1944コルシカ島沖海戦1
ウェイガン元帥のよく通るが、同時に隠し仰せないほどの疲労が感じられる声が会議室に響いていた。
「これより国防高等会議を開始する。なお、首相御多忙にて不在の為、副議長たる小官がこれを代行する」
ロート大尉は会議卓の面々をそっと横目で見ながら、それも無理も無いと考えていた。
ヴィシー政府の国防省内に設けられている会議室に集められた国防高等会議の出席者の数は多かった。華美な装飾を施された会議卓はそれなりに大きいものの、椅子の数は出席者に対して到底足りていなかった。
当然のことながら、陸軍省情報部長付きという身分にすぎないロート大尉には座るべき椅子などなかったから、情報部長であるピカール中佐の座席の後ろに控えるほかなかったし、会議室の壁側には大尉と同じように立っている随員達が少なくなかった。
もっとも会議卓と同じように実用性よりも外観を重視して装飾が施された椅子は贅沢な作りだったのだが、急遽増員された出席者に対応するために別室からもいくらか持ち込まれた結果、会議卓と一式で揃えられていたものとはデザインが不揃いとなってしまっていたから、ロート大尉は逆にみすぼらしさを感じてしまっていた。
元々ヴィシー政権が本拠地としたヴィシーはフランス中央部に位置する温泉保養地だった。ドイツ軍占領地帯に指定されてしまったために旧首都であるパリを追われた現政権がこの地に臨時行政府を置いたのは、保養地故に大容量のホテルなどが密集していたからだった。
平和な時代には観光客で賑わった多くのホテルなどが臨時庁舎や議会などに転用されており、国防省もあるホテルを接収して開設されていた。
だが、現在の国防省の業務量に対しては、庁舎に設定されたホテルの大きさが釣り合っているとは言えなかった。
ドイツとの講和後も独自の軍事力の保有を許可されたとは言え、初期のヴィシー政権が保有する軍事力は、かつての大陸軍とは比ぶべくもない僅か十万人を上限とする小規模なものでしかなかった。
海軍の有力な艦艇はその多くが残存してはいたものの、最低限の管理要員しかいない予備役保管艦扱いとなるか、艦艇の幾つかは独伊海軍に接収された状態だった。
しかし、ヴィシー政権指揮下の、いわゆる休戦軍がそのような安穏とした状況に浸っていられたのはそれほど長い期間ではなかった。ヴィシー政権が中立政策を投げ捨てて枢軸側にたって今次大戦に再度参戦してしまったからだった。
国内世論に押される形で行われた国際連盟軍に対する宣戦布告は、各植民地の強引な独立に起因するものだった。
それまでも対独講和を良しとせずに、講和直前に英国本土に脱出した旧政権の国防次官ド・ゴール准将を首班とする自由フランスなる勢力が成立していたが、それが本国に与えた影響は少なかった。
ド・ゴール准将は自由フランスの成立を英国本土からのラジオ放送で喧伝したと言うが、敗戦直後という当時の混乱した状況ではフランス本国でそれを傍受した一般国民は少なかったのではないか。
それに、ド・ゴール准将の指揮下にある自由フランスの軍事力は貧弱極まりないものだった。英国軍と共にダンケルクから撤退した兵士が中核となったというが、その少なくない数は講和後に本国の意に従わぬ戦闘に従事するのを拒否して離脱したという噂もあったからだ。
当時の英国本土にはフランスのみならず、本国をドイツの占領下に置かれたポーランドやオランダなどの亡命政府が置かれていた。
旧本国政府の重鎮格や王室などの政府としての正統性を主張できるだけの人材が多かったそれらの亡命政府に対して、自由フランスは旧政権との連続性を欠いていたのだ。
このような状況が一変したのは自由フランスが認可する形で仏領インドシナ植民地の解放、独立宣言がなされてしまったからだった。フランス本国はドイツによって親独政権が誕生したものの、世界各地に点在するフランス各植民地は手付かずの状態だった。
欧州本土でこそ勢いに乗るドイツ軍は強大な戦力を保有していたものの、ヴィシー政権を含めても枢軸軍に世界各地に進出する余力など全く無かったからだ。
だが、植民地の多くは概ね旧政権の基盤を受け継ぐ本国のヴィシー政権に従う姿勢を示していた。前世紀末のドレフェス事件の顛末からユダヤ系の植民が多かったマダガスカルは比較的早期に国際連盟軍側の自由フランス支持に傾いたものの、これはあくまでも例外といえた。
もっとも、各植民地に残された独自の軍事力は少なかった。比較的自由に機動出来る海軍艦艇は、特にカリブ海に残された植民地通報艦などが本国に脱出していたが、陸上、航空戦力はその多くが現地に取り残された状態と言えた。
自由フランスが最初に狙ってきたのはこの各植民地だった。本国から離れた植民地を次々と解放することで自勢力の支配地域を拡大すると共に、現地に残された植民地軍の部隊を吸収しようと試みたのだ。
その中でも初期に大規模に行われたのが仏領インドシナの解放作戦だった。
東南アジア中央部に位置する仏領インドシナは元々脆弱性を抱えていた。ヴィシー政権の成立によってその周囲を潜在的な敵対地域に囲まれてしまっていたからだ。
周囲の他国植民地、保護国の多くは欧州亡命政権の指揮下にあり、資源供給などの点から国際連盟軍の有力な後方策源地とされていたし、数少ない独立国のタイ王国などは隙きあらば領土の侵蝕を狙っていた。
そのような状況下で行われた仏領インドシナの解放作戦は大規模なものだった。
タイ王国軍などの周辺勢力の部隊と共に、日英の正規軍なども加わっていたからだ。正式には国際連盟が一応正統政権と認めた自由フランスの要請によるものとされていたが、それが単なる形式上のことにすぎないのは明白だった。
しかも、早期の戦力拡大を狙った自由フランスは、今次大戦における兵力供与を条件として旧仏領インドシナ植民地群の独立を承認してしまっていたのだ。
これには背後に自由フランスをそそのかした日英などの影響もあったとされているが、何れにせよ正統性のない自由フランスによる植民地の独立承認という事態は、フランス本国に残された国民の大半を激高させるのに十分な政治的な衝撃を与えていた。
それ以前に残存フランス海軍艦艇の撃滅を意図した英国海軍による襲撃であったメルセルケビール海戦などの経緯から反英、反国際連盟に心情が傾いていた国内世論は枢軸側にたっての参戦を要求していたのだ。
勿論、ヴィシー政権の参戦を真っ先に歓迎したのは枢軸勢力の首魁であるドイツだった。すでに国力の限界まで前線に投入する戦力を拡大していた同国は、新たな同盟国の参戦に期待していたのだ。
大戦初頭に敗れたとは言え、フランス国内に残された兵役年齢である青年層はまだ多かった。潜在的な戦力は膨大なものであるはずだった。
ヴィシー政権の参戦を受けたドイツは、直ちに講和条約の改正に応じるとともにヴィシー政権軍に対して一部押収兵器の返却や兵力制限の撤廃、更には露骨な恩顧といっても良い占領地域の段階的な縮小と行政権の返還の実施も確約していた。
ただし、講和条約による兵力制限が外されたとしてもフランス軍の再軍備は容易な事業ではなかった。旧乗員の再招集と配員、再整備を行えば大部分の艦艇をとりあえず稼動状態と出来る海軍はともかく、陸軍や空軍の戦力を拡大するのは難しかった。
陸、空軍の場合は兵員の補充と同時に、彼らが使用する兵器類の生産も同時に行わなければならなかったからだ。
しかも再整備でとりあえずは事足りた艦艇に比べると、ヴィシー政権が中立政策を保っていた僅か2年の間に、戦場では戦車や航空技術は急速に進歩していた。
敗戦時にフランス軍が装備していた旧式戦車や航空機の再生産を行っても、もはや戦場で国際連盟軍の最新兵器に対して著しく不利なのは明らかだった。
例えば、フランスがドイツに敗北した当時の英独の戦車は口径40ミリ程度の砲を主砲としているものが多かったが、1944年現在では75ミリ、それも最低でも野砲級程度の長砲身を備えたものでなければ敵戦車の装甲を食い破れなかったのだ。
もっとも戦車の場合はまだましかもしれなかった。
新型戦車の開発こそ行わなければならなかったものの、主砲には野砲や高射砲と言った現存火器の技術者や生産ラインを転用できたからだ。
他の個々のコンポーネントも細々と研究が続けられていた既存技術を応用すれば、短時間で英独など主要参戦国の技術レベルに追いつくことは不可能ではなかった。
だが、航空機に関する技術は、他には例のないものだけに容易には転用できなかった。しかも、開戦以後はどの交戦国でも大規模な消耗戦に対応する為に従来とはまさに桁数の異なる航空機生産量の拡大を図っていた。
ヴィシー政権の国防省は、世論の圧力によって行われたこの突然といっても良い参戦を受けて、再軍備に伴う困難な舵取りを要求されていた。単に戦力を整えて戦略を練ればいいと言うだけではない。
短時間で前線で通用するレベルの兵器を多数揃えるために、従来よりも遥かに強い強制力をもって各兵器製造業者を指導する行政力まで求められていたのだ。
ヴィシー政権成立後の国防省に求められていたのは、軍備制限化で再編成された休戦軍の維持管理能力でしかなかった。結局国防省は、参戦直後から指揮下の各軍戦力の拡大と共に、自らの規模の拡充をも同時に行わなければならなかった。
しかし、ヴィシーの地で国防省に与えられていたのは、休戦軍の規模に見合った程度の管理要員を収容できるだけの小規模なホテルだけだった。もちろん急拡大される組織規模に対応できる容量ではなかった。
だからといって他のホテルを新たに国防省用として接収するのは難しかった。他の目ぼしいホテルはすでに政府機関や議会に接収されていたし、参戦に伴って業務量が増大したのは国防省に限った話でも無かったからだ。
結局、国防省の機能は、ドイツの許可を受けた上で、未だにドイツ軍占領地域に残されているパリにも分散せざるを得なかった。パリにはヴィシーに移る前に国防省が使用していた施設がまだ手付かずで残されていたからだ。
ロート大尉達情報部も普段は大部分の職員はパリで勤務していたのだ。
だが、やむを得なかったとは言え、国防省の機能分散は不効率極まりなかった。馬鹿馬鹿しいことに、場合によっては緊急の書類に直属上司の許可を得るために列車に何時間も揺られて移動せざるを得なかったのだ。
今回の会議においても出席者は普段から政府首脳と共にヴィシーに留まっているものの他に、ピカール中佐やロート大尉のようにパリなどフランス国内各地から招集されてきたものも多かった。
国防省に与えられたホテルの一室に設けられた会議室が、立錐の余地もないほどに一杯となってしまうのも無理はなかった。
ただし、国防高等会議は元々下位組織で行われるものとは違って、準軍事的なものというよりも、首相を議長とする国家戦略が深く関わってくるほどのものだった。だから本来は出席者は閣僚級の政治家や陸海空大臣、参謀総長などに限られていた。
それ故に出席者の数は限られていたのだが、今回は異常事態故にオブザーバーとして多くの出席者が求められていたのだ。本来の議長である首相が不在なように、政治家の出席は少なかったが、この会議の行く末はヴィシー政府の政策にも大きな影響をあたえることになるのではないか。
もっとも、会議卓に望む出席者の疲労が激しかったのは、別に会議室が狭苦しいのだけが原因ではないはずだった。国防相兼任でヴィシー政権軍の全軍を率いる統合軍総司令官の任についたウェイガン元帥はすでに70代の半ばを越えていた。
国家主席であるペタン元帥に比べればウェイガン元帥はまだ10歳近くは若いが、老齢には違いなかった。本来の国防高等会議の出席者である各軍総司令官なども再招集を繰り返した60代を越えた老人ばかりのはずだった。
指導層に父性や君主的なものを求めるフランス人の嗜好には沿ったものとも言える老齢の高級指揮官達は、平時の指導力には優れていたかもしれないが、急速に変動する現代戦に対応する素早い判断には向いていないのではないのか、ロート大尉はそう考えていた。
現在、フランス本国はウェイガン元帥を深く疲労させる原因である国際連盟軍による上陸という事態を受けていたからだった。