1943荒野にて2
俺が最初に配属された小隊は、ちっぽけなトーチカ1つに全滅させられたんだ。最初は俺も古参兵が言うとおりにあんなトーチカ1つ、俺達が捻り潰してやると思っていたんだがね。
ところがとんでもなかった。いきなり古参兵が空っぽだと言い切っていたトーチカから機関銃がばりばりと撃ち出したんだよ。俺は慌てて伏せたが、戦闘前に大口をたたいていた例の古参兵は、一番最初に血まみれになったボロ布のように吹き飛ばされていったよ。
妙なもので、最初に死んだその古参兵のことだけはよく覚えているんだ。後のことはよく覚えていない。こっちの機関銃も撃ち出したが、しばらくすると止んでしまったね。
機関銃というのは、あの水冷のマクシム機関銃だ。四人がかりじゃないと運べないデカブツだよ。俺は小銃手だったが、戦場で一度か二度は銃手の代わりにマクシムを撃ったことがある。
とにかく重くて担いで移動するときには閉口したが、射撃精度はドイツの軽い機関銃より良かった。とにかくそのマクシムが撃ち出したんだから、トーチカなんてやっつけられると思ったんだね。
たしかそのときは中隊長が前にいたんだったと思うが、その隊長がマクシムが撃ち出すと、映画みたいに勇ましく立ち上がって突撃、と来たもんだ。俺も立ち上がって突撃したが、すぐに足を止めてしまった。
マクシムが止まってしまったんだよ。故障かと思って振り返ってみたら、もう機銃班の四人は撃たれて死んでいた。分厚いトーチカの機関銃とぺらぺらの盾しかないマクシムで撃ち合ってしまったからだろうと思うが。
最初に突撃と言った隊長も死んでるし、支援の機関銃も止まってるし、どうすればいいんだと俺は思ったよ。突撃の間に立ち止まってしまったから、その時に俺が居たのはトーチカと道路の間でね。なんにもないところさ。
いくら伏せていたって、トーチカからの機関銃で次々と仲間が狙い打たれて殺されていくのを震えてみているしか無いんだ。次は俺か、それともその次かと思ってね。
そんな風にもう駄目かと思ったんだが、ふと気がつくと、トーチカの機関銃が俺達を狙っていないことに気がついたんだ。振り返ってみると我が軍のトーチカ駆逐車が近づいていたんだ。
そいつは試作車だというんだが、数はそれなりにあったらしい。量産試作とかいうもので、偶に軍は本当に必要になったときにはそういう賢いこともするんだよ。
本当はバイカル湖の戦線でシベリアの奴らを吹き飛ばすために作っていたらしいが、開戦前にフィンランドに送られていたんだね。
もっとも、いかにも取ってつけたような大砲と、真四角に切り取ったような装甲板にあの鈍足だったから、俺達は最初は本当にこんな奴が役に立つのかと馬鹿にしていたんだが、そのときは頑丈な装甲で機関銃弾を跳ね返すトーチカ駆逐車が神様に見えたものだよ。
跳ね返されてあっちこっちに飛ばされる機関銃弾は、まるで祭りに上がる花火のようだった。妙なもんので、そんなどうでもいいことばかり何年経っても覚えているものでね。
それでトーチカ駆逐車は機関銃弾を跳ね返しながら、伏せている俺達のすぐ後ろまで近づいてきたら、ドンとたった1発狙い撃ったんだ。
あんたトーチカ駆逐車ってのがどんなものだかわかるかい。さっき言ったとおりに、トーチカに据えられた機関銃だの野砲だのに耐えられるような重くて頑丈な装甲と重砲並のおっきな大砲をもった戦車みたいなやつだ。
詳しくは俺も知らんが、幾つか試作された中には本当に戦車の車体を使った奴もあったらしい。戦車よりずっと重かったから動きは鈍いが、安全にトーチカを破壊できる重砲を撃てる凄い奴だった。
司令官が馬鹿だったのか、あとになってファシストが攻めてきたときは戦車と戦おうとして前線に出されたらしいが、ああいうやつは普通は側面の装甲は薄いんだ。
本当に相手にするのは動かないトーチカだから、正面を向ければいいと思ってたんだよ。それが戦車戦に巻き込まれたら、側面に回られてすぐにやられていったらしい。
やっぱりファシストとの戦いで俺達を一番殺したのは馬鹿な司令官に違いないよ。
ああ、それでだな、フィン人のトーチカは、そのたった1発の砲弾でボカン、とこれで終わりになったよ。トーチカ駆逐車の砲口からまだ煙が立っている間に、中隊の生き残りの将校が慌ててまた突撃といってね。
しょうがないから俺もおっかなびっくりでトーチカの、あの重砲が開けたおっきな穴から入り込んだが、中にはフィン人の死体しかなかった。振り返ると、もうトーチカ駆逐車はどこかに行こうとしていたよ。きっと次のトーチカに向かおうとしていたんだろう。
その時は歓声を上げたもんだが、俺の小隊が全滅したのに気がついてからはふと考えるようになったよ。トーチカ駆逐車がたった1発で黙らせたのならば、俺の小隊が次々とあの古参兵がそうなったようにボロ布のように撃ち殺されたのは何だったのかとね。
とにかく、俺のフィンランドの戦闘はこれで終わったようなものだった。俺が配属された小隊は全滅したし、中隊もぼろぼろ、歩兵師団の被害も随分なものだった。
それでもトーチカ駆逐車のおかげだろうね。フィン人が言うところのマンネルハイム線、あのトーチカ線は何とか突破して、そこで後続部隊に防衛を頼んで俺達は負傷兵を抱えて後退した。
その後はあんたも知ってるだろう。フィンランドと我が国はとりあえず講和した。あのマンネルハイム線のトーチカの群れを次から次へと抜かれたのが、フィン人には衝撃だったらしいよ。
マンネルハイム線を突破した俺の歩兵師団は、その功績で親衛部隊になったんだ。
親衛部隊ってのは、あのフィンランド戦で活躍した部隊に初めて付けられたものらしい。トーチカ群と戦ってぼろぼろにされたからじゃないかと思うが、それで見栄えが良くなったのは本当だったな。
ただの歩兵師団だったものが、親衛歩兵師団の出来上がりだ。まぁ後の大祖国戦争の頃とは違って、親衛といっても部隊の名前に付いただけで、記章だのはフィンランド戦に参加した記念のもの以外は貰えなかったんだがね。
親衛歩兵師団がいい扱いを受けたというのは本当だよ。軍服は新品に変えられるし、装備もピカピカしたやつが貰えたよ。もっとも、それはパレードのためだったらしいが。
モスクワの中心街でパレードをやったんだ。そのピカピカの装備をつけてね。最も師団の再編成はまだだったから、俺はとりあえず別の部隊のあとにひっついて歩いたよ。
誰も知り合いが周りにいないのにパレードで歩くというのは、あれは虚しいものだったな。
さて、パレードが終わったら、今度はポーランドで再編成する羽目になった。親衛歩兵師団ってのはその頃は赤軍でも初めてだろう。それでウクライナやキエフの周りからだけじゃなくて、ソ連中からかき集めてきた兵隊で再編成することになったらしい。
勿論俺も新しくかき集められた小隊の中に混ぜられてからポーランドに向かう列車に乗せられたよ。
その小隊が俺が二番目に配属された小隊というわけだ。ところが、この小隊というのが曲者でな。多分、初めての親衛師団だというから、実験のつもりだったのだろうな。
いや、本当に小隊の中でもあっちこっちの民族が入り乱れてしまったわけだよ。まぁ後の大祖国戦争のころには珍しくもなくなっていたが、あの頃の赤軍の中では珍しかったんじゃないかな。
普通はよっぽど人数が少なくない限りは、同じ民族や近くの都市圏から引っ張られた兵隊で部隊を編成するもんだよ。何処の軍隊だってそうだろうさ。
しかし、これは困ったことだよ。小隊の大部分は元から師団にいた俺のようなウクライナ人やロシア、ベラルーシ人だった。まぁこのあたりは方言は有ってもみんな言葉が通じるからね。遠い親戚のようなものだ。
これがウズベクだのアゼルバイジャンだのアジアに片足突っ込んだ辺りだと片言しかしゃべれないんだよ。
言葉だけじゃない、宗教も当然ばらばらだった。共産党は何処へ行ったのやら。ムスリムの兵隊なんて戦闘中でもお祈りしようとするんだよ。あれには参ったよ。
言葉や宗教もそうだが、モンゴル人は顔つきも結構違っていたな。そう、一人だけモンゴル人がいてね。もう名前は忘れてしまったが……
そうだった。ポーランドに行く前に、俺は短期間の下士官教育を受けたんだよ。一応フィンランド戦生き残りの兵隊だったからね。それで下級の軍曹となった。
だが、階級が上がるのはいいが、当然それには責任がつきものだ。それで俺は班長を任されたんだが、多分下士官教育で合流が出遅れたせいだな。俺の班というのがまた問題児ばかりでね。
そう、ムスリムだのモンゴル人だの、スラブ人以外の兵隊を押し付けられたのさ。まぁ付き合ってみたら、皆悪いやつじゃなかったがね……そう、悪い奴らじゃなかったのさ。
さてと、ポーランドに到着してこのろくでもない兵隊共を鍛えにゃならんと思っていたんだが、何と言ったか、もう忘れちまった駅で降ろされて、最初に命じられたのは野良仕事だった。
あの頃の軍では人手不足の時に畑仕事に駆り出されるのも珍しくないことだが、それでもいくらなんでも再編成直後にやることはあるまいと思ったよ。大体俺たちは特別に集められた親衛歩兵師団じゃなかったのか、とね。
だが、あとから考えてみると、多分あれは宣撫工作というやつだったんだろうな。ポーランドの占領からしばらく経って少しづつ落ち着いてはいたが、まだまだあの頃は我が国に反感を抱く奴らが多かった。
大祖国戦争の反撃が始まって、ファシスト共に占領されていたポーランドを再び解放した頃には結構我が軍も歓迎されたことが多かったがね。ファシスト共に比べれば俺達のほうがよっぽどましだったんだろうな。
さてと、列車から降ろされた俺たちの小隊もある村まで行って野良仕事をしばらく手伝うことになった。何ということもない、そうさな、このコルホーズと大して違わないくらいの村だったかな。
だが働き盛りの男の数は少なくてね。なんだか異様な感じだった。相手はポーランド人だからまぁ言葉は大体通じるんだが、最初はひどく村の連中の態度が余所余所しいというか、刺々しくてな、若い兵隊はそれで苛立っていたが、俺は言葉は通じるのにまるで異邦人とでも言うのかね、妙な感覚だったよ。
これはあとから知ったんだが、その村の男の多くは兵隊に取られたり強制収容されたりで村にいなかったらしい。こっち側に捕らえられていたんならどうにか出来たかもしれんが、ファシスト共に捕らえられたんなら帰ってこれなかったんだろう。
それはともかく、俺達の班は、村外れの婆さんの家に回されることになった。家と言ってもいるのは婆さん一人だし、その家の中で暮らせたわけじゃない。
婆さんが頑張っていたし、そもそも俺たち全員が入ったら一杯になっちまう。だからみんな軒先を借りて即席のゼムリャンカ暮らしさ。まぁ兵隊ならいつものことだがね。
その家には婆さん、と言っても今から思えば、今の俺と大して違わない歳だと思うが、あの頃の俺達からするとひどく婆さんに見えたものだったが。その婆さん一人で住んでいたんだが、家の前の畑はひどく広かった。
しかも荒れ放題で雑草だらけ。最初は畑だと思わずに掘りやすそうだから、こっちにゼムリャンカを作ろうかと思って婆さんにこっぴどく叱られたぐらいだったよ。
だが、あとから理由も聞いたんだがそれも当然でね。実はその家は本当は婆さんとその旦那、息子の三人ぐらしだったのさ。それで男二人が共にポーランド軍に引っ張られたものだから、婆さん一人で無理に畑を耕していたいたらしい。無茶をするもんだね。
さてと、それで畑仕事が始まったんだが、こうなると都会の奴らはてんで駄目だった。生粋のキエフっ子だって自慢していた奴は鍬一つ最初はまともに使えずにいじわる婆さんに冷やかされていたな。結局そいつは脇の方で雑草抜きをやってたな。
俺は勿論コルホーズ育ちだったから、野良仕事のやり方は婆さんに言われるまでもなかったが、他の奴らをまとめるので手一杯だった。
さっき言ったムスリムは野良仕事の経験はあるようだったがね、いきなり畑の真ん中で祈りだして婆さんを気味悪がらせるし、よく考えてみたらウクライナやポーランドの平原と、あいつらの育った山では畑仕事のやり方も違っていたんだよ。
まったく軍隊に入るまではそんなこと考えもしなかったんだがね。