節を予期してこれに対処するために同国の占領を目的として編成されていたB軍集団だった。



 南方軍総司令部を率いていたのはドイツ空軍所属で、イタリア方面に展開する第2航空艦隊の司令官を兼任するケッセルリンク元帥だった。

 空軍の将官が、陸軍の戦略単位である師団どころか上級司令部の軍団や軍を指揮下に置くのは奇妙に思えるが、ゲーリング国家元帥とも親しい仲のケッセルリンク元帥は、元々高級指揮官不足を解消するために空軍創設時に陸軍から移籍した将官の一人だった。

 移籍時にはすでに大佐まで進級していたから、陸軍部隊の指揮は手慣れたものだったのではないか。


 南方軍は、国際連盟軍のシチリア島上陸作戦後に同島から撤収した戦力を糾合しつつも基幹戦力をイタリア半島南部、特に国際連盟軍のさらなる上陸作戦が予想されるティレニア海に面するナポリからメッシーナに至る地域に展開させていた。

 ケッセルリンク元帥ら南方軍総司令部の当初の戦略構想は、この2個軍8個師団という戦力をもってイタリア半島の縦深を利用して徹底的な遅滞作戦を行うことにあったようだった。


 欧州本土から地中海を半ば分断するように南方へと突き出されたイタリア半島は、半島をほぼ縦貫する形で広がるアペニン山脈など険峻な地形が連続していた。

 このような険しい地形に注意深く構築された陣地があれば、続々と強化される国際連盟軍に対して戦力的に劣勢であっても、かなりの時間を稼ぐことができるはずだった。



 早くから地中海方面で繰り広げられていた航空戦の指揮を取っていたにも関わらず、ケッセルリンク元帥は地中海方面だけではなく、開戦初期に英仏軍を含む国際連盟軍との戦闘は、枢軸軍全体にとっては支戦線に過ぎないと解釈しているようだった。

 確かに投入される兵員数で言えば、ドイツ軍の主戦場はソ連軍と対峙する東部戦線だと言えた。その東部戦線にドイツ軍の大半の戦力を注ぎ込まなければならない以上は、地中海方面に大規模な増援は望めなかった。

 増援がない以上は、現有の兵力を用いて可能な限り持久を図る他なかったのだ。


 だが、古来よりどれほど堅甲な城壁を誇っていたとしても、籠城する側が防衛戦闘のみで最終的な勝利を得た例は少なかった。多くの場合は政治的な事情の変化や、包囲軍の更に外周側から来援した友軍との挟撃などによって決着をつけていたのだ。

 勿論、地中海方面の枢軸軍には来援する友軍など期待できなかった。

 枢軸勢力で未だ大軍を有しているのはヴィシー・フランス軍のみだったが、同軍も崩壊した北アフリカ戦線から撤収した戦力の再編成や、それ以前の小規模な休戦軍からの再編成作業が長引いていたから、補給線の短くなる国内の防衛程度ならばともかく、遠隔地に大部隊を動員するのは難しそうだった。


 フランス軍情報部では、おそらくケッセルリンク元帥はイタリア戦線が持久体制を維持し続けて全面的な崩壊に至る前に、国際連盟軍との講和を行うことが出来ないか、そのようなことを密かに期待しているものと判断していた。

 あるいは、イタリア戦線で国際連盟軍に対して彼らの予想外となるほどの出血を強いることができれば、ドイツ本土に至るまでの損害を考慮した国際連盟側諸国の軟化も有りうると考えているのかもしれなかった。



 だが、ケッセルリンク元帥のそのような判断はあまりに受動的なものだった。遅滞作戦でどれだけ時間を稼ぐ事が出来たとしても、相手が講和に乗ってこなければ自軍を消耗させるだけで終わるかもしれなかったのだ。

 おそらく新編のB軍集団を率いていたロンメル元帥は、そのような受動的な姿勢に危惧を抱いていたのだろう。


 ロンメル元帥が率いるB軍集団は、南方軍とは別個の指揮系統で、イタリア王国が変節した際には同国の政府機関、国軍の制圧が命じられていた。

 その時までにドイツの諜報機関は詳細は不明だったものの、イタリア王国の上層部に国際連盟との講和を図る勢力が蠢動していることを察知していた。

 それに、同国の指導者であった統領ムッソリーニが事故死と公表された後にファシスト党の暫定党首に就任したのは、以前より国際協調路線を主張していたバルボ元帥だったから、それだけでもドイツ上層部が警戒する理由には十分だった。



 現在ではムッソリーニの死亡原因は明らかとなっていた。ファシスト党の最高意思決定会議とされていたファシズム大評議会の議場において、統領反対派の急先鋒であったグランディ下院議長によって爆殺されていたのだ。

 状況には不確かな点が多かったが、それはエマヌエーレ3世暗殺に前後して監禁されていたローマから脱出してきたファシスト党広報部長のファリナッチの証言しか得られなかったからだ。


 現在、ドイツの手によってイタリア北部に成立したイタリア社会共和国の首班にすえられたファリナッチは、ファシズム大評議会に参列した一員だった。

 しかしファリナッチの証言は主観性を欠いているものだったらしい。確かなのはグランディ下院議長が自爆にムッソリーニ統領を巻き込んだということだけだった。


 いずれにせよ、イタリア王国の変節を予想したヒトラー総統の名によって編成されていたB軍集団の作戦は、開始直後は順調に進んでいた。

 国際連盟軍のローマ上陸に前後して旧オーストリア領やフランスとの国境から雪崩を打つように進撃を開始した同軍集団指揮下の各師団は、各地でイタリア王国軍の武装解除を実施したものの、すでに戦意を喪失したイタリア軍の中にはB軍集団各隊が到着する前に逃亡を図っているものすら少なくなかったからだ。



 しかし、ロンメル元帥はB軍集団をイタリア王国各地の占領任務に留めておくつもりは無かった。

 戦力を温存して長期持久を企図していたケッセルリンク元帥とは異なり、ロンメル元帥は南部に展開していた南方軍主力と協同で国際連盟軍のローマ橋頭堡を迅速に叩き潰すつもりだったのだ。


 フランス戦から北アフリカ戦線まで、ロンメル元帥がこれまで指揮していた戦闘では、多少の無理を推してでも果敢な機動戦を挑むことで常に戦場の主導権を握ろうとしていた。

 主導権を奪われたロンメル元帥に相対する敵軍は、ドイツ軍の素早い機動に対応できずに戦力を保有したまま敗北していたのだ。


 その一方で、物量を背景とした火力に劣るものだから、戦場での主導権を失って足を止めたドイツ軍は脆かった。ロンメル元帥が病に倒れて去った後の北アフリカ戦線では、国際連盟軍の火力に圧倒されて衝撃力を失った為にドイツアフリカ軍団は撤退を余儀なくされた。

 ロンメル元帥はそのように考えていたのではないのか。



 ケッセルリンク元帥の思惑とは食い違っていたものの、確かに作戦開始直後のローマ橋頭堡に全軍で迅速に突入することが出来るのであれば、国際連盟軍の制圧は不可能ではなかった。

 彼らの策源地であるシチリア島やサルデーニャ島から距離があったためか、先鋒となる空挺部隊の進出に対して重装備の部隊が上陸するまでに時間差が生じていたからだ。


 それに、シチリア島への上陸作戦において反撃に出ようとした部隊が、猛烈な艦砲射撃による妨害で機動を阻止されたという例があった。

 だが、この時点ではローマ沖に到着した国際連盟軍の艦隊は高速艦を抽出した貧弱なものだったから、艦砲射撃による被害は極限出来るはずだった。



 しかし、実際にはロンメル元帥の考えていたようにローマ橋頭堡にドイツ軍の大部隊が突入することは不可能だった。


 幾つかの原因があった。

 南方軍の一部部隊は英国軍が上陸したカラブリア州からの撤退が遅れて、北上してB軍集団と共に国際連盟軍上陸部隊主力を挟撃することなど出来なかった。

 彼らの前に立ちふさがったのは意外な部隊だった。それまで戦力外と考えられていたイタリア王国軍の沿岸警備師団を中核とする残存勢力がドイツ軍部隊を拘束しようとしていたのだ。

 少なくともカラブリア州に置いてはロンメル元帥の思惑とは異なり、英国軍と講和派の息のかかったイタリア軍によってドイツ軍が挟撃されようとしていたのだ。


 結局、南方軍主力は重装備に劣るイタリア軍を一蹴して撤退に成功したものの、彼らの戦意はこれまでと比べると雲泥の差があった。

 この時点でイタリア王国軍は、前国王エマヌエーレ3世の暗殺を受けたウンベルト2世の即位、そして新国王によるドイツへの抗戦を呼びかける放送を傍受していたからだった。



 ドイツ軍に対して立ち上がったイタリア王国軍は、前線に展開する陸上部隊による組織的なものだけでは無かった。

 この時、イタリア海軍の残存する大型艦は、タラントとナポリに集結していた。国際連盟軍の大規模な上陸作戦の気配を察知した同海軍は、残存艦隊をもって上陸作戦の際に橋頭堡に向けて突撃を敢行するとされていたが、実際には国際連盟軍に投降する機会を伺っていたのだろう。

 だが、偶然かどうかは分からないが、この艦隊には皇太子であったウンベルト2世が訪れていた。ウンベルト2世は同時に海軍司令部勤務の現役の海軍中将でもあったから、元々何らかの任務を帯びていたのかもしれなかった。


 理由はどうであれ、エマヌエーレ3世暗殺を知らされたウンベルト2世は、即座に艦隊を率いて首都ローマへの進撃を開始していた。

 正規の指揮系統から外れた命令だったが、ナポリ在泊艦の殆どがウンベルト2世が座乗していたヴィットリオ・ヴェネトに従って北上を開始していた。

 この時点で、ウンベルト2世率いるこの艦隊は国際連盟軍指揮下の日英艦隊を除けば地中海で最も有力な戦力だった。

 当時はシチリア戦で受けた損害復旧工事中でヴィシー・フランス海軍主力は実働状態になかった。戦艦4隻を主力とする残存イタリア艦隊は日英海軍から見ても無視できない戦力のはずだった。

 なりふり構わずに、脱落艦を無視して北上するこの艦隊がローマに到着した時点で、ローマ近郊に展開していたドイツ軍が橋頭堡を撃滅出来る可能性はなくなっていたのではないか。



 それに、エマヌエーレ3世の暗殺事件が明らかとなってから後は、B軍集団が武装解除したはずのイタリア北部においても抵抗運動が発生していた。

 一度は駐屯地から逃亡した元イタリア兵達が組織的な対独抵抗組織を編成していたのだ。


 ファシスト党の私兵集団である黒シャツ隊を母体とする部隊などは、当初は進駐するドイツ軍に協力する姿勢を示していたのだが、彼らも次第に態度を硬化させていた。

 ファシスト党の党首代行たるバルボ元帥や、ファシズム大評議会でのムッソリーニ統領爆殺から生き残った党幹部達の大部分が新国王ウンベルト2世への忠誠とドイツへの抵抗を党員達に広く呼びかけていたからだった。



 元イタリア兵達が対独抵抗運動に身を投じたのは本国だけではなかった。当時、イタリア軍は国内に侵攻する国際連盟軍に対処すると同時に、南仏のイタリア占領地域やバルカン諸国にも軍を派遣していた。

 こうしたイタリア占領地域は、イタリア王国が国際連盟と単独講和を表明した直後に、本国と同様にドイツ軍に占拠されていた。


 大部分のイタリア兵はそのまま進駐するドイツ軍に投降したのだが、中には投降を拒否して絶望的な抵抗の後に全滅した部隊の例も残されていた。

 だが、少なくない数の元イタリア兵たちは、それまで敵対していたはずの現地の対独抵抗運動に参加してしまっていたのだ。ドイツ軍に拘束されて本国に移送される最中に現地民の協力を得て脱走した将兵もいたようだった。



 このように多くの元イタリア将兵たちによって、イタリア内外の対独抵抗運動は俄に戦力を増強させていた。系統だった軍事教練を受けた兵員を参加させた抵抗運動は、これまでの場当たり的な襲撃を行う民兵組織から確固とした戦術を持つ軍隊へとその組織を変貌させていたのだ。

 後方連絡線をこのような有力な抵抗運動に脅かされたB軍集団は、次第にその戦力を国際連盟軍との戦闘の前にすり減らされようとしていた。

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