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1943馬渡―ショルフハイデ10

 ドイツ軍によるソ連への侵攻、バルバロッサ作戦が開始された直後は、戦局は概ねヒトラー総統らの当初の予想通りに推移していたと言ってよかった。

 旧ポーランド領内のソ連占領側に駐留していたソ連赤軍各隊はいずれも脆弱で戦闘準備が整っておらず、部隊によっては統制の取れていない反撃を行ったものの、各地で迅速な進攻を行うドイツ軍に捕捉されて殲滅されていったからだ。

 ドイツ軍の一部には、6月の作戦開始時から半年後の年が明けるまでに、攻撃発起点から遥か千キロも先まで到達した部隊まであるほどだった。



 だが、その快進撃も長くは続かなかった。昨年、1942年初頭にはドイツ軍の先鋒がソ連首都であるモスクワまで僅か百キロほどの距離にまで達していたが、結局ドイツ軍はそれ以上東進することが出来ずに、それ以後はそこからずるずると後退を続けていた。

 実際には主戦場からはやや距離があったにも関わらず、ソ連はこのモスクワを巡る一連の攻防戦を第二次ヴィジヤマ会戦と命名して、その勝利を喧伝していた。

 同地は前世紀初頭に起こったナポレオン率いるフランス大陸軍によるロシア侵攻、ロシア側呼称の祖国戦争においても戦場となり、そしてここでの勝利がロシア帝国がそれまで負け知らずだった強敵ナポレオンの侵攻を跳ね返すきっかけとなったとされていたからだ。

 今次大戦におけるドイツとの戦争を大祖国戦争と呼称し始めたソ連首脳部は、ソ連人民に対して西欧からの侵略を跳ね返してきたロシア人の歴史的な意義を強調していたのだ。


 勿論、ソ連首脳陣はそのような歴史上の故事にばかり頼っていた訳ではなかった。ドイツ侵攻の直後に米国に渡ったソ連の外交責任者であるトロツキーは、同国内でドイツによる非法を訴えてアメリカ政府からの支援と同国民からの同情を引き出していた。

 同時に、ソ連は前線ではドイツ軍が侵攻してくる土地から国民や資産を退避させ、あるいはあらゆるものを利用できない様に焼き払って焦土作戦を実施していた。

 これは、予め想定された作戦ではなかった。単に現地のソ連赤軍がドイツ軍に対して劣勢であり、その侵攻を阻止し得ないと冷徹に判断されていたからだった。

 旧ポーランド領内に駐留していたソ連赤軍は、住民が疎開する時間を稼ぐために死守を命じられており、その多くが戦場で散っていった。



 だが、ソ連赤軍のそうした抗戦は無駄ではなかったとシェレンベルク准将らは判断していた。

 確かに機動力に勝るドイツ軍は、素早い機動の連続でソ連赤軍部隊の抵抗を迂回して進撃を続けていたものの、その侵攻が敵首都モスクワに届かなかった為に、取り残されたソ連赤軍は戦力を残したまま抗戦し、あるいは戦線後方でのゲリラ戦を行うパルチザンとして地下に潜ってしまっていたからだ。


 それに、ドイツ方面に展開していたソ連赤軍の主力は、ソ連侵攻を決意したドイツ軍がそうしていたように旧ポーランド領内に駐留するのではなく、かつてのソ連、ポーランド国境線付近に展開していたのだ。

 おそらく、これはドイツ側を刺激するのを恐れたソ連首脳部の判断だったのだろう。だが、結果的にそれがドイツ軍の迅速な侵攻を次第に遅延させる効果をもたらすことになった。

 緒戦での迅速な進撃に、ソ連赤軍は脆弱であると過剰に判断したヒトラー総統らドイツ首脳が、さらなる進撃を前線部隊に命じてしまっていたからだった。


 しかし、機動性を重視するあまり火力を軽視していたドイツ軍は、後方に取り残されたソ連赤軍残存部隊でさえ迅速に制圧することが出来なかった。

 陸軍総司令部などはソ連領内で反撃に出たT-34などのドイツ製戦車よりも有力なソ連戦車の出現などを重要視していたが、シェレンベルク准将らは個々の兵器の性能差よりも戦略的な判断を見誤ったことのほうが遥かに大きな影響を及ぼしていると考えていた。



 それに、ドイツ軍はソ連赤軍という敵国軍こそ捕捉殲滅、あるいは包囲下においたものの、重要なインフラ網の確保には失敗していた。

 これまでのポーランド戦、フランス戦、さらにはチェコなどの併合では、戦場ではともかく、その後の統治において確保した鉄道網が大きな価値を有していた。

 鉄道による移動は大量の物資を移送できるだけではなく、効率の上でもトラックを用いた移送などと比べて遥かに優れていたからだ。

 特にフランスで得られた同国内の鉄道網とその管理組織は、ドイツ国内のそれよりも部分的には優れた能力を有しており、現在でもドイツによる戦争遂行に欠かせない存在となっていた。


 バルバロッサ作戦でもソ連国内の鉄道網は優先して確保すべき対象に含まれていた。旧ポーランド領内の鉄道網は貧弱だったものの、友好国アメリカの支援を受けたソ連の鉄道網は、国内の自動車道整備の貧弱さもあってか、やはりドイツ国内のそれ以上の規模と質を有していたからだ。

 だが、これまでのドイツ軍の西欧での侵攻作戦などを対象に独自に情報を収集していたソ連赤軍首脳部は、そのようなドイツ軍の傾向を冷静に評価していた。


 一見すると支離滅裂に反撃に出ているか逃げ惑っているとしか思えなかった開戦当初のソ連赤軍だったが、実際には自軍の装備や将兵、一般国民よりも優先して機関車を東へ逃がすか、包囲網内にあって脱出が不可能であった場合は、修理の目処がつかないほど徹底して爆破を行っていた。

 結局、ドイツ軍が奪取出来たのは、駅構内の入れ替え作業程度にしか使用できないような老朽機や小型の機関車を除けば、疎開列車から取り残された僅かばかりの被牽引の貨車や客車に過ぎなかった。



 事前に確認されていたとおり、ソ連領内に敷設されていた鉄道網は優秀なものだった。一部の支線は貧弱な規格のものもあったが、幹線は軸重制限が大きく、ドイツやフランス本国に敷設されているものよりも、より大重量の長編成を連続して運行する事が可能だったのだ。

 ドイツ本国からでは鉄道網が貧弱な旧ポーランド領やそれに隣接する国境付近を通過する必要はあったものの、この鉄道網を縦横無尽に利用できれば前線への補給は容易なはずだった。


 だが、鉄道網自体は確保できたとしても、機関車の確保に失敗した事が、ドイツ軍の長期的な補給計画に蹉跌をきたすことになっていた。

 ソ連内に構築された鉄道網で使用されていた機関車の代替として、ドイツ製の機関車を投入することは短期間では難しかった。

 ドイツ国内や占領下の西欧諸国の鉄道網が標準軌を採用していたのに対して、旧ロシア帝国時代からソ連領内の鉄道網では標準軌よりも100ミリ近く軌間の取られた広軌を使用していたからだ。


 結局、ドイツ国鉄が保有する既存機関車を転用するために、占領地域内に存在する総延長一万キロを遥かに超える長大な路線の改軌作業を実施する羽目になっていた。

 効率を考えれば、鉄道網以外に陸路深く攻め込んだドイツ軍の兵站を維持する手段はありえなかった。ソ連領内の道路網の整備状況は数が乏しかった上に規格が貧弱であったために、効率を無視したとしてもトラックによる長距離輸送は実質的に不可能だった。



 ソ連領内のレールを僅か100ミリ移動させるのに必要な工数は、距離が距離だけに膨大なものになった。しかも前線の各部隊はその時も作戦行動中だったから補給物資の需要は大きく、改軌作業は迅速に実施しなければならなかった。

 ソ連領内の改軌作業には、ドイツ国鉄の作業員や工兵部隊だけではなく、緒戦で獲得されていた大勢の捕虜が動員されていた。むしろ、現場の工員にソ連人の捕虜や強制徴集した現地住民を充てて、高度な技術を持つ貴重なドイツ人の工兵などはこれを監督するという体制を取った現場がほとんどだった。


 だが、ドイツ軍の前線部隊にすら満足な補給物資を移送できないドイツ軍が、大量の捕虜に満足に食料や衣類などを支給できるはずはなかった。劣悪な環境下で長時間の作業に従事させられた捕虜は、少なくない数が命を落としていた。

 こうした状況は、工事の進捗にも大きな影響を及ぼしていた。投入された工数は膨大であったものの、作業効率が低いために出来高はそれに比例するとは言いがたかった。


 しかも、改軌作業を終えて標準軌仕様とされた鉄道網に続々と投入されたドイツ製の機関車は、過酷なロシアの冬季の環境に対応できなかった。温暖な西欧で運用されることを前提として設計されていた機関車は、外部に露出した配管が凍結し、開放部の多い運転台は作業性を悪化させてしまったのだ。

 ドイツ国鉄は、効率の悪化を承知の上で東部戦線の膨大な物資輸送需要に対応するために既存の機関車を次々と旧ポーランド領を越えてソ連領内に投入するとともに、配管構造の見直しと簡易化が徹底に図られた戦時急造型の機関車の量産体制の立ち上げを強いられていた。



 独ソ戦の開始から二年以上が過ぎた今、東部戦線における輸送体制は安定化していた。ただし、これはドイツ国鉄による努力が実を結んだ為だけとはいえなかった。


 一時はソ連首都モスクワ、第二の大都市にて旧帝国時代の首都でもあったレニングラードと言った要衝を望む線まで進出したものの、冬季の訪れによってドイツ軍の戦線は停滞してしまっていた。

 そして、時間はソ連に有利に働いていた。常勝のドイツ軍をモスクワ近郊で食い止めることにソ連赤軍が成功したことが国際世論をソ連側に傾けさせていたのだ。


 トロツキー外交委員長が訪問していたアメリカは、中立国としての立場は崩さなかったものの、民需品という名目で各種トラックや燃料油などの売却を認可していた。

 ドイツ海軍が手を出せないアメリカ国籍の貨物船でこうした豊富な物資が輸入される一方で、シベリア―ロシア帝国の動向を慎重に見据えながらもバイカル湖畔に駐留していたソ連赤軍の精鋭部隊から戦力が抽出されて前線へと向かっていた。

 さらに、新たに徴募された将兵の訓練も同時に進められており、これまでの戦争で獲得した大量の捕虜などを国内労働力に充てていてもなおすでに兵役に適した青年層が枯渇して居たドイツ軍を回復力の点で圧倒していた。


 この豊富な兵力を背景に、ソ連赤軍はここ二年の間でドイツ軍の侵攻を跳ね返し、反撃に出ていた。特に昨年暮れには南方軍集団指揮下の1個軍が包囲されて降伏するという緒戦時の攻守を入れ替えて再現したような状況まで生まれていた。



 次第にドイツ軍が戦線を後退させつつあることが、結果的に本国から前線部隊までの距離を短縮させると共に、新たな占領地の獲得がないことが鉄道網の再構築の手間を省いて鉄道輸送の状況を安定化させていた。

 それどころか、ドイツ国鉄や工兵部隊が捕虜たちの犠牲のもとに完成させていた標準軌への改軌作業は、一部では鉄道網を奪還したソ連軍の手で再度広軌に戻す改軌作業が行われていた。

 皮肉なことに、この広軌への改軌作業にはソ連軍に投降したドイツ軍の捕虜が従事していた。輸送船で物資とともにソ連入りしたアメリカの記者が、アメリカ製の食料や衣類を支給されて作業を行うドイツ軍捕虜の様子を全世界に報道していたのだ。



 ゲーリング元帥は渋面を作ってシェレンベルク准将から報告を受けていた。准将の副官が持ち込んだアメリカの刷られたばかりの新聞の一面には、恨めしげな顔を浮かべるドイツ兵捕虜が載せられていた。

 ソ連赤軍による反攻作戦を告げる新聞の見出しが、ゲーリング元帥にはどこか寒々しく感じられていた。

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