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1919シベリア遡行1

 奇妙な機体だった。

 アムール川を遡行する不知火の艦橋から、伊原中尉はその飛行機を見上げていた。

 翼面に日の丸を掲げているから日本軍機であることは間違いなかったが、伊原中尉の記憶にはない機体だった。

 シベリア派遣軍には海軍だけではなく、陸軍も若干の航空機を投入しているらしい。

 ハバロフスクまで同行してきた高崎の搭載機ではなさそうだった。

 おそらくあれは陸軍機なのだろう。


 ただし、陸軍機であれ、海軍機であれ、かなりの無茶をして運用されているはずだ。

 砲術科士官の伊原中尉は、飛行機のことはよくわからなかったが、航続距離が大して長くはないことは知っている。

 滞空が可能なのは長いものでも6時間程度と聞いている。

 巡航速度は毎時百キロ程度というから、往路復路を単純に考えて航続距離は最大でも300キロ程度になる。

 進出距離が三時間で300キロというと大した距離に思える。


 しかし、不知火は、日本軍が拠点を置くハバロフスクから500キロ近く離れたアムール川流域を航行中だった。

 おそらく上空の航空機は、シベリア鉄道を使って燃料や支援部隊を進出させて運用しているのだろう。

 だが、これは航空機を含む資材や物資、それに運用する人員を急速に消耗させる行為だった。


 日本軍をふくむシベリア派遣軍が抑えているのはシベリア鉄道沿いに点在する大都市のみでしかない。

 都市部を離れるとボルシェビキ派パルチザンが徘徊する危険な荒野が広がっている。

 おそらくシベリア鉄道近辺に航空機の滑走路を含む支援部隊が展開しているのだろうが、警戒、防衛のための部隊も随伴しているのではないのか。

 あるいは、その戦闘部隊こそが主力であり、その支援部隊である航空機のみが不知火の支援に赴いたのかもしれない。


 いずれにせよ、この作戦が終結した頃には、無理な運用を強いた航空機材は、消耗して戦力外となってしまっているのではないのか。

 逆に考えれば、そこまで無理をして戦力を整える価値があるほどの何かがこの作戦にあるということなのかもしれない。


 不知火が航行する流域のすぐ近くの陸地に、やけに目立つ印が付けられた通信筒を落として去っていく航空機を見守りながら、伊原中尉はそう考えていた。

 すぐに不知火の艇長である大石大尉が減速と通信筒を回収するための搭載艇の発進を命じた。

 伊原中尉は、大石大尉に頷くと艦橋を離れて、搭載艇に乗り込むため艦尾に向かった。

 吹き曝しの艦橋にいるよりも、通信筒を回収するために体を動かしていたほうが温まるのではないのか、そう考えていた。

 春を迎えるというのに、それだけアムール川流域は冷え込んでいた。


 すでに搭載艇を下ろそうとしている不知火のすぐ脇を、僚艦の陽炎が追い抜いていった。

 その向こうには、無限に広がるような荒野と、彼方の森林地帯が見えた。

 伊原中尉は、その光景を見て、不思議なことに、欧州では全く感じなかった、世界の広がりを感じていた。

 見える景色そのものは欧州で見たものとさほど変わらないのに、そう感じるのは、ここまで航行してきた流域を見てきたからだろう。

 実際、山に囲まれた東北の小都市で生まれ育った伊原中尉には、今不知火が航行している流域は想像もできない場所だった。


 外洋航行能力に乏しい不知火と陽炎は、五千トン級運送艦の高崎に牽引されてオホーツク海に隣接するニコライエフスクに移動した。

 本来の計画では、ニコライエフスクを拠点としてシベリア派遣軍を支援することになっていた。

 しかし、ニコライエフスクに到着した時点で、その計画は大きく拡大されることとなった。

 ニコライエフスクでの短時間の休息と補給を行ったこの部隊は、アムール川を遡行してこの地方随一の都市であるハバロフスクまで進出することとなった。

 ウラジオストックから、シベリア鉄道を最大限利用して進出したシベリア派遣軍の行動が意外なほど早く、すでに一部の部隊によってハバロフスクが拠点として運用され始めていたからだった。


 鈍足の高崎に従って組まれた航行計画は、四日間ほどの長大なものだった。

 オホーツク海沿岸にあるといってもよいニコライエフスクからハバロフスクまでは、一千キロちかくもあったのだ。

 その間は、海図や同行するロシア遠征軍所属でシベリア出身の士官がなければ、たちまち支流に迷い込みそうになる河川航行が続いた。

 しかし、排水量400トンに満たない東雲型駆逐艦を原型とする不知火はもちろん、五千トン級の高崎も航行に不安のあるような、急流や浅瀬といった危険な流域は、全く存在しなかった。

 それだけアムール川は広大だった。


 航行の間も、僅かな都市部を除くと景色はほとんど原野が占めていた。

 それは、単調な光景であるにもかかわらず、この部隊に所属する多くの日本人達を圧倒し、大陸の広大さを感じさせずにはいられなかった。

 一千キロといえば、東京から鹿児島間の距離に匹敵する。

 その長大な距離がほとんど全て荒野で、そして大海ではなく内陸部の河川に過ぎないからだ。



 この流域を同時期に航行するのは不知火や高崎だけではなかった。

 ハバロフスクまで遡行する間も、何隻かの貨物船とすれ違っていた。

 この時期は、氷結のため冬の間途絶えていた、河川を利用した水運が再開される時期に当たるのだという。

 勿論、日本でも利根川や信濃川のような河川では、水運の利用が行われているが、アムール川の水運はそれらとは規模が全く異なっていた。

 高崎と同程度の大型貨物船すらさほど珍しい存在ではないらしい。

 さすがにハバロフスクを超えると大型貨物船は数を減らしていったが、おそらく大型船が航行できなくなると言うよりも、それだけの大型艦を航行させるほど大容量で利潤のある積荷を必要とする人口密集地が途絶えてしまうからではないのか。


 あるいは、これより先は支那とロシアとの国境線にあたるからかもしれない。

 二十年ほど前の義和団事件の頃にも、当時の清国とロシア帝国との間で軍事衝突があった。

 その時はこの流域を利用して軍艦が遡行し、兵員の急速展開をおこなったらしい。

 だから、この先は生活や流通のための河川ではなく、国境線という意味づけのほうが強くなるのではないのか。

 そう言えば、見える風景は殆ど変わらないのにハバロフスクを超えてしばらくしてから、緊張感が高まっていったような気がする。

 これも日本では考えられないことだった。

 昔の幕藩体制の頃は、河川を国境とすることもあったはずだが、今の日本国では、河を越えた、視認できる距離に仮想敵国が存在するなど考えられない。


 そんな緊張した流域を砲艦のように重装備の不知火と陽炎は航行していった。





 日露戦争目前に駆逐艦として就役した不知火が、特務艦籍に編入されたのは欧州での大戦の戦訓を受けてのことだった。

 この大戦において、日本軍は少なからぬ陸海軍戦力を欧州に投入していた。

 だが、それは決して日本政府が欧州での戦闘参加に熱心であったというわけではなかった。


 大戦勃発直後に日本国は英国に習ってドイツを始めとする中央同盟に宣戦を布告した。

 その結果、日本国は青島を始めとする太平洋におけるドイツ側拠点の制圧を行うこととなった。

 この作戦は概ね短期間で成功裏に終わっていた。

 補給線も短く、強大な戦力を誇る日本軍に対して、十分な練度と士気を維持していたとはいえ、寡兵で補給に乏しいドイツ側が長時間抗し得るはずもなかったからだ。


 これと同時に、欧州の戦禍の及ばぬ極東に位置する日本国に対して、兵器などの物資の注文が殺到することとなった。

 当時、すでに日本国は工業化の端緒が開いたところといえたから、小銃や小口径の支援火砲といった基本的な兵器類や弾薬の生産能力に不安はなかった。

 そのため、英国やフランスは日本に対して、安価にライセンスの供与など行い、自国のみでは供給量に不安のある小火器等を生産させることとなった。

 それどころか、技術者を派遣しての技術指導まで盛んに行なっており、重火器やエンジンの生産まで日本に担当させるようになっていた。


 当初、フランスなどは、巨大な潜在国力と技術力を有すると考えられていたアメリカ合衆国の参戦を期待していたらしい。

 しかし、モンロー主義に凝り固まった合衆国議会が参戦を拒み続けた結果、この方針は否定されていた。

 そもそも、諸外国への支援、干渉であるドル外交を行ったタフト大統領の政策が批判されていた当時、立法府のみならず行政府も、欧州への干渉は消極的だった。


 だから、アメリカの代替として日本国が選択されることとなった。

 連合国の一大工場として期待された日本国では、成長を始めていた財閥系を始めとした企業群によって次々と工場が建設され、これまで海外移民によって諸外国へと向かっていた余剰労働力を貪欲に吸収していた。

 生産開始当初は品質が安定せず、散々な評価だったが、英仏からの技術指導が軌道に乗り始めると、次第に性能の安定した良質なものが生産されるようになってきていた。

 こうして製造された火器や消耗品は、同じく大戦を契機に拡張された造船所で、次々と建造される貨物船に載せられて、欧州へと送られていった。

 戦禍の及ばぬ極東で安定して生産され、次々と送られる兵器類は、中央同盟国側に対して連合国側の大きなアドバンテージとなっていた。


 しかし、明らかにこの兵器生産は、日本国側に有利であった。

 この利潤のため日本国内は未曾有の好景気となったが、その一方で政治的にイギリスやフランスに弱みを握られたのも事実だった。

 その結果が、両国による欧州への参戦要求だった。

 欧州で諸国が血を流しているための好景気といっても良いのだから、日本もその利息を払えというわけだった。

 そして、参戦を断ればライセンスや技術供与の引き上げもありえたのだから、兵器類の輸出に経済を依存させていた日本政府に選択の余地は残されていなかったともいえた。



 このような事情から、半ば渋々と日本国軍による欧州派兵が実施されることとなった。

 ガリポリ戦への増援という形で始まった日本陸海軍による欧州派兵は、国軍から選抜された精鋭達に大きな損害を与える一方で、日露戦争後途絶えていた貴重な近代戦における戦訓を得ることも出来た。

 それは、国家総力戦という概念であったり、日露戦争でその端緒を見せていた機関銃の脅威、それに新兵器である航空機の価値であった。

 そして、そのような戦訓の1つに、ガリポリ戦の様相から導きだされた、専用の揚陸機材開発の必要性があった。


 この当時、揚陸戦を行う場合、小型のカッター多数を内火艇やタグボートで牽引するという方法で兵員の上陸を行なっていた。

 だが、これは非効率な上、危険なやり方だった。

 内火艇の貧弱な発動機では、多数のカッターを曳航する場合、速力が極端に遅くなるし、タグボートは出力が大きくとも図体も大きく、無防備だから被弾には弱かった。

 何よりも、結局は沿岸で兵員を詰め込んだカッターは、動力艇から切り離されることとなる。

 そこから海岸まで無防備なカッターがのろのろと人力で自走することとなるのだ。

 これでは防御側から撃ってくれと言わんばかりの危険な態勢といえた。


 ガリポリ戦の場合は、これでもさほどの問題は生じなかったらしい。

 様々な事情から、防御側のオスマン帝国軍が大した沿岸防御陣地を構築し得なかったからだ。

 だが、第二次上陸戦では、すでに英国軍が、船首から道板を展開して上陸を容易にした自走艀を投入していた。

 また、実現こそしなかったが、英国はバルト海での上陸作戦を一時期計画していたらしい。

 つい最近になって、どうもこの作戦はフィッシャー提督の勇み足であったらしいことがわかってきたが、それでも上陸戦のため機材開発なども実施されていたという噂だった。

 それに、英国海軍では艀の代わりに旧式巡洋艦を用いた大型揚陸艦とでも言うべき艦の改装計画があったらしい。

 実際に戦場に投入されたのは、貨物船を改装した船だったが、上手く行けば一千名単位の兵員を迅速に揚陸させることも可能だった。


 そのような計画の存在を知った日本海軍でも、類似の艦艇を求める声があがっていた。

 しかし、大きな戦力を持つ英国海軍とは違って、日本海軍には、旧式巡洋艦といえども有力な機材であり、揚陸艦という未だ胡乱気な存在に改装するような余裕はなかった。

 大型艦の代わりとして、選ばれたのは、この当時戦力価値を急速に減じていた三等駆逐艦に類別される小型駆逐艦群だった。


 雷型を嚆矢とする三等駆逐艦は、日露戦争を見越して、あるいはそれを契機として大量に建造されたクラスだった。

 これらの黎明期の駆逐艦は当時実用化され始めていた魚雷を用いて、主に夜襲で敵主力艦を襲撃する艦艇として就役した。

 日露戦争においてはこれら各級の小型駆逐艦は、日本海海戦などで漸減邀撃作戦で大きな戦果を上げることとなった。

 なかには、敵司令官ごと敵艦艇を拿捕するものまであった。



 しかし、これらの小型駆逐艦は、日露戦争後の日本海軍の基本戦略に合致していなかった。

 ロシア帝国を破った日本海軍は、本格的な外洋海軍として成長しようとしていたのだが、船型が過小な小型駆逐艦群は、十分な外洋航行力を発揮することが出来なかったのだ。

 だから、日露戦争後の日本海軍の駆逐艦は大型で航洋力を有するものが建造され始めていた。


 小型駆逐艦に止めを差したのは、欧州大戦の勃発、それに伴う地中海への進出だった。

 これまで日露戦争後に建造していた大型化した駆逐艦でさえ、本格的な護衛作戦などに従事するには航洋力が不足していたからだ。

 小型駆逐艦にいたっては何をいわんやだった。


 それに、神風型以前の小型駆逐艦は、船型だけではなく、技術的に見ても時代遅れの存在となりつつあった。

 兵装の面では、さほどの進化があったわけではない。

 備砲や雷装の大口径化や増数はあったが、これは船型の拡大に伴うものといってもよかった。

 それよりも技術の革新は機関部で起こっていた。


 すべての三等駆逐艦は、ボイラーで発生させた蒸気をシリンダー内で膨張させてピストンの往復動運動を発生させる蒸気レシプロ機関を主機に選択していた。

 これに対して、駆逐艦のみならず、最近建造された艦艇の多くは、蒸気を回転翼に当ててタービンを回転させる蒸気タービン方式になっていた。

 前世紀末に出現した蒸気タービンは、それまで多用されていた蒸気レシプロ機関に対して効率の点で極めて優れていた。

 日露戦争前後には、すでに英国海軍はすべての艦艇を蒸気タービンとするよう決定するほどだった。

 これは英国海軍の後を追う日本海軍も一緒だった。

 予算や、技術力の低さに伴う生産性の低さから蒸気レシプロ機関を採用せざるを得なかった艦艇もあったが、基本的にはタービン機関の採用は前提条件となっていたといっても良かった。


 だから従来型の小型駆逐艦の多くは就役後二十年を待たずして陳腐化していたのだった。

 小型駆逐艦群が未だ駆逐艦籍にあるのは、大型駆逐艦の数が未だ出揃わないためでしかないのではないか、最近では乗組員たちはそう自嘲しているらしい。

 実際、欧州大戦が集結した今、続々と地中海で活躍した大型駆逐艦が帰還しているなかで、小型駆逐艦は、近いうちに老朽化している艦から駆逐艦籍を離れ、掃海艇などの特務艦に類別する計画があるという噂だった。


 もしも、このような状態で三等駆逐艦が余剰となっていなければ、不知火と陽炎の揚陸艦への改装計画は持ち上がらなかったのではないか。

 もっとも、英国の道板を付けた揚陸艦と不知火の改装では内容が大きく変わっていた。

 英国海軍の揚陸艦が、直接海岸や、桟橋に着岸して道板を展開して兵員を上陸させるのに対して、不知火には道板のような揚陸用の機材は搭載されていなかった。

 その代わりに、単装二基が搭載されていた雷装を撤去した後部甲板には、カッターが増載されていた。

 つまり、兵員の上陸手段は、不知火自身ではなく、搭載するカッターとなる。

 これでは、従来の海岸付近で多数のカッターを下ろして、内火艇で牽引した従来のやり方と変わらないようにも思える。


 不知火の特徴は、カッターを牽引するのが内火艇ではなく、母艦である不知火自身が務めることができるという点にあるかもしれなかった。

 それに、これまでの上陸戦では大型貨客船などで大量の兵員とカッターを輸送していたが、これらの船は図体が大きいから、的となるのを恐れて沿岸砲の射程には容易に近づけなかったし、第一、浅瀬となる上陸岸近くまで航行すれば座礁する危険もあった。

 しかし、不知火の場合、原型が400t程度の小型駆逐艦だから沿岸までかなり近づけるはずだった。

 つまり、不知火は、上陸する兵員を輸送する貨客船とカッターを牽引するタグボートの双方の任務をこなす事が可能ということだった。

 それに、対艦用の雷装こそ撤去されているが、対艦対地どちらにも使用できる備砲は原型からそのまま残されているから、最も危険となる兵員の上陸時に、これを援護する火力を提供することさえ可能だった。


 問題があるとすれば、乗り込める兵員数に限りがあることだった。

 原型が小型駆逐艦なのだから当然なのだが、大型の貨客船を改装した英国艦が千名単位の兵員を輸送するのに対して、不知火は缶室を半減して兵員室に当てているにも関わらず、一個小隊弱の兵員を輸送するので手一杯だった。

 最近では海軍陸戦隊も、陸軍に習って機関銃や迫撃砲などを装備するようになっていたから、それら重量機材を含めれば、一隻で輸送できるのは実際には半個小隊というところだった。

 本艦の改装時からそれはわかっていたから、最小限の編成単位である一個小隊を輸送するために、不知火と陽炎の二隻が改装されることなった。


 だが、これはあまりにも過小な戦力だった。

 揚陸艦搭載火砲の援護があるとしても、一個小隊程度の戦力では本格的な上陸戦など到底不可能だろう。

 ただし、大型貨客船で兵員を輸送するのと比べると、不知火と陽炎が兵員の上陸に要する時間は極めて短かった。

 実戦で不知火と陽炎を使用するとすれば、上陸戦本隊ではなく、本隊上陸前の海岸堡の確保や、沿岸を長駆しての迂回上陸、あるいは敵海岸堡への逆上陸作戦となるのではないのか。


 第一、不知火と陽炎の二隻は本格的な揚陸艦ではなく、急増の改装艦に過ぎない。

 海軍がこれから先、本格的な揚陸艦を建造するとすれば、不知火と陽炎の実績を調査してからとなるだろう。

 だから、不知火も陽炎も駆逐艦籍を離れた後、曖昧な特務艇籍に転籍されたのだろう。


 だが、軍艦籍にない改装の特務艇とはいえ、海軍が不知火にかける期待は決して小さいものではないらしい。

 不知火は急速揚陸艦としてだけではなく、現在のように代用の河川砲艦としての任務もこなすことができる多様性をもっていた。

 少数とはいえ、陸戦隊を輸送することもできることを考えれば、平時の警察任務に用いるのは、純粋な砲艦よりも適しているかもしれなかった。

 それに、現在は兵員の輸送に用いる搭載艇は従来型の人力のカッターだったが、将来的には、海軍の支援のもと陸軍が開発している小型の発動機搭載艇を搭載する計画もあった。

 実は、欧州大戦の戦訓を受けての揚陸戦機材の開発は、日本海軍よりも、陸軍の方が熱心だった。

 日本国は大陸に多大な権益を有していたが、その一方で兵力の上陸地点や根拠地となる兵力の事前展開地としては遼東半島の関東州のみであったからだ。



 日露戦争で得た権益であったはずの朝鮮半島に駐留する朝鮮軍は、すでにその編成を解かれていた。

 一時期は朝鮮半島の併合も計画されていたというが、十年ほど前の伊藤博文公暗殺未遂事件以後はそのような声も立ち消えしていた。

 伊藤博文公自身が半島の併合には否定的だったが、暗殺未遂によって公はさらにその思いを強くしたらしい。

 あるいは、当時の日本国が飲み込むには、朝鮮は中途半端に過大であったのかもしれない。

 併合に反対する民衆の存在があるかぎり、半島の植民地化には多大な弊害が生じるのではないのか、そういう声が国内に広がっていった。


 それでも海外の帝国主義を見習った膨張主義者は、併合に執心だったらしいが、それも今次大戦勃発後の急速なロシア帝国との関係改善によって立ち消えしていた。

 そもそも、朝鮮半島や満州を日本国が、得ようと、あるいは中立化しようとしていたのは、強大なロシア帝国の南下方針から、帝国本土を守るための縦深地として必要であったからだ。

 だから、そのロシア帝国との関係が良好であれば、無理をして半島を維持し続ける必要性も薄くなっていたのだ。


 それに、欧州への本格的派兵を決意した日本陸軍に、二個師団を基幹戦力とする朝鮮軍を遊ばせておくような余裕は、なくなっていたのだ。

 財政界にしても半島への融資はその見返りが少ないという結論が出ていた。

 朝鮮軍は、麾下の一個師団を関東州防衛強化に送った後に解散し、その司令部や、残りの一個師団は遣欧軍に転用されていた。

 そして日本政府は、朝鮮半島を治める大韓帝国はすでに一定の国力が存在するとして日韓協定を一方的に破棄し、半ば放置していた。


 だから、いざ大陸に事変が起こり軍事介入しようとした場合、それが根拠地からの安全な陸路進出ではなく、敵前上陸となる可能性は少なくなかったのだ。

 ただし、これは日本国が大陸への介入に積極的というわけではなかった。

 日本国の方針として、朝鮮半島や大陸への膨張には、すでに消去的になっていたからだ。

 すでに日本国は工業化、貿易化による富国路線を選択しており、市場としてはともかく、海外植民地など必要としてはいなかったからだ。



 しかし、ロシア帝国の崩壊と、ボルシェビキによる政権成立は、そのような日本国の国家方針を大きく揺るがしかねない事態を招いていた。

 せっかく、今次大戦を切っ掛けに急速に改善の方向に向かっていたロシアとの関係が、また振り出しに戻ってしまうかもしれないからだ。


 日本軍が、大陸や半島に展開していた戦力の大部分を撤収させていたのは、日清、日露戦争期に過剰に拡大していた兵力の適正化や、遣欧軍派遣のための部隊を捻出させるためではあったが、それを可能としたのは、ロシア南下の脅威度が低下したためだった。

 だが、ロシア人との関係が悪化すれば、日本陸軍は再び大陸へと大兵力を展開しなくてはならないのではないのか。

 そのような声が陸軍参謀本部を中心にあがるようになっていた。


 兵力の再展開とはいってもことはそう単純ではなかった。

 欧洲大戦の戦闘からすれば、陸軍師団のさらなる重装備化は必至だったからだ。

 日露戦争の教訓から、機関銃や迫撃砲、それに野砲などの増強を行なっていた日本陸軍ではあったが、欧州での戦闘結果から、兵員の損耗を抑えるためにさらなる重装備が必要という結論が出ていた。

 すでに重工業化が始まっていた日本国内では労働力の需要が逼迫しており、それを反映して、日本軍では人間の命の値段が著しく上昇していた。

 軽々しく兵の命を損なうためには行かない以上は、敵軍にまさる砲火を叩きつけるしか無かった。

 さらに、師団規模の部隊でもって広大な満州で機動戦を行わせるためには、広大な偵察範囲を誇る飛行機の運用はもはや不可欠になっているといえた。

 ただし、黎明期とも言える飛行機は、未だ繊細で、それを操り、整備する人間は選抜され、十分な教育を受けたプロフェッショナルが必要だった。

 これら重装備化をすすめる師団を複数、新たに本土を遠く離れた大陸に展開させるには膨大な予算が必要となるだろう。


 また、強力な兵力を展開させるには遼東半島に押し込まれた関東州は狭すぎる。

 再び朝鮮半島に平時から展開するのは外交上難しかったから、満州鉄道沿いの土地に展開させるしかない。

 下手をすれば、縦深地でしかない満州の地を安定化させるために、せっかく抜けだした大陸への介入に再びのめり込まなければならないかもしれなかった。

 そのような事態になれば、陸軍の近代化、重装備化も画餅に終わり、そのための予算は、大陸での行動で使い果たしてしまうのではないのか。

 当時の日本政府はそのような悪夢に怯えていた。


 そして、広大なロシアの地をボルシェビキが完全に掌握した場合、その悪夢が現実のものとなる可能性は決して低いものではなかった。

 共産主義者が皇帝に取って代わったとしても、伝統的なロシアの南下政策がおさまるとは思えない。

 軍事的、経済的にみても、ロシアが栄えるためには不凍港が必要不可欠だからだ。

 むしろ、政治的な交渉が難しくなった分、ボルシェビキの方が強引な南下政策をとる可能性は高いのではないのか。

 日本や英国のような立憲君主制とボルシェビキの共産体制ではイデオロギーがあまりにも違いすぎる。

 政治的な妥協はありえても、日英と共産政権が同盟を結んだりすることは考えられない。

 それがいつかはわからないが、ボルシェビキが安定した政権を確立したときは、イデオロギーの違いから両者は闘争するのではないのか。

 そう考える政治家や財界関係者は決して少なくなかった。



 だから、陸軍参謀本部や日本政府がシベリア派遣軍にかける期待は大きかった。

 欧州に大兵力を派遣しながら、数少ない内地に残留していた部隊をやりくりして派遣軍を編成したのも、そのような悪夢を実現させないためだった。

 チェコ軍団救出を目的としたシベリア出兵は、実質上の内政干渉戦争であると強く米国は反発していた。

 だが、実のところ、米国が言うように、日本や英国が領土的野心を抱いているわけではなかった。

 彼らの目的は、あくまでもロシア帝室を復興させて、共産主義政権を打倒することにあった。



 しかし、日本国を始めとする、シベリア派兵を行った連合国は、共産政権を打倒するのは相当に難しいという結論を出さざるを得なかった。

 シベリアという、ロシア帝国からすれば、田舎といっても良い地方であっても、予想以上にボルシェビキ、あるいは彼らに同調するパルチザンの活動が活発であったからだ。

 それだけ強引なロシア皇帝の戦争指導は、破綻しかけていたということなのだろう。

 民衆レベルの反発は強かったのだ。

 だから、出兵から半年がたった今でも、シベリア派遣軍はかろうじてシベリア鉄道沿線を確保しているに過ぎなかった。


 それに、シベリア派遣軍が支援すべき白系ロシア人勢力は、赤軍に対してそれなりに強力ではあったのだが、あまりにも雑多な集団に過ぎなかった。

 ロシア帝国の復興という第一目標が困難であることに気がついた日本政府は、次善の策として白衛軍を中核とした傀儡政権の樹立を目論んでいる。

 そのような噂も流れてきていたが、それも難しいのではないのか、シベリア派遣軍司令部ではそう考えているようだった。

 白衛軍と一括りにしても、その内実は異なっている。

 いまは赤軍という共通の敵に対して戦ってはいるが、状況が落ち着けば分裂してしまうのではないのか。

 勿論、そうなれば膨大な戦力を抱える赤軍の数の前に圧倒されてしまうだろう。


 これを塞ぐためには白衛軍には何か、象徴的な、シンボルとなる存在が必要だった。

 だが、それが何なのか、前線で戦う日本軍将兵にはわからなかった。

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