表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
304/815

1943荒野にて4

 ファシストのスパイになったんじゃないかといと疑われていた特務による尋問が終わって、収容所から出て軍務に復帰はできたものの、しばらくは俺は原隊に復帰が許されなかった。特務から解放されても、完全には信用されていなかったんだな。

 最も俺はまだましな方だったらしい。中には特務に疑われて終戦まで収容所暮らしとか、前線勤務が許されずにずっと後方で教官勤務という奴も多かったらしい。

 そんな馬鹿な話があるもんかと、当時は憤慨したものだったが、今から思えばスパイが前線に配属されるよりもは良かったのかも知れんね。あの意地悪な特務も自分の仕事を果たしただけだったんだろう。そう考えなければやってられないよな。


 そういう俺も、収容所から出てしばらくは新兵共の教官任務を仰せつかってしまった。俺は10年制を出ているし文字も達者に読み書き出来たが、同僚、と言って良いのかどうかもわからんが、教官の中には教範の類を読めない奴も少なくなかった。

 一応は何年か軍隊の飯を食ってきている教官でそれなんだから、我が国のあちらこちらから慌ててかき集められてきた兵隊たちには何をか言わんや、だ。


 勿論、兵隊全員が阿呆共だったわけじゃない。中には俺のように10年制の学校を卒業した者もいたし、読み書きが出来なくとも賢い奴はいるもんだからね。

 だが、あの頃の赤軍には時間がなかったから、とにかく促成教育でどんどんと兵隊を前線に送り込めればそれで良しといった様子だったから……今でも偶に思うんだが、ああやって銃の撃ち方だけ覚えて前線に向かった兵隊のうち、何人が生きて帰ってこれたんだろうね……



 しばらくは俺も大人しく教官を務めていたんだが、段々と当時の俺よりも若い兵隊を前線に送り込む毎日に嫌気がしてきてね。何度か原隊への復帰を願い出ていたんだが、その度に政治員に差し止められてしまっていた。

 お前はもう前線勤務を二度も経験しているんだからもう良いんじゃないか、ここで教官をしていれば命の危険はないんだぞとか、兵隊を一人でも多く鍛え上げるのも祖国への立派な貢献だとか、そんなことを言われたね。

 実際は転属希望者なんてのが続出したら、政治員の責任問題になるからだったかもしれんがね。


 だが、そんな脅しすかしを何度か繰り返している内に、ようやく政治員も折れてくれてね。代わりの教官が来るからお役御免というわけだ。ちょうど再編成中の我が親衛歩兵師団からも補充の下士官を要求されていたらしいしね。

 それでようやく前線部隊に復帰だと思ったんだが、配属されてみて驚いたよ。配属というか、元の師団に復帰したわけなんだが、知ってる顔が殆どいないんだ。

 開戦からずっと師団は友軍の殿で頑張り続けていただろう。しかもそれから後方送りになってからは再編成だったから、ファシスト共の奇襲から生き延びた古参兵も他所の部隊に移っちまっていたのさ。


 逆に考えれば、あの頃には俺も一端の古参兵扱いだったから、戦時中の人手不足なら何処かの部隊に簡単に潜り込めるだろうと思っていたんだが、中々上手くは行かなくてね。古手は皆居なくなっていたのに、俺が二度も全滅した小隊から一人だけ生き残った死神だって話は知れ渡っていたのさ。

 どうやら、特務の連中から話が広まってしまっていたらしいよ。それで迷信深い奴らが俺と同じ部隊に配属されるのを嫌がったんだとさ。見るに見かねたのか、数少ない前からの師団の知り合いが連隊司令部に来ないかと誘ってくれたんだが、俺はすぐに断ってしまった。

 冗談じゃない。俺は前線でファシスト共をやっつけに来たんだ、司令部でぬくぬくと過ごすことなんて出来ないとね。今考えると嫌われ者の俺を見かねて折角誘ってくれたと言うのに、その知り合いにはひどく嫌なことを言ってしまったものだね……



 さてと、それでようやく見つかった配属先の小隊というのが、あんたの探していた音楽小隊というわけさ。

 さっきも言ったが、多分軍のお偉いさんにしてみれば、宣伝のための部隊だったんだろうな。あの頃はスターリングラードで何万ものネーメツを捕虜にしたとは言え、まだまだファシスト共の軍隊は我が軍よりも強力に思えていた。

 そこでだ、ファシスト共から学び舎を追い出されてしまった音楽学校の生徒たちも、手にした楽器を疎開先で銃に持ち替えて、キエフを奪還するために志願したという話を作ったわけだ。いや、連中が自分から志願したと言うのは本当だったんだがね。

 丁度俺たちの師団には、ほら、この写真を取ったアメリカーニェツの記者も来ていたから、外国向けの報道にもなると思っていたんだろう。


 その小隊の隊員というのが、まだ10代の少年兵ばかりでね。音楽学校の元生徒たちだから当然なんだが、中には女の子までいるんだよ。それまでにも連隊付の女狙撃手なんてものを見たことはあったが、歩兵部隊の女の子なんてどう扱えば良いんだかわからんよ。

 しかも、キエフの音楽学校に入学できるような生徒なんだから、間違いなく一種のエリートさ。コルホーズ出の俺なんかとは全く別世界の人間だよ。まぁ今にして思えば、そんなエリートと俺のような農民が一緒くたになって戦っていたんだね、当時の赤軍は。

 隊員達が学校の生徒なら、小隊長殿というのも音楽学校で教師を務めていたという人でね。予備役少尉といってもだよ、偉い学校を出た時についでに最低限の軍事教練を受けたと言うだけなんじゃないかね。


 小隊長殿はその時でまだ30は越えていないくらいじゃなかったかとおもうが、少尉にしてはひどく落ち着いた人だなと思ったものだよ。

 あの頃は促成教育の中尉や少尉が多くて、使い物にならない人も多かったからね。俺たち下士官はそんな人達を馬鹿にしたものだが、今にして思うと20歳そこそこで何十人もの部下の命を握るとすれば、これは大変なことだよ。

 小隊長殿は他の若い人達に比べるとやはり教師だったせいかね、人を動かすのは得意だったようだね。それとも小隊の皆は、軍隊もキエフの音楽学校の学生生活の延長だとでも考えていたのかね、分からないな。

 いや、別にそれが悪いことだけとは思わないよ。戦場でひとりぼっちで恐怖にかられるよりもは、何年も一緒に慣れ親しんだ仲間の為に戦う方が兵隊としてはまだましだろうさ。



 そんな音楽小隊に配属された、ただ一人の異分子が俺だったというわけだ。初対面で小隊の面々から向けられる視線には参ったよ。なんと言えばいいのかね。勢い良く志願してもやはりまだ子供だ、怖いのもあったんだろう。それでようやく軍人らしくみえる兵隊が配属されて頼もしく思ってしまったんだろう。

 だが、俺自身も実のところ入隊して三年かそこら、下士官にはなってはいたけれど、ようやく兵隊ではなくなったという程度だ。開戦前ならとてもそんな若造が小隊軍曹と呼ばれるなんて考えられなかったことだよ。

 もっとも、若い兵隊たちの手前、軍曹さんが気の抜けた表情を見せるわけにはいかなかったがね。いつも気を詰めていなけれりゃならんというのは大変なことだったね。


 だが、配属されてすぐに、俺は小隊長殿に呼ばれてこう言われたんだ。軍曹に関する噂は本当だろうかとね。

 一体何のことかと思ったが、何の事はない、これまで二回も小隊が全滅する度に俺だけ生き残っていたんだが、敵襲前にあいつ一人で逃げ出したんだろうと、そういう噂が出回っていたらしいんだね。

 俺はそれを聞くなり怒るというよりも虚しくなっていたんだがね、すぐに驚いてしまったんだよ。小隊長殿がそれが本当なら良いんだがというんだよ。


 一体全体、この人は何を言い出すんだろう。多分その時の俺は鳩が豆鉄砲を食ったような顔になっていたんだろうね。でも小隊長殿は糞真面目な顔のままこう言ったんだ。

 私はこの小隊の誰一人として死んでほしくない。全員が天賦の才を与えられた掛替えのない存在だ。彼らはいずれロシアの音楽を背負って立つ逸材だとね。

 それから、凡才の私が死ぬのは怖くない。だが、彼らの死はソ連だけではなく世界にとっての損失となるだろうとまで言ったよ。

 だから、もしも君が危機を感じて逃げようと思ったのならば、小隊全員で逃げてしまおう、その時は小隊長である自分が責任をとる。銃殺も覚悟しているとね。



 もしも普通に、というよりも他の誰かがそういったのを聞いたのであれば、俺は馬鹿にされたのかと思うか、あるいはこの戦争の最中に気でも触れたのかとでも思ったのかも知れんね。

 だが、あの時の俺は笑い飛ばすことはできなかった。それ程あの時の小隊長殿には迫力があったのだよ。


 ただ、それだけ生徒たちが大事なら、なんで志願なんてしたんだと思うだろう。それがだね、キエフから疎開する時に、元気のいい男の子達が率先して先生たちが止める前に我先に志願してしまったというのだよ。

 彼らだけだと暴走しそうだからというから、学級委員長とでもいうのかい、そんな役回りの子まで志願してしまったそうな。

 それで、先生たちも相談して、若手の先生の中から一応は予備役少尉だった小隊長殿を代表で送ったというのだよ。


 いやはや、呆れれば良いのか、それとも面倒見の良い先生たちだと感心すれば良かったのかね。まるで戦争をしているとは、とても思えない様子だったが、俺は別に嫌な気分はしなかった。

 だから正直に言ったよ。本当に俺は逃げ出したりなんてしていない。だから小隊長殿の期待には答えられそうもない。俺ができるのは子供たちを一人前の兵隊にすることだけだ、とな。

 しかし、結局小隊長殿に俺が言ったことは守れなかったんだ……



 それからしばらくは音楽小隊の隊員たちと訓練の日々だよ。小隊に編成されたとは言っても、やはり宣伝部隊だ。士気は高くとも練度は低かった。あのときほど後方で教官をやっていてよかったと思ったことはなかったね。

 ああ、あんたが持ってきた写真、あれを撮ってもらったのもこの頃じゃなかったかな。


 だが、安穏と音楽小隊が訓練を続けていられたのは、ほんのちょっとのことだった。すぐにクルスクの防御陣地に入るように命令が下りてしまったんだよ。

 あんたクルスクの戦いのことは知ってるかい……いや、知らなくても無理はないよ。後から見れば大した戦いじゃないとされてしまったからね。しかし、その大したことのない戦闘であんたが追いかけていた音楽小隊は全滅してしまったんだ。



 気になって戦後、俺なりに調べてみたんだがね。あの戦闘は殆ど偶然のようなものだったらしい。

 あの頃、43年あたりはファシスト共との戦争が大きく変化した年だった。というのも、それまで押しまくられていた我が軍が大々的な反撃に出たからだね。

 勿論、それまでもファシスト共を食い止めたり、少しばかりの反撃を行ったことはあったが、前の年の暮頃にはスターリングラードで何万ものネーメツを捕虜にしていた。


 だが、後から見ればあの頃が丁度戦局の転換期だったと言われても、当時前線にいた俺たちにはどうもピンとこなかっただろうね。緒戦で我が軍をあそこまで追い詰めたファシスト共はまだまだ強敵だと思っていたんだな。

 その頃、スターリングラードの後のゴタゴタやら反撃やら、そんなこんなで我が軍の前線はクルスクのあたりで大きく突出してしまっていた。わかるかな、こう、なだらかな前線からクルスクを中心とした辺りで着き出した拳のようになっていたんだよ。

 子供だって分かることだ。ファシスト共に余裕ができれば、この突出部を狙ってくるに決まっている。こうした突出部があると、その分だけ前線の長さが伸びてしまって、前線に貼り付けるのに必要な戦力が大きくなってしまうんだよ。


 その頃の我が軍は、再編成やら新規の徴兵、それにどうやらシベリアの帝国は攻め込んでこないようだったから、バイカル湖から引き抜かれた精鋭部隊も西部に合流して戦力は増大しつつあった。

 つまりだな、我が軍は多少前線が伸びたところで戦力の当てはあったわけだが、元々我が国よりも人口の少ないファシスト共には余裕がなくなってきていた、らしい。

 それに、あいつらは所詮利害関係だけで集まった連中だ。ネーメツやイタリアンスキーはともかく、ルーマニアだのハンガリーだの前線に近い国の中にはスターリングラード戦辺りからの負け戦に動揺も強かったようだ。

 だから、後々必要になってくる戦力を減らすためにも、クルスクの我が軍の突出部にファシスト共が攻め込んでくる可能性はかなりあったんだな。



 しかしだね、夏の間クルスク周辺で工兵部隊が折角作ってくれた立派な陣地に篭っていたと言うのに、ファシスト共は中々攻め込んでこなかった。それもそのはずだね、あの頃はファシスト共は我が軍との戦いだけではなく、遠く離れた地中海でヤポーニェツ達とも戦っていたんだから。

 地中海でこの頃に大きな戦闘があったものだから、ファシスト共もそっちに注目して、クルスクのことなんて放って置かれたらしい。奴らも2正面で大規模な作戦を行えるだけの余力がなかったんだな。


 だが、ファシスト共は後回しにしていただけで、クルスクのことを忘れていたわけではなかったんだな。そのことを知らずに、我が軍は前線部隊の入れ替えを行ってしまったんだ……

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ