1943荒野にて3
そんなこんなで、親衛歩兵師団でございと格好をつけられたかと思ったら、俺達はポーランドの片田舎で野良仕事を押し付けられたんだがね。
意外なことに、俺達の分隊の中で大活躍したのがモンゴル人でね。婆さんがいきなり金切り声を上げるから何だと思ったら、モンゴル人がたった一匹だけの農耕馬を婆さんから取り上げようとしていたんだよ。
慌てて俺も駆けつけたんだが、モンゴル人は何か必死で説明しようとしているんだが、婆さんは馬が盗まれると思ったのか泡食ってるし、俺のあいつの言葉はちんぷんかんぷんだ。
ところが諦めたのか、モンゴル人は黙って農耕馬にひと鞭いれてね。農耕馬と言っても立派な、というよりも気性の荒そうなやつでね。あとになって見せてもらった写真で見た、おとなしそうな婆さんの息子よりもよっぽどこの馬の方が軍隊向きだと思ったよ。
ところが、だ。付き合いの長いはずの婆さんでさえ苦労していたその暴れ馬が、モンゴル人がひと鞭いれると、おとなしく働き出したじゃないか。
見る見る間に雑草だらけだった畑がちゃんと出来上がっていくのを見て婆さんも俺も目を丸くしてしまったものだったよ。
その頃は、もうモンゴルはこのウクライナのようにソ連の一員になっていたのだけれども、それでも俺たちの感覚ではモンゴルは大昔にロシアに攻め込んだ遊牧民族というものだったんだな。やはりタタールだよ。
いやいや、偏見というわけじゃないさ。モンゴルはモンゴルだ。馬を操らせるとあいつらに敵うものはいないよ。何でも大祖国戦争でも満州の方に付いたモンゴル人の部隊がイタリアで戦っていたらしいが、きっとそいつらも馬に乗って戦っていたんだろうね……
さて、そのモンゴル人が馬で早々と畑を耕してくれたから、俺たちは畑の種蒔をさっさと終えてしまった。その頃になると、婆さんも随分と愛想良くなっていたよ。
モンゴル人といえば、俺たちスラブ系とは随分顔立ちが違うだろう。婆さんは最初の方はウクライナやベラルーシ人よりも、言葉も通じないし顔も違うモンゴル人を一番おっかながっていたんだが、種蒔が終わって新しい駐屯地に旅立つ頃には一番モンゴル人を可愛がっていたな。
兵隊なんぞ止めて家で働かないかと、とんでもないことを婆さんは言っていたが、モンゴル人はその頃になっても言葉はわからなかったから、首を傾げていたっけな。もっとも何となく意味はわかったんだろう。最後の方はモンゴル人もいつもにこにこと婆さんに人懐っこい顔で笑っていたよ……
兵隊を脱走させようだなんてとんでもない婆さんだ、俺もそうからかったものだが、今にして思えばあの時にもう少しだけあの村に残っていればモンゴル人も、他の奴らも死なずに済んだのかもしれないが、な……
そうさ、あの時の小隊もファシスト共の侵攻で全滅したんだ。
実はそれから大反抗でファシスト共を西へ西へと追い詰めていった頃に、俺はあの村の近くを通ったんだ。その頃はもう俺も酸いも甘いも噛み分けた古兵になっていたから、連隊司令部の下士官連中に上手く言って偵察に出たことにしてあの村に行ってみたんだがね。
それはもうひどいものだったよ。俺達が精魂込めて作った畑も村の建物も殆ど焼かれていた。畑は撤退するファシスト共に焼かれてしまったらしいが、建物はもっと前に壊されていた。
驚いたことにあの婆さんは無事だった。石造りの暖炉だけが残った焼け野原みたいな村の中で婆さんに話を聞いたら、ファシスト共は最初はあの辺りを占領しても放っておかれたらしい。村には若い男は殆ど残っていなかったんだから、あいつらが徴用する労働力は期待できなかっただろうからね。
ところがだ、しばらくしてからファシスト共の親衛隊か、そんな連中がやってきて見せしめに村を破壊していったというんだね。
何の見せしめかって、それが俺たちのせいなんだよ。あの村は共産主義者に懐柔された裏切り者だ。お前らもソ連兵を匿ったりするとこうなるぞ。婆さんが言うには、近くの村から連れてこられた男たちにファシストの親衛隊、あのゴロツキ共がそう言っていたというだな。
あの時はなんとも言えない気分になったね。俺達のせいで婆さん達は酷い目に有ったようなものだし、俺は婆さんにあの時の兵隊は俺以外皆死んじまったことを言わなきゃならなかった。
偉いさんには宣撫工作というものだったかもしれないが、あの頃の俺達は自分たちなりに良かれと思って爺さん婆さんだけが残されたあの村で働いていたものだからね。
だが、婆さんはモンゴル人達が死んじまったことを嘆いていたが、出発する頃には逆に俺を叱ってくれたよ。何度も俺一人が生き残ったことには意味があるんじゃないか、神様が俺に何かをさせようとしているのに違いないとね。
あの婆さんはまだ生きてるんだろうか……あの村で、今は帰ってきた旦那や息子と家族で仲良く暮らしてくれていれば良いんだがね……
話がそれちまったな。ファシスト共が攻め込んできた時だったか。あの頃は、俺たちは野良仕事を終えて駐屯地に到着したばかりだった。
駐屯地と言っても接収した旧ポーランド軍の基地だったから、兵舎は壊されてるし、何かの残骸があちらこちらに転がっている始末で、駐屯地に入っても俺たちは自分たちの仮住まいになるゼムリャンカを掘り下げる所から始めなきゃならなかった。
無事だった建物や新しく作った建物は司令部や将校が住む場所になっていたからね。
都会育ちのキエフっ子なんかは、また土いじりかとぶつぶつと文句を言っていたが、少なくとも俺は作りかけのゼムリャンカのおかげで生き延びられたんだろうな。
後方に居た連中の中には、あの頃の赤軍は動員が進んでいて、むしろネーメツにこちらから戦争を仕掛けるつもりだったのだとしたり顔で後から言うやつもいるらしいが、そんなのは嘘だね。
だったらなんで開戦初日で親衛歩兵師団が奇襲を喰らわなきゃならんのか、おかしいじゃないかねあんた。
第一、シベリアの連中を放って置いて西に軍隊を進めるなんて、そんなことをモスクワが考えていたとはとても俺には信じられんよ。
実際にはファシスト共は我が国と手を結ぶ振りをして殴り掛かる機会を伺っていたに違いないよ。そうでなければあんなに短時間でポーランド領のこっち側を制圧できるもんかね。
少なくとも俺たち親衛歩兵師団にとってはファシスト共の攻撃は奇襲になっていた。勿論、ポーランドの真ん中に引かれた新しい国境線には前哨部隊がいたよ。そいつらが行方不明になったり、泡を食って戻ってきたりで、慌ただしくなってはいたが、俺達の駐屯地はその国境線に近すぎたんだな。
俺たちの感覚ではいきなり砲撃を食らったようなものだった。その時も俺たちはゼムリャンカを作るのに穴を掘っていてね、いきなり衝撃がした、ような気がした。
実際には、俺は気絶して掘りかけていたゼムリャンカの出来損ないの底で気がついたんだがね。半分埋まりかけた穴から這い出してみたら、俺が立って入ってもまだ頭が出てこないような、大きな穴がいくつも空いてたよ。
それに残骸やら死体やら……まぁ残骸の方は二年前に壊されたポーランド軍のものも混じっていたかもしれないが、とにかく生きてる奴は一人も残っていなかった。
キエフっ子もムスリムのアジア人もモンゴル人も、全滅だった。
多分、俺が気絶している間にファシスト共は去っていったんだな。奇襲砲撃で駐屯地は破壊尽くしたと思ったのかもしれん。穴の底に転がっていた俺を見つけても、多分ネーメツも死体にしか見えなかったろうしな。
だが、俺は運が良いのか悪いのか、穴の底で目をさましてしまったんだ。
後になってから知ったんだが、俺が死んだと思っていたのはネーメツだけじゃなかった。味方も、まぁ俺に気がついたやつがいればだが、もう誰も駐屯地には生き残っていないと思ったんだな。
我が親衛歩兵師団は、俺が目を覚ましたその時も実際には駐屯地から撤退して戦闘を繰り広げていたというわけだ。ぼろぼろになりながらな。
もう言ったかもしれんが、あんた親衛って言葉の意味を知っているかい。元々は昔の王様を守るための部隊さ。勿論我が国には王様なんて黴臭いものは居ないが、そのかわりに党と人民がいる。
何が言いたいのかというとだね、親衛と名前の付いた部隊はおいそれと逃げ出すわけには行かないということだよ。だから親衛歩兵師団は殿を務めて削り取られていったのさ。
やはり後から聞いた話だが、そのままだともう師団ごと消えてなくなるという頃になって最優先で後退せよという命令が届いたらしい。多分、フィンランドとの戦争で親衛と初めて名前のつけられた部隊がなくなることを誰かが惜しんだんだな。
それで鉄道を破壊する直前に最後の列車に乗って後退していったそうだ。もっとも、一万人もいた師団が、最後に列車に飛び乗ったのは千人も残って居なかったそうだがね。
勿論、気絶していた俺はそれに取り残されたというわけだ。そう長い間気絶していたというわけではないだろうが、その後も部隊と合流しようにも、何処に友軍がいて、ファシスト共は何処をうろついているのか、そんなこと分かるはずもないからね。
もっとも、実は俺のようにこの時東に進む前線から取り残された兵隊はかなり居たんだな。俺は間抜けにも敵からも味方からも気が付かれずに一人ぼっちだったんだが、中には急進撃するファシスト共に見つからずに部隊ごと戦線後方に残ってしまった部隊も有ったらしい。
そういう連中の多くは後から捕虜になってしまったんだが、中には地元の連中と一緒にパルチザンを編成したものも少なくなかった。
俺もパルチザンに合流するかとも思ったんだが、結局味方を追いかけて東に進むことにしたんだ。部隊の皆からすれば俺は行方不明ということになるだろうから、下手をすれば戦死どころか敵前逃亡扱いされるかも知れんと思ってね。
それからはともかく東に向かって歩き通しさ。何日も飲まず食わずで歩いたこともあった。あの頃は若かったから出来たんだな。
東に向かうといっても、ファシスト共の軍勢が使っているのは分かっているから、立派な街道をのこのこ歩くわけにはいかなった。まさに道なき道を行くといった様子でね。
ファシスト共の影に怯えながら森の中や裏街道を進むしか無かった。人のいそうな村を訪れるのは夜だけだったし、決して大きな街には近づかなかった。そんな所には必ずファシストや、ネーメツの手先になった奴らが見張っていたからね。
助けになったのはいつも農民達だった。我がロシアの人民だけじゃない。あの婆さんみたいな現地の人たちから食料を恵んでもらったことも一度や二度ではなかったよ。
恥ずかしいことに俺は夜に忍び込んだ村で食料を盗もうと思っていたんだが、村の人に見つかって通報されるかとおもったら、親切にも家に入れてくれて風呂にまで入れてもらったこともあったよ。
何故かね。未だに理由はよく分からない。やはり言葉の分からない、ネーメツ共よりもスラブ人を同胞と思っていたのか……
まぁ、単に着の身着のままでさまよい歩いていたあの時の俺を浮浪者と思って哀れんでくれたのかも知れんがね。
ポーランドに来るのは列車で一飛びだったが、俺が友軍と合流するまでは何ヶ月もかかってしまった。戦線後方をファシスト共に見つからないように迷いながら進んでいたからそんなにかかってしまったんだね。
さて、友軍に合流したと言っても、そう簡単に原隊に復帰するわけには行かなかった。まず我が親衛歩兵師団がどこにいるのかさっぱりわからなかったこともあったが、俺のように一人や二人で友軍と合流した兵隊は、まず全員収容所に送られることになっていた。
そこで徹底して特務の尋問を受けるんだよ。本当に赤軍の将兵なのか、本当だったとしてもファシスト共の手先になっていないのかとね。
当時は俺だけじゃなく、皆憤っていたな。苦労して友軍と合流して、またファシスト共と戦おうとしているのに、特務の奴らになんで意地悪な尋問ばかり受けなければならんのかとね。
だが、ネーメツ共はいつも悪辣だからね。実際に我が軍にスパイを潜り込ませようとして特務にとっ捕まった奴も居たという話だ。まぁ噂でしかないんだが……
俺の場合は、他の兵隊よりも収容されていた期間は長かった。最初は親衛部隊のくせに一人で帰ってきたせいかと思っていたんだが、特務の言い分は少し違っていたらしい。
フィンランドでも、ポーランドでも、俺のいた小隊は全滅して、生き残りは俺だけだったんだな。だから一人だけサボタージュして逃げ出したんじゃないのか、そう考えていたらしい。
ひどい話だが、俺は特務の奴らに言われて初めてそのことを考え始めた。実は俺は死神なんじゃないのか、とね……