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1943馬渡―ショルフハイデ8

 幼い娘エッダがはしゃぐ声が扉の向こうから聞こえてきていた。

 エッダは喜びを隠そうともしなかった。純粋な娘の声に、扉に伸ばしていた手を止めて、思わずヘルマン・ゲーリング国家元帥は笑みを浮かべていた。



 後妻であるエミーとゲーリング元帥との間に生まれたエッダは、元帥が40代の半ばにしてようやく手に入れた一人娘だった。それだけに愛おしく、元帥にとっては何者にも代えがたい存在だった。

 その娘のはしゃぐ声で、客間に通された訪問者の正体を察したゲーリング元帥だったが、次の瞬間わざとらしく咳払いしていた。扉に手を伸ばしたままいつまでも娘の楽しそうな声を聞いていた元帥を、後ろに控える使用人が怪訝そうな顔で見ていたからだ。


 使用人と言っても、住み込みの常勤者ではなかった。ゲーリング元帥の邸宅カリンハル、その近くに住む村人の一人だった。

 カリンハルが建てられたベルリン郊外のショルフハイデは、森林長官と狩猟長官を兼任するゲーリング元帥がその権限で広大な自然保護区域に設定させていた。

 その保護区域は同時に、ゲーリング元帥が好む狩猟の場でもあったが、これまで元帥は空軍長官の職務で多忙であり、中々猟に出ることも出来無かった。

 そこで近隣の村に住む猟師を引退した老人を森番に雇って管理を任せていたのだが、最近はゲーリング元帥はその職務権限の多くを空軍総司令官代理のミルヒ元帥やシュペーア軍需省に移譲させられて半ば更迭されていた。

 敬愛するヒトラー総統に疎まれて更迭されたにも関わらず、皮肉なことにゲーリング元帥は森番の老人を共にカリンハルの猟場を回る生活に充実を感じていた。



 エッダの笑い声は途切れなかったが、ゲーリング元帥は自分の咳払いの直後に客間の雰囲気が変わったのを察していた。

 20年以上も前の欧州大戦当時、現役の搭乗員として空戦に挑んでいた頃の感覚が僅かに戻ったような気がして、元帥は不思議な感覚に襲われながらわざとらしく音を立てて客間の扉を開けていた。


 ゲーリング元帥の予想通り、エッダと共に客間に居たのはヴァルター・シェレンベルク親衛隊准将だった。エッダは振り返って父親の姿を見つけると、満面の笑みを浮かべながら、自慢するようにその小さな腕に抱きしめた真新しい黒犬のぬいぐるみを見せていた。

 ぬいぐるみは巨大だった。まだ5歳のエッダと比べても遜色ないほどの大きさに見えていた。元々のモデルは猟犬らしい成犬のようだったが、適度に可愛らしくデフォルメされたためか幼女が抱えても違和感は無かった。


 エッダに笑みを返しながら、ゲーリング元帥は母に見せてお上げといってそっと娘を扉の外に出していた。勢い良く頷いてから母親を探して駆け出したエッダを笑みを浮かべて見送ってから、元帥はシェレンベルク准将に向き直っていた。

 気がつくと、エッダが破いたのだろう包み紙と共に、客間には大きな箱が転がっていた。先程ぬいぐるみを取り出した時に散らかしたのだろう。ゲーリング元帥は名前を忘れてしまったが、シェレンベルク准将と共にいつも訪れる彼の副官の中尉が包み紙と箱を元の形に戻そうと努力していた。



「随分と早い時期に来たものだな。月報告には早いのではないかね」

 シェレンベルク准将が、ベルリンのプリンツ・アルブレヒト宮殿に設けられた親衛隊国家保安本部第六局の本部からこのカリンハルまで定期的に訪れるのは、ゲーリング元帥への戦況説明のためだった。


 ゲーリング元帥は、今年の夏頃から徐々にその職務を代理の者に奪われて、実質的に更迭されていた。

 開戦前に豪語していたほど自慢の空軍が機能せずに首都ベルリンへの組織的な空襲すら許してしまったことや、防空体制の強化を図ろうとした元帥の主張が、攻勢の継続を主張するヒトラー総統の方針とぶつかったことなどが原因と言われていた。


 だが実際には、ヒトラー総統とゲーリング元帥の意見が食い違ったのは、空軍の戦略方針だけではなかった。

 ナチス党幹部の中では対外穏健派で知られ、開戦前から国際協調路線を主張していたゲーリング元帥は、悪化する戦況を受けて、強敵ソ連と対峙する東部戦線に専念するために日英など国際連盟勢力との講和をことあるごとに進言していた。

 しかしヒトラー総統は戦争継続を強行する姿勢を崩そうとしなかった。近い将来に実戦配備が予想される画期的な性能を誇る数々の新兵器の存在などを根拠にしていたらしいが、それらの実戦投入がなされたところで、戦局の好転が見込めるとは思えなかった。


 実のところは、ヒトラー総統らナチス党首脳陣は単に自分たちが始めてしまった戦争を終わらせる覚悟が持てないだけではないのか。それに、ここで国際連盟との講和の道を探ったとしても、講和の条件はドイツにとってかなり厳しいものになるはずだった。

 少なくとも現政権やナチス党が現状のままで存続できるとは考えられなかった。親英、親日的な政権運営が強要されるだろうし、先の大戦におけるヴェルサイユ条約のように、講和に際して国家主権の存続さえ疑われるような厳しい条件が突きつけられる可能性もあった。



 もっとも、ゲーリング元帥が政権中枢から排除されたのは、また別の原因があるかもしれなかった。

 ナチス党はその党是として反ユダヤ主義を掲げていた。ドイツ、アーリア人種を存続させるために、劣等種を排除しなければならないとしたのだが、実際にはドイツ国民を団結させるためにその外部に敵を求めたというだけではないのか。


 しかし、ゲーリング元帥はナチス党幹部の中ではユダヤ人に対して温情的な態度を示すことが多かった。経済の上ではユダヤ人実業家の排斥などを自らの権限で実施したものの、強制収用などの処置には反対し続けていた。

 身近なユダヤ人や、ユダヤ系が疑われる人物を個人的に保護することも珍しくなかったし、フランス降伏後のヴィシー・フランス領マダガスカル島への欧州在住ユダヤ人の強制移住に関してもゲーリング元帥の意向が働いていたという噂も根強かった。



 元々マダガスカル島は前世紀末のドレフェス事件後に多くのユダヤ人が半ば強制的に移住しており、同島への強制移住は欧州からのユダヤ人の隔離という意味が強かった。

 だが、このマダガスカル島への強制移住が実施されなかった場合、ナチス党は勢力圏内の欧州に残るユダヤ人達を劣悪な環境の強制収容所などに追い立てようとしていたというのだ。

 おそらくゲーリング元帥がマダガスカル島への移送計画に携わったのは、同島への強制移住の方がまだましだとして、ユダヤ人にとっての最悪の事態を回避させるためだったのではないか。


 しかし、このようなゲーリング元帥のユダヤ人に対して寛容な態度は、以前より他の党幹部に反感を抱かせるのに十分なものだったし、それはヒトラー総統も例外ではなかった。

 中流階級出身の多いナチス党幹部の中にあって、上流階級出身で先の大戦では精鋭リヒトーホーフェン大隊を率いるとともに自らも撃墜王というゲーリング元帥の華麗な経歴は際立ったものだった。

 その経歴を活かして貴族層や経営者などからなる社交界に顔が利くゲーリング元帥は、彼らのような上流階級とナチス党との橋渡し役という重要な役回りを担ってきたいた。

 これまではそのような党内でも重要な立場にあったために、党是に反するとも言えるこのような態度は見逃されていたのだが、新たに設けられた軍需相に就いたシュペーアなどによって戦時体制が確立された現在では、元帥のそのような立場は軽視されるようになっていた。


 このように自らの立場が危うくなったにも関わらず、ゲーリング元帥がヒトラー総統に対して国際連盟との講和を訴え続けていたことが更迭の原因となっていたのではないのか。



 もっとも、航空省次官などの代理人に権限を奪われてゲーリング元帥が実質的に更迭されていたとしても、公的には元帥は未だに空軍総司令官の地位にあった。

 これまでの華麗な経歴とともに、ナチス党幹部の中では珍しく貴族的で華美な生活スタイルを隠そうともしないゲーリング元帥は、正反対に質素な生活を好むヒムラー親衛隊全国指導者などが信じがたいことに、一般国民から広範囲な支持を受けていた。

 そのように人気の高いゲーリング元帥の更迭を表面化させてしまっては、ナチス党内外に強い動揺を招きかねなかった。その為に表向きは戦時中の激務により体調を崩した為に病気療養という事になっていたのだ。


 表向きのことだけとは言え、空軍総司令官の職務から離れたわけではないゲーリング元帥は、空軍省などが置かれたベルリン中枢から離れたショルフハイデのカリンハルで日々を過ごしていたが、一応は総司令官の地位にある元帥に最新の情報を知らせる必要はあった。

 この処置をヒトラー総統に進言したのは国防軍情報部長のカナリス大将だった。大将がなぜゲーリング元帥への情報提供の必要性を進言したのかは、元帥には分からなかった。


 開戦前から国防軍情報部は親衛隊と対立関係にあった。国防軍とは異なる独自の諜報機関を優する親衛隊が、全ドイツの情報組織を傘下に収めようとしていたからではないか思われるが、もしかするとカナリス大将の進言はこの親衛隊との対立が原因だったのかもしれなかった。

 事実上更迭されたとは言え、未だにゲーリング元帥は上流階級や空軍内に一定の影響力を保っていた。国防軍情報部としては元帥のその影響力に期待していたのではないか。



 もっともゲーリング元帥のそのような推察が正しいのだとしたら、カナリス大将の思惑は外れてしまったと考えて良かっただろう。

 カナリス大将は、情報部高官のオスター少将を定期的にゲーリング元帥の元に寄越していたのだが、情報部と元帥との間に余計な繋がりが出来るのを恐れたのか、親衛隊もまた国外諜報を担当する国家保安本部第6局の局長を務めるシェレンベルク准将を派遣していたからだ。


 ゲーリング元帥はともかく、妻子はオスター少将よりもシェレンベルク准将の方に好感を抱いているようだった。ゲーリング元帥よりも少しばかり年上のオスター少将に対して、シェレンベルク准将がまだ30代の半ばにも達していない好青年であったのも理由の一つだっただろう。

 それに、オスター少将はカリンハルでも何処と無く淡々と事務的な対応に終始していたが、シェレンベルク准将は人好きのする笑みを絶やさず、ゲーリング元帥ばかりではなく、その妻子やカリンハルで働く使用人達にも分け隔てなく親しげな、同時にどこか慎みのある態度で接していた。

 エッダも出会ってから半年ばかりであるにも関わらず、定期的に訪れるシェレンベルク准将がお気に入りの様子だった。もっとも彼女の場合は、少将がカリンハルに来る度に持ってくるささやかなお土産に期待してのことかもしれなかったが。



 そのシェレンベルク准将は、ゲーリング元帥に向かって恭しく一礼しながら言った。

「クリスマスの時期には所用でベルリンを離れなければならなくなりましたもので、お嬢様に一足先に贈り物を用意させていただいたのですが、先程見つかってしまいまして……大変お騒がせ致しました」

 それを聞くなり、ゲーリング元帥はにやにやとわざとらしい笑みを浮かべながら言った。

「まだ5歳のエッダにクリスマスまで秘密にしておくプレゼントを見破られるとは、我がドイツの偉大なるスパイ・マスターにしてはお粗末なのではないかね。それにしてもあのように大きなぬいぐるみまで売っている店がまだベルリンにあったのか……物資不足で玩具屋などは皆閉店したと思っていたのだが」


「いえ、ベルリンではなく先日パリに赴いた際に買い求めたものです。最近になって我が軍の占領区域の縮小とヴィシー・フランスへの自治権移譲が進められた関係で、パリにも往時とまでは行きませんがかなり活気が戻ってきているようです。

 それに占領区域内でもレジスタンスに対抗するために現地の事情に精通した国家憲兵隊の専従捜査班の導入が図られておりますので、一時期と比べると治安も回復しております。

 それと……本当に隠したい小さな嘘は、大きな嘘の影に隠してしまえば見破られることは滅多にございません」


 芝居がかかった様子でそう言うと、シェレンベルク准将は副官が差し出したぬいぐるみが入れられていた空の大箱に手を突っ込んでいた。

 そして、怪訝そうな顔になったゲーリング元帥の手元に、魔法のように大箱の底から取り出した小さな箱を差し出していた。空箱というのは誤りだった。中に巨大なぬいぐるみが入っていたものだから、エッダもゲーリング元帥も箱が二重になっていたことに気が付かなかったのだった。

「同じくパリにて買い求めた一品です。スイス製のオルゴールですので、ぜひ閣下からクリスマスにお嬢様にお渡しください」


 ゲーリング元帥は、茶目っ気を含ませた笑みを浮かべたシェレンベルク准将の顔を唖然として見つめていた。だから、大箱を捧げ持った副官が引きつったような表情を浮かべていたことに気がついていなかった。

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