1943馬渡―ショルフハイデ2
今次大戦における日本陸軍重爆撃機隊の主力として大型の4発機である一式重爆撃機が採用されたことから、防護用の旋回銃を操作する同乗者の育成が急務となっていた。
一式重爆撃機は、従来機よりも格段に高速の上に、大口径の20ミリ機関砲を多連装式の砲塔で装備していたから、航法や偵察、通信を担当する同乗者が片手間に使用する7.7ミリ旋回銃の操作が前提の従来の教育課程では対応できなかったためだった。
従来は、航空機の操縦を担当する操縦者などと比べると、戦技専門の系統だった教育過程は軽視されていたといっても良かった。あるいは、単座機を除いたとしても、陸軍機の少なくない比率が偵察機や襲撃機で占められていたからかもしれなかった。
偵察、襲撃分科で使用されていたのは、軽快な複座機が大半だった。それらの同乗者の役割は、まず偵察や通信といった操縦者の補佐が優先されることになるから、育成過程における戦技の比率は低くならざるを得なかった。
防護機銃を操作する専門の同乗者育成の必要性を本格的に日本陸軍が意識したのは、今次大戦勃発直前といっても良い時期に採用された九七式重爆撃機の採用時だったのではないか。
勿論、日本陸軍で戦技教育を主に担当する水戸飛行学校も、一式重爆撃機の実戦機を転用した練習機を多数運用可能とするようにその規模の拡大が求められていたのだが、実際にはそれを実現するのに必要な隷下飛行場の拡充は難しい状況だった。その理由は単純なものだった。
陸軍には飛行場を設営する専門部隊である飛行場設定隊の他に、組織内に土木工事を可能とする工兵部隊まであったから、土地さえあれば大規模な飛行場の設営は可能なはずだった。すでに飛行場は存在しているのだから、本来であれば滑走路の延長や駐機帯の拡大を行えば済む話のはずだった。
だが、実際には既存の飛行場を拡充することはできなかった。すでに滑走路延長方向の用地が買収されていたからだ。
明治期の建軍時期であればともかく、大正年代を経て民主化が進んでいた今では政府や軍が強権を発動して、用地を強制収用することは難しかった。
それに実際には航空本部あたりが用地買収計画を進めたとしても、陸軍内部はともかく、おそらく内閣にも強い影響力を有するという企画院によって阻止されていたのではないか。
以前は一面に畑が広がっているような場所だったが、水戸東飛行場の滑走路延長方向の海岸地帯は、大手の電気機器製造業者である日立製作所やその関連企業によって買収されていた。
その広大な土地の一部は、資材保管所などの名目で野原のまま放置されているところもあったが、大部分は真新しい工場建屋が建築されていた。
日立製作所は水戸から程近い日立市を本拠地とする企業だった。日立の名は元を辿れば水戸光圀公の命名にたどり着くという由緒ある名だったが、厳密に言えば日立製作所の名前は地名からとられたものではなかった。
日立製作所は、同地で採掘を行っていた日立鉱山の関連部門が独立した会社だった。元々は鉱山で使用される機材の修理工場に過ぎなかったのだ。
だが、現在では親会社とも言える日立鉱山と同社の力関係は完全に逆転していた。日本初の電動機を製造した日立製作所は、現在では電動機に限らず各種電気製品を製造する国内有数の企業に成長していたからだ。
同社で製造される出力、精度の高い電動機は軍にとっても欠かせないものだった。特に今次大戦においては電探などの電機品を使用する兵器が増えていたから、各種電気機器の需要は逼迫していた。
それに日立製作所の製品は電気機器だけではなかった。同社では戦車などの重車両の製造も手がけていた。
実際に生産されているのは三式力作車や三式装甲作業車などの工兵車両だというが、これらの車両は三式中戦車と同設計の車体を用いていたから、少なくとも戦車級の重車両の製造能力は有しているようだった。
最もこれは以前より計画されていたことであるらしい。元々企画院では戦時生産体制の必要性から三菱一社による日本軍の戦車製造独占体制に危惧を抱いていたらしい。
海軍が実質上は戦車である九八式装甲車を開発する際に、小松製作所、日立製作所両社を製造業者に指定した理由はそのあたりにあったという噂を久慈少佐は聞いていた。
日立製作所が水戸東飛行場近くに確保した用地に建設した工場も、軍需品用の製造工場として指定されたものだった。それ故に企画院の口利きで相当額の補助金が交付されていたらしいと久慈少佐は聞いていた。
もっとも、工場で製造されているものは兵器としての完成品では無かった。電気関係の汎用部品らしい。各種電探や航空機に組み込むものらしいが、製造ラインそのものは小規模な改設計で民生品の製造にも転用出来る筈だった。
企画院もその程度のことは把握している筈だった。つまり助成金は単に今次大戦における軍需品の増産だけを狙ったものではなく、長期的な国力増大を主眼としたものだったのだろう。
そのように企画院が肩入れしている様に見える工場の廃止や移転を政府筋が容易に認めるとは思えなかった。それどころか、日立製作所側では逆に水戸東飛行場の用地の払い下げを希望しているのではないのか、そういう噂が流れていた。
単に工場の拡張を意図しているものではなかった。むしろ飛行場跡地には自社が入るのではなく、湊鉄道の延長を要望しているらしかった。
民営鉄道会社の湊鉄道は単線で営業路線もそれほど長くはなかった。終着駅近くには海水浴場もあったし、大磯神社など沿線に観光地もあったから、乗客数はそれなりにあるようだったが、経営状況が磐石とは言い難いものだった。
ただし、民間の鉄道ではあったが、鉄道院常磐線の勝田駅に乗り入れていたから連結はしているといえた。
その常磐線勝田駅は日立製作所と密接な関係があった。隣接する同社の水戸工場に以前から常磐線から分岐する専用線が引かれていたのだ。専用線は、朝晩の行われる戦時体制になって著しく増員されている従業員の輸送の他に、昼間は原材料や製造品の移送にも使用されていた。
引き出された貨物車両は、常磐線の貨物列車に連結されて更に目的地に向かうことになった。こうして有機的な物資人員の輸送路が構築されていたのだが、日立製作所や企画院ではこの輸送網に湊鉄道も連結させようとしているのではないか。
水戸東飛行場に隣接する工場の入搬出路が現状ないわけではなかった。貨物も取り扱う常磐線勝田駅までは自動車道があったし、海運も利用できた。
だが、複数の自治体を通過する自動車道は歴史が浅いだけにこのあたりでは貧弱な規格で作られたものが多かった。従業員が出退社に利用する乗り合いバス程度の運行や増便には支障がないが、大重量の製造品を連続して自動貨車で輸送するのは難しいかもしれなかった。
工場の大物貨物が出入荷する際に使用される主要手段は海運だった。というよりも、この工場はもともと海上輸送を前提として臨海地帯に建設されたのではないか。
日立製作所の要請で、同社の本拠地である日立市に隣接する久慈村に商港が設けられたのは、それほど前のことではなかった。もとから同地には小規模な漁港が存在していたが、同社で製造された大物電機品を輸送するために新たに設けられた港湾施設は遥かに大規模なものだった 。
久慈少佐も実際に見たことはないが、一万トン級の戦時標準規格船二型の着岸を前提として大規模な埋め立て式の桟橋が構築されているらしい。大容量の軌条式クレーンも設けられているというから、戦車程度の大重量品でも短時間で船積みすることが可能だという話だった。
それに比べれば、水戸東飛行場近くの工場敷地内の積み出し岸壁の規格は貧弱なものだった。戦時標準規格船でいえば一型相当の精々が600総トン程度しかない、海上トラックなどとも俗称される手頃な寸法のばら積み貨物船の着岸が可能な程度といったところだろう。
ただし、その設備が久慈村の商港と無関係というわけではなかった。鋼材や工作機械などの搬入にはばら積み貨物船が使用されることが多いが、大物製造物の出荷には直接貨物船に搭載するよりも艀を使用する場合が多いようだった。
艀に搭載された貨物は、曳船に引かれて中継地である日立港に一旦集積された後に、目的地まで向かう貨物船に搭載されるらしい。
最終生産品や補給用の物資などであれば、戦時中では目的地は殆どが遙か欧州の戦地近くになるはずだから、一万トン級の大型貨物船、それも主要要目が統一された戦時標準規格船ばかりで編成される大規模船団で輸送される事が多くなるからだろう。
もっとも主要な出荷手段が海運だとしても鉄道網との連結が無意味というわけではなかった。現在は水戸東飛行場の長大な滑走路を横切れないために湊鉄道を利用する従業員は少ないが、近隣まで路線が伸びてくれば湊鉄道が乗り入れている常磐線沿線の遠隔地から従業員を募集するのも容易になるはずだった。
勿論専用の引き込み線があれば、常磐線の連結を考慮すれば日常的な物資の出入荷には十分な能力があるのではないか。
おそらく、湊鉄道側でもこれは規模を躍進させる機会と捉えているのだろう。専用貨車の導入や増便の実施など手がけなければならない事業は多いが、工場建設時の経緯を考慮すれば同社にも助成金が交付される可能性は高かった。
戦後も沿岸工場地帯が継続されれば、最低限の資本投入で安定した事業の拡大を図れると考えているのかもしれなかった。
現在の湊鉄道は安定した需要があるとはいえなかった。飛行場で工業地帯と終着駅が分断されているお陰で乗客数も伸び悩んでいるし、那珂湊の漁港などから都市部へ出荷する鮮魚の輸送も行っているが、結局は漁獲量という鉄道会社には関与し得ない事象に左右されることに変わりはないからだ。
ただし、夏季には近隣の海水浴場に向かう乗客でごった返す事があるらしい。
今次大戦に日本帝国が参戦する前後は、そうした行楽行事も自粛する雰囲気があったのだが、フランス領インドシナの解放以後は日本本土から遠く離れた欧州周辺地域に戦域が限定されていたためか、去年度辺りから行楽客も戻ってきていると聞いていた。
久慈少佐は、まだ残暑が厳しい中で詰襟をきっちりと着込んできた矢坂大尉を見ながら、ぼんやりとそんなことを考えていた。乗客の多い常磐線ならばともかく、もう少しばかり早ければ浮かれた薄着の海水浴客の中で詰襟の軍衣は酷く目立ったはずだった。
東京のような大都会であれば、中央の海軍省や陸軍省勤務の将校の中には、大正時代頃から市電などを用いる出退勤時は軍衣を脱いで会社勤めのような背広姿になるものも少なくないのだ。
もっとも、それ程機会は多くはないが、矢坂大尉がこの水戸飛行場を訪れる際に湊鉄道を利用したことは無かったはずだった。これまではユ号班か、依頼された飛行場大隊の隊員が自動貨車などで常磐線勝田駅まで迎えに行っていたのだ。
だが、今日は急な訪問だったために、以前から予定されていた投下試験に実験機材を満載した自動貨車が全て駆り出されてしまったものだから、湊鉄道を使用することになってしまったらしい。
最近は投下試験の頻度が上がっていた。試験自体の詳細は当然のことながら周知されていたが、頻度が上がっている理由は不明だった。飛行場に駐留する班員たちの間では、水戸飛行場が射爆場として運用できる期限が切られたからではないのか、そういう噂が上がっていた。
湊鉄道の延長が実現化した場合、当然のことながら水戸飛行場をこれまでのように運用することは出来なかった。おそらく延長される路線は、現在の滑走路の端部を横切る形で設定されるだろうからだ。
現在でも大型の機体の運用に支障が出ているほどだから、滑走路が短縮されれば初等練習機のような軽飛行機、あるいは回転翼機の訓練専用基地にでも転用するしか無いのではないか。
勿論射爆場としての運用も難しくなるはずだった。単純に基地の面積が狭まるから投下可能な用地も減るし、現在もっぱら使用されている海岸地帯の砂地と基地本部施設との間が線路によって絶たれて連絡が難しくなってしまうはずだった。
仮に安全性などの問題を無視したとしても、不特定多数の民間人の目に触れる可能性が高くなるから、機密度の高い機材をここで運用することはできなくなるだろう。
噂によればすでに投下試験に用いられる代替地は用意されているという話だった。遥かに北の下北半島になるというから、海水浴場と隣接していた水戸飛行場とは比べ物にならないほど冷寒な地になるだろうが、それだけに機密の保持は容易になるのではないか。
久慈少佐はそう考えながら、矢坂大尉が吊り下げていた図嚢から無造作に取り出した書類を、気の無い様子で受け取っていた。おそらく投下試験を実施する射爆場の変更に関する書類だろう、そう考えていたからだった。
だが矢坂大尉は、生真面目そうな表情を崩すことなくいった。
「現地に自分の同期がいたので、早期に入手で出来ました先日の戦闘の詳報をお持ちしました。おそらく、少佐殿も気になっていたはずです」
呆気にとられながら久慈少佐は、手元の書類と表情の浮かんでいない矢坂大尉の顔に目線を彷徨わせていた。
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